again

 奥さん、とは誰の事なのだろう。
 綾が無言のままポカンとしていると、金髪の彼は痺れをきらしたのか、にこりと作った笑みを崩した。
「で、理由は?」
「……あの」
「何」
「奥さんって……もしかして、私の事ですか?」
 彼は綾の事を知っているようだった。そして話の流れから導きだされた可能性について尋ねると、彼は怪訝な顔をした。
「それ以外あるか?」
 何を意味の分からない事を聞いている? と言わんばかりの様子に、綾はドキリとした。もしかしなくても、彼が母の言っていた『零さん』なのだろうか。まさかとは思ったが、8年後の私は結婚しているらしい。しかも旦那さんは、こんなカッコイイ人なのだから更に驚きである。一体どういう経緯で彼と出会い、結婚するまでに至ったのか非常に気になる。気になるが、しかし、今尋ねるのはこんな事ではない。なんと切り出そうかと少しだけ悩んだが、目の前の彼の威圧感に気圧され、綾は思考がまとまらぬまま口を開いた。
「ごめんなさい。私、貴方が誰か分からないんです」
「……あまり笑えない冗談だな」
 綾の発言が癪に触ったのか、彼の声は少し低かった。もし本当に彼が綾の夫ならば、妻にこんなことを言われたら面白くないだろう。実は私は8年前から来ました、私は貴方の知る私ではないんです……なんて、とても言える状況ではない。事実ではあるが、これ以上下手な事を言うと彼を怒らせてしまいそうだ。どう説明すればいいのだろう……と戸惑っていると、目の前の彼は綾の様子に違和感を覚えたらしかった。先程まで険しい顔をしていたのに、少しだけ寄せた眉が緩んだ。
「……冗談だよな?」
「……ごめんなさい」
 相手を傷つけずに「あなたのことを覚えていません」と伝える手段はあるのだろうか。半ば降参状態の綾の様子から、言っている事が嘘でないと察した瞬間、金髪の彼は徐々に表情を無くした。まるで信じられないものを見るかのような目で呆然と綾を見下ろし、口は開くが言葉は声にならなかった。そして、綾が頭を打ったとでも思ったのか、怪我をしていないかとすぐに確認された。
「何があった?」
「分からないです……」
「自分の名前は分かるか?」
「分かります。糸見綾です」
「……他に、覚えている事は?」
 彼に尋ねられるがまま、綾はこれまでの経緯を話した。自分は大学生であること。昨日は課題で提出するレポートを作成しており、その後寝て起きたら見知らぬ部屋に居た事。そして今に至る事。信じて貰えるとは到底思えなかったが、今の綾が『異常な状態』である事は伝わったようだった。綾の話を聞いてから、彼は携帯を取り出してどこかに連絡をした。そしてその後、綾は強制的に病院に連行された。

* * *


 検査の結果、医者の話をかいつまむと、綾は原因不明の記憶障害と診断された。奇妙な事に8年間の記憶が無い以外は至って健康な綾は、数日入院した後、定期的に病院に通いながら様子を見るという事になった。八年後の世界に急にやって来たという認識の綾は、自身が記憶喪失だと言われて腑に落ちなかったが、綾以外の人間からしたらそれこそ症状の一種だった。なんとも言えぬ顔の綾の隣で、医者の話を一緒に聞いていた彼は、ずっと眉間に皺を寄せていた。
「私、貴方と結婚しているんですね」
「……あぁ、そうだよ」
 病室に通され、とりえずベッドの上に座った綾は、病室に入ってきた彼にそう尋ねた。先程から深刻そうにしている彼のことを、綾は全く知らない。しかし彼は、綾に8年の間の記憶がないという事実が相当に堪えているようだった。綾の質問に頷くのにも、やや間があった。どう対応したものかと戸惑っているようだったが、それよりも無理をしているように見えた。明るい部屋の中で今になって気付いたが、彼は少しだけくたびれていた。
「あの……お名前は」
「……降谷零だ」
 自身の名を答えてから、降谷は「なんだか、変な感じだ」と苦笑いをした。これまでぎこちない様子の彼ではあったが、細く長い息を吐き出した後、肩の力を抜いてから傍にある椅子に腰掛けた。
「驚いたかい? 君の知らない間に、俺みたいな男と結婚してたなんて」
