Darling in the future

 零さんとは、誰なのだろう。
 一瞬疑問に思いはしたものの、今の綾はそれどころではない。父の「電話誰からだ〜?」という呑気な質問に律儀に返す母の声を聞きながら、綾は時間の経過にハッとする。この公衆電話に入れたのはたったの二十円である。よって通話の時間は非常に短く、貴重である。その『零さん』という人物がどういった人なのかは気になるが、今はそれよりも今夜の寝床である。
「お母さん、零さんの事はいいから、私の話を聞いて、」
『え? 違う違う、孫ができたって報告じゃないわよ〜』
 綾の話など聞いていない母は、どうやら父に『子供ができたのか?』と尋ねられたらしい。それを否定している母の言葉を聞きながら、綾は既に頭が痛い。そもそも私はまだ大学生である。結婚の予定も今の所無ければ、悲しいかな彼氏もいない。そんな事知っているくせに、何故そんな話に派生するのだろう。半ば苛々としはじめた綾ではあったが、しかし、ここで今自分がいるのは八年後の世界であると思い出した。
 もしかして、八年後の私は結婚しているのだろうか。そして子供がいてもおかしくない日常を送っているのだろうか。もしかしなくても、先程母が口にした『零さん』という人は、私の未来の旦那様なのだろうか。本来の目的を一瞬忘れ、ドキドキとしはじめた綾ではあったが、その間に無情にも公衆電話の通話がブツリと切れてしまった。「あっ」と間抜けな声を漏らした時には全てが遅く、ツーツーという規則的な音が綾に現実を知らしめる。
 なけなしの二十円も無くなってしまい、綾は途方に暮れた。家族を説得してここに来てもらおうと思ったのに、余計な事に気をとられ、なんとしても迎えに来て貰いたい事を伝えきれなかった。さっきの会話の感じでは、母は冗談と受け取ったようだ。これでは、駅にまで迎えに来てもらえないだろう。一瞬、緊急回線を使おうと思ったが、それは流石に躊躇われた。公衆電話から自宅に電話をかける事ができないと分かり、綾はのろのろと電話ボックスの外に出た。他に家に電話をかける手段はないだろうか……と項垂れながら、綾は公園を後にする。こうなったら、最悪その辺を歩いている人に頼み込んで携帯電話を借りて連絡をするしかない。そんな事を考えながら、公園の傍を歩く人々をぼんやりと眺める。見知らぬマンションから出たのは朝方だったというのに、気がつけばもう黄昏時である。そろそろ帰る場所の目処を立てないと、このままではこの辺りで野宿コースだ。状況の深刻さを再確認し、綾はいよいよ焦りだす。初対面の誰かに携帯を貸して欲しいと申し出るのは中々に勇気がいるが、そんな事を言っている場合ではない。ふぅー……と息を吐きながら、綾は誰に声をかけるか吟味する。前方には一組のカップルと、会社帰りのサラリーマン、学校帰りの女子高生の集団の姿が見える。どの人が頼みやすいだろう……と綾が様子を窺っていると、不意に右手の車道側で車の止まる気配がした。
「何やってるの?」
 急に声をかけられ、綾はビクリと肩を震わせた。声のした方に顔を向けた綾は、歩いていた歩道のすぐ傍に、いつの間にか白いスポーツカーが寄せてきていた事に気付いた。助手席の窓を開け、声をかけてきたのは見知らぬスーツ姿の男だった。明るい髪色に色黒の肌、整った顔を何やら怪訝そうに歪めている運転手と目が合い、綾は思わず後ずさりしそうになった。
 とてもカッコイイ人ではあるが、いかにもチャラそうだ。もしかしてナンパなのだろうか。何もこんな部屋着でうろついている女に声をかけなくとも、引く手数多だろうに。何か目的でもあるのだろうか。綾の頭の中で、警報が鳴り響く。今現在、誰でもいいから声をかけ、携帯電話を借りたいと考えていた綾ではあるが、彼にそれを頼むのは躊躇われた。なんというか、彼には言いようのないオーラがあり、気安く話しかけられなかった。
「いえ、ちょっと散歩を……」
「……は?」
 適当に誤摩化そう。そう思っての発言だったというのに、男は「何を言っているんだ?」と言いたげな顔で首を傾げた。散歩をしているというのは、そんなにおかしな事なのだろうか。綾も綾で意味が分からず疑問符を浮かべる。お互いに無言のまま視線を合わせる事数秒、運転していた男はハァとため息をつき、席に深々と身を沈めた。
「……まぁいい、とりあえず乗って」
「え?」
 何故そうなる。固まっている綾をよそに、男は先の方に視線を向けてから、数メートル向こうにある広いスペースを指差した。
「あそこに車をつけるから、そこで……って、オイ!」
 見ず知らずの男の車に、平然と乗る人間がいるか。いくら相手が見目麗しい男だとしても、この状況で、こんな軽々しく誘ってくるなんて怪しい事この上ない。
「すみません、私急いでるんで!」
 幸い相手は車、こちらは徒歩である。丁度視界に入った狭い裏道に逃げ込んでしまえば簡単に撒けるだろう。とりあえず断わりの言葉だけを投げ、綾はまるで逃走するかのように裏道に入った。思いの外狭く暗い細道の先がどこかなんて分からないが、適当に歩いていればどこか広い道に出るだろう。
 気持ち早足で歩きながら進む事数分。その間に綾は冷静になり、ある事に思い至った。先程はナンパか何かかと思って咄嗟に逃げてしまったが、もしかしたら彼は知り合いだったのかもしれない。声の掛け方が気安く、簡単に「車に乗れ」と言ったのもそのためなのではないか。今になってそれに気づき、綾は半ば呆然とした。かっこいい年上の人に免疫が無かったせいもあり、とっさに拒否をしてしまったが、もし彼が知り合いならば、この状況から抜け出せたかもしれなかった。あまりにも動揺していたせいで上手く頭が回っていない自分が恥ずかしく、綾は思わず立ち止まる。もう少し話をしてみれば良かったと、今更後悔したところで全てが遅い。
