tell me

 入院して二日目。記憶喪失と診断されている綾ではあるが、実際は健康で元気な分、病室で暇を持て余していた。朝の検診も終わり、ベッドの上に座りのんびりしながら、綾は手元の端末で情報収集をしていた。この8年間の出来事を知らない綾にとっては、数年前のニュースですら新鮮だった。
 零さんの話では、今日の朝に両親と兄夫婦がやって来るらしい。綾の記憶では兄嫁はまだ恋人という肩書きだったが、どうやらこの8年の間に結婚をしたようだ。自身の知らぬ間に家族が増えていたという事実には再度驚いた。きっと他にも、綾の知らない周囲の変化があるのだろう。正直、自身が知らない間の事というのは、好奇心が湧いた。過去の自分では知り得ない事を知る事ができるという、まずありえない現状にあるなんてまるで信じられない。しかし、これが現実なのだ。そうしてわくわくしながら調べものをしていると、病室のドアがスッと開いた。綾が反射的に顔を上げると、お見舞いにやって来ただろう母は目を見開き、慌ててベッドに駆け寄ってきた。
「大丈夫? 綾、お母さんが誰か分かる?」
「お母さんでしょ」
 分かるよ、と肩を竦めると、母は心底安心したとばかりに安堵の息をついた。後方に立っている父も心配そうな顔をしていたが、綾の元気そうな様子には安心したようだった。零さんから大体の事を聞いているのだろう、両親の心配そうな表情を見て、綾は罪悪感に襲われる。記憶喪失でもなんでもないのに、と言って安心して貰いたいが、8年前から来ました……なんて言ったところで、信じて貰えないのが非常に歯がゆい。両親の後ろから顔を出した兄も「俺のこと分かる……?」と控えめに尋ねてきた。それに頷くと、兄は泣きそうになりながら喜んでいた。兄が涙もろいのは相変らずであるらしい。そんな兄の隣に立っていた女性は、トントンと兄の背を叩いていた。彼女にも見覚えがあり、綾は何故だか感慨深くなった。綾の知る彼女は「兄の恋人」だったが、今は「兄の妻」であり「義理の姉」である。
「綾ちゃん、記憶が無くなったって本当? 私の事分かる?」
「分かります。お兄ちゃんの彼女……だったけど、今はもう奥さんなんですよね?」
 綾の記憶が無い部分を垣間みて、義姉は少しだけ悲しそうな顔をした。しかし、すぐに笑顔を浮かべ「良かった」と呟いた。零さんから状況を聞いてはいたが「思ったよりも元気そうで良かった」というのが家族の総意のようだ。お見舞いに来たということで、病室に椅子を並べ、家族はこの8年間の事を思いつく限り話してくれた。綾は大学卒業後、東京に残って就職したらしい。そして数年後、夫である零さんと出会ったのだと言う。「零さん」と当たり前のように家族の口から漏れた言葉を聞き、綾は今更、彼が本当に自分の夫なのだと実感した。自分が結婚していることを、零さん本人からしか聞かされていなかったが、こうして第三者の家族がそう言うのなら、本当の事なのだろう。今日は家族と一緒にお見舞いに来る予定だった零さんは、急な仕事で病院に来る時間が遅くなりそうだと、今朝連絡をくれた。彼がどんな仕事をしているのかすら知らない綾は、昨日からずっと彼の事が気になっていた。詳しい事は今日話してくれると言ってはいたが、第三者の意見も気になった。
「ちょっと聞きたいんだけど……零さんって、どんな人?」
「……あぁ、そっか。あなた、零さんの事が分からないんだったわね」
 母の悲しそうな顔が、綾の胸を柔く抉った。母のこの表情は、一体誰を思ってのものなのだろう。勿論、零さんの事を知らない綾に対してでなのだろうが、同時に零さんに向けられたものでもあると察した。やはり、綾がこんな事になって、零さんはショックだったのだろうか。ぼんやりとそんな事を考えていると、母はゴホンと咳払いをした。
「零さんはね、とにかく素敵な人よ! なんたってかっこいいし、優しいし、頭もいいし、なんでも出来るし!」
「そうよ綾ちゃん、それに真面目で、落ち着いてるし……!」
 零さんの良いところを伝えようと、母と義姉は揃って力説する。他人の男の良いところをベラベラ喋りはじめた二人の隣で、それを聞いていた父と兄は気圧されていた。
「それに、今年は年明けから凄かったのよ〜!」
「新年会での零さんてば、すっごくかっこ良かったんだから!」
「へぇ……」
「ほら、いとこの香苗ちゃんがいるでしょう? 香苗ちゃんの事ストーカーしてた男が、新年会の時にうちに乗り込んできてね……」
「えぇ……」
 そんな物騒な事が、新年早々にあったらしい。一体どういう状況なのか、二人が話してくれるのを聞きながら、綾は件の香苗ちゃんを思い浮かべる。香苗ちゃんとは、綾の三つ年下の、母の妹の娘さんである。大人しく慎ましい女の子だったように思うが、そんな彼女がストーカー被害に合っていると聞いただけで、かなり心配である。
 なんでも、執拗に交際を申し込んでは断られる……を繰り返していたストーカーが、何を思ったのか親戚も集まる新年会に乗り込んで来たらしい。わいわいと宴会をしていた部屋に乱入し、なんと親族の目の前で香苗ちゃんに公開告白をした。親族の前で堂々と告白すれば、香苗ちゃんはウンと頷くと思ったらしい……と後で聞いたが、全く持って思考回路が理解できなかった。そして香苗ちゃんは当然交際の申し出を断ったらしいが、その後ストーカーが豹変し、暴れ回りはじめたらしい。新年会が瞬時に修羅場に変わり「これは警察に連絡した方が……」と全員が思った辺りで、零さんが暴れ回るストーカーを抑え込んだ。殴る蹴るなどの暴力を振るおうとしたストーカーを軽くかわし、ストーカーを黙らせた零さんは、それはそれは息を飲む程の鮮やかな手際だったと言う。あまりに圧倒的な零さんに、見ていた親族は拍手をしてしまう程だった。そうして零さんが警察に連絡し、その後の事は全てスムーズに処理してくれたらしい。
「零さんっていつもニコニコして穏やかな人っていう印象あったんだけど、あの時の彼はなんというか……男の顔してたわ」
「そうね、凄くかっこよかったわ。その後はもう、親戚中で引っ張りだこになっていたし……」
「よくやった! ておじさま達に褒められてたしね」
「まぁその後、香苗ちゃんがうっかり零さんの事好きになって修羅場もあったけど」
 サラッと何か不穏な話が聞こえた気がしたが、二人は「それに零さんは……」と気にした様子も無く、更に話を続ける。ストーカーが乗り込んで来た話より、先程チラついた修羅場の方が気になる。しかし、そんな綾の事は知った事かと、二人は零さんの良い所についてたくさん話してくれた。その間、ただそこに座っているだけになっていた父と兄は、ジュースを買いに行くと理由をつけて病室を出て行った。二人の話を聞きながら、いろいろ複雑だったのかもしれない。
 そうして『降谷零』について散々話した後、両親と兄夫婦は、昼頃病院から帰って行った。退院した後、実家に戻るか? と尋ねられたが、綾はその返事を保留にした。「零さんと相談する」と理由をつけたが、散々聞かされた零さんについて、もっと知りたいと思った事が返事を保留にした要因である。ここ8年の事を知らない分、自身が良く知る家族のいる実家で生活する方が安心するのは確かだ。しかし、それよりも降谷零という家族の事が気になった。

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