「正直驚きました、なんというか……」
 急に、目の前のこの男が夫だと言われても実感が湧かない。夕方追いかけまわされた時は恐ろしい人だと思ったが、こうして落ち着いて話してみると、穏やかで優しい人だった。
「聞きたい事がたくさんありすぎて、何から言ったらいいか」
「まぁ……そうだろうな。俺も君に話したい事があるが、詳しい話は明日にしよう。今日は疲れているだろうし」
 記憶喪失扱いになっている綾を気遣ってくれているのだろう。色黒の肌に金髪といういかにも軽そうな風貌の人だと思ったが、所作には品があり、まるでチャラチャラした雰囲気は無い。医者とのやり取りからも、どちらかというと真面目な印象を受けた。だからこそ、綾は見ず知らずの目の前の男に、罪悪感を感じずにはいられなかった。
「退院したら一度、実家に帰るか?」
「え?」
「今の君は知らないだろうけど、俺は職業柄家を空ける事が多いんだ。数日はなんとかなるが、ずっと君と一緒にいられない。それに、君も家族に会えばリラックスできるだろうし、何か思い出せるかもしれない」
 家族。そう言う降谷も綾の家族のはずなのに、まるで自分を切り離しているようだった。記憶の無い綾を励ますかのように、優しく笑っている降谷ではあるが、その表情はどこか寂し気である。
 綾は彼の事を知らない。しかし、8年後の自分は彼の事を良く知っていたのだろう。何せ結婚しているのだ。結婚は、人生の一大決心と言っても過言ではない事だろう。そうして一緒になった自身の妻が、突然自分の記憶を無くしたらどうだろう。知り合ってから結婚に至るまでの全ての思い出を、忘れられたらどう思うだろう。自身に置き換えて想像した瞬間、心臓がぎゅっと締め上げられた。
「それじゃあ、俺はお義父さんとお義母さんに連絡してくるから……」
 綾の状況を説明しておくべきだろうと立ち上がった降谷を見て、綾は慌てて引き止めた。
「待って! あの、降谷さん」
「零でいいよ。君も……降谷なんだから」
「あ、そっか……零さん。きっと信じて貰えないとは思うんですけど、話を聞いてもらえませんか」
「何?」
「私、記憶喪失なんかじゃないです。本当に今、私は大学生で……でも何故だか突然、8年後の世界に来てしまって……」
 突拍子もない、ありえない事を口にしている自覚はある。しかし、目の前の人を見ていると何かを言わずにはいられなかった。彼に会ったのはたった数時間前だというのに、情に似た何かが綾の心に湧き上がる。
「だから私、決して貴方の事を忘れたわけでは無いんです。むしろこれから、貴方の事を知っていくはずなんです。だから……」
 彼との思い出が記憶から無くなった、という事を否定したかったがための言葉だったのに、自身でも何を言おうとしているのか分からなくなった。どう話を落ち着けるべきかと考えてみたが、勢いと衝動任せに口を開いてしまったせいでまとまらない。こんな訳の分からない事を言っているのに、じっと綾の話が終わるのを待ってくれている降谷に対して「ありがたい」と思ってはいたが、だんだん羞恥で彼の視線から逃れくなった。とんだ腰抜けである。
「降……零さんの事をこれから教えてくれませんか!」
 結局、綾の話は無理矢理着地するかのように終わった。ぐるぐると混乱しながらそう言い放った綾を見て、降谷はキョトンとしていた。その当然の反応を目の当たりにし、綾はみるみる紅潮していく。本当に何が言いたかったんだ私は、と頭を抱えたくなった。そして綾のそんな一挙一動を視界に入れて、降谷は軽く吹き出した。
「変わらないな、君は」
 クスクスと笑いながら、降谷は再び椅子に腰掛けた。素直に笑っている彼を見たのは、これがはじめての気がする。笑うと案外あどけない顔になるんだなぁと、少しだけ見蕩れた。
「夕方会った時にも、同じ事を言っていたな。君は、8年前の世界から来た、と言いたいんだな?」
「……信じては貰えませんよね」
「正直、信じがたいな。まだ、君が記憶喪失である事の方が現実味がある」
「ですよね……」
「しかし……可能性はゼロでは無い」