 踏んだり蹴ったりだな……なんて自身にため息をつきつつ、綾はゆるりと後方に振り向いた。今来た道を戻ったところで、きっと先程の彼は居ないだろう。そう思って何気なく、確認の為に振り向いたつもりだったが、裏道の先に見覚えのある人影を見つけ、綾は目を見開いた。遠目でしか確認出来ないが、色素の薄い髪に、グレーのスーツ。黙々とこちらに向かって歩いて来る彼は、間違いなく先程の白いスポーツカーの運転手である。もしかして追ってきたのだろうか。表情は確認できないが、何やら重々しい雰囲気でこちらに歩いて来る彼は、綾が振り向いた事に気付いて走り出した。
「ヒッ!」
 もしかしたら知り合いなのかもしれない。そんな呑気な事を考えていた自分が馬鹿だったのではないかと思う程に、走り出した彼の形相は恐ろしかった。更に追い打ちをかけるように、彼の足は異常に早く、結構開いている距離を簡単に詰めてきそうである。迫り来る恐怖に震えた綾は、泣きそうになりながら咄嗟に走りだした。
 怖い怖い怖い! 捕まったら一体どうなるのだろう、殺されてしまうのだろうか。まるで平和な日常から遠い事を連想し、綾は死にものぐるいで裏道を駆け抜けた。綾は足が遅い方ではない、しかし、追いかけて来る彼の足の速さには到底及ばず、大きくなる足音に戦慄する。このまままともに走っていては、すぐに捕まってしまう。どうしよう、どうしよう……なんて回らない頭で考えていると、裏道の出口の先の突き当たりにフェンスを見つけた。曲げた針金でできているそれを見て、綾の頭に妙案が思い浮かぶ。
 綾はスポーツ科に所属する現役大学生である。ちなみに運動部員で、少なくとも運動する事においては普通の人よりも自信がある。だからこそ、目の前に見えた丈の高いフェンスと、その向こうに見える狭い川を認めて、綾は全速力で走った。後ろに迫る足音が大きいが、気にして振り向いたら負けである。そうして後ろを振り向かぬまま勢い良く踏み込み、綾は地面を蹴って飛び上がった。そのまま片足をフェンスにひっかけ、更に高く飛んだ後、フェンスの頂上を手で掴み、勢いをつけたまま乗り上げた。細いフェンスの上に足をつけ、しゃがむような体勢で一瞬静止した綾は、チラリとフェンスの下に視線を向ける。いくら男と言えども、この綾の身のこなしには驚いただろう。追いかけて来た感じから随分足は速いようだったが、これで不意を打てば撒けるはずだ。しかし、そう思って視線を動かしたというのに、綾の予想した場所に男の姿は無かった。先程まで綾のすぐ後方に迫っていたというのにおかしい。そんな疑問に綾が首を傾げる前に、ガシャリとフェンスが揺れた。
「何のつもりだ?」
 ヒュッと喉の奥から呼吸が漏れた。恐る恐る自身の正面に視線を戻した綾は、自身と同じような体勢でそこに佇んでいる男と目を合わせた。いつの間にそこに乗り上げたのか、細いフェンスの上にしゃがんでいる金髪の男は、真直ぐな瞳で綾を射抜いた。本当に綺麗な顔をした人だと、場違いにも思考を奪われた綾は、そのまま動けずに呆気にとられた。逃げられない。漠然と確信した綾は、そうでなくても不安定なフェンスの上で意識を持っていかれたせいで、体のバランスを崩した。当初の予定では、このままフェンスを越えて、狭い川の向こう側に飛んで逃走するつもりだったのに、何もかもが想定外である。そして右側に傾く体を引き止めようとなんとか踏ん張ったところで全てが遅く、綾はフェンスの向こう側に落ちて行く。このまま落ちれば、川を囲うコンクリートに叩き付けられてしまう。自身に降り掛かるであろう痛みを恐れ、綾はぎゅっと目を閉じた。しかし、体は傾いたまま落下する事無く、不意に抱き寄せられたことでコンクリートとの激突は回避された。どうやら目の前にいた男が助けてくれたらしいが、綾は彼とのあまりの密着具合にそれどころではない。明らかに年上で、しかも直視できない程にかっこいい人に抱き寄せられているという、この状況が上手く飲み込めない。はっきり言えば免疫が無い。ガチリと固まっている綾を抱えたまま、彼はゆっくりとフェンスから降りて、綾を地上に立たせてくれた。お礼を言わなければ、と口を開きかけた綾ではあったが、目の前でオーラを放つ男に動揺し、かなり挙動不審になってしまった。まるで同じ人間とは思えない。見れば見る程、本当に綺麗な男の人だ。しかも触れた感じ、見た目より体はしっかりとしている。
「もう良い歳なんだ、あまり無理はさせないでくれ」
「す……すみません……」
 思いの外、助けてくれた彼の声は優しかった。フェンスを登ったせいで皺の入ってしまったスーツを整え、目の前の男はゆるりと腕を組み、綾を見据えた。呆れたような、戸惑っているような、そんな複雑な感情がないまぜになったような表情だった。
「……で、なんで俺から逃げたのか正直に話して貰おうか、奥さん?」
 奥さん。何か信じられない言葉が聞こえた気がするのだが気のせいだろうか。にっこりと笑っているのに、空気が笑っていない男を呆然と見上げてから、綾は彼の左手の薬指に嵌った指輪を視界の端で捕えた。

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