 ゆるりと目を閉じ、顎に指を当てて「うーん」と唸る降谷を認めて、綾はポカンと口を開けた。信じて貰えるわけがないと思っていたものだから、降谷の言葉には正直驚いた。
「……まさか、そんな風に言ってもらえるとは思いませんでした」
「個人的な事だが、これまでに信じがたい現実にいくつも直面したことがあってね。それでかな」
 ありえないなんてことは、ありえない。数年前に、この言葉を痛感したのだと、降谷は感慨深げに呟いた。
「それに……以前君が……」
「え?」
「……いや、何でも無い。この話は、またにしよう」
 何かを言いかけた降谷は、話を切り上げると同時に再び椅子から立ち上がった。今度こそ綾の両親に連絡するつもりらしく、ポケットから携帯電話を取り出す。
「それじゃあ、俺は一度家に戻るよ。君の着替えを取ってくるから」
「何から何まで、すみません。ありがとうございます」
「気にしないでくれ。普段の俺は君の世話になりっぱなしだし、それに……俺は君の夫だ」
 少しだけ言いにくそうにしながら、降谷は軽く笑って肩を竦めた。降谷の記憶が無い綾を戸惑わせまいと気を遣ってくれているのだろうが、少しだけ様子を窺われている事がなんとなく分かった。自分が「夫」と名乗って、綾が不快に思いはしないかと、確認されているような気がする。
 優しい人なんだろうな、と漠然と思った。初めて会った時は追いかけ回されて恐ろしく思ったが、かなり乱暴な逃げ方をしたというのに、フェンスから落ちそうになった綾を抱き寄せて助けてくれた。その後、様子のおかしい綾に気付いて病院まで連れて来てくれた。きっと仕事で疲れているのに、検査から今に至るまで、ずっと一緒に居てくれた。ずっと、綾の事を心配していた。今日会って数時間しか経過していないが、彼の表情、行動の節々から、綾の心を締め上げる程の想いが伝わってきた。
 きっと彼は、8年後の私の事を愛してくれていた。
「……零さんのような人と結婚出来て、八年後の私は幸せだったんだろうな」
 少しだけ気恥ずかしかったが、綾は思った事を素直に口にした。降谷を元気付けたいという気持ちもあったが、八年後の自分が羨ましいとも思った。この8年の間に、彼と自分の間にはどんな出来事があったのだろう。それを知らない自分が、少しだけ勿体なく思えた。いつか私も、彼に会う事ができるのだろうか。
 そんな綾の発言を耳にし、降谷は一瞬固まり、ベッドに座る綾を見下ろした。少しだけ驚いたような顔でそこに立ち尽くしていた降谷は、綾と数秒視線を合わせてから、スッと目を細めた。そしてゆるりと一歩を踏み出し、綾の座っているベッドに膝をついて乗り上げた。不意に迫った降谷に驚き、綾が「えっ」声を漏らしたと同時に、緩く腰に腕を回された。思わず背筋を伸ばした綾に気付いて、降谷はフッと息を吐くように笑い、綾の肩に顔を埋めた。視界の端に映る色素の薄い髪が、さらりと綾の首筋をくすぐる。
「本当に、君は変わらないな」
 耳元でそう呟いた降谷の言葉には、切実な想いが孕んでいた。それに息を飲んだ綾は、なんと答えるべきかと口を開いてみたが、上手い言葉は思いつかなかった。見つからない言葉の代わりに、綾は恐る恐る腕を上げて、降谷の背に添えた。スラリとした人ではあるが、背の広さは男のそれだった。
「嫌じゃないか?」
「い、やじゃないです……」
 自分がこうしていて不快ではないか? と尋ねられている事は分かったが、正直それどころではない。こんな風に抱き寄せられて、平静を保てという方が無理な話だ。そうしてガチガチになっている綾に気づき、降谷は肩を震わせた。どうやら笑われているらしい。クツクツという控えめな笑い声が、耳の傍で聞こえた。
「ゆっくりでいい」
「え?」
「俺の事を知って欲しい、それから……」
 言いながら、綾の肩から顔を上げた降谷は、穏やかな顔をしていた。すぐ目の前にある彼の表情に、綾は何かが根こそぎ持って行かれる心地がした。
「もう一度、俺の事を好きになってくれ」
 すでに、うっかり彼の事を好きになりそうだ。

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