spark

「糸見さん、こちらのお客様と相席でもよろしいですか?」
 いつもの休日。相も変わらずポアロでコーヒーを飲み、この店お馴染みのサンドイッチを堪能していると、不意に安室に声をかけられた。
 近所で何やらイベントがあったせいで、今日の喫茶ポアロは流れて来た人でほぼ満席である。カウンター席すら埋まり、唯一空いているのは綾の座る二人席の片方だけだ。先程来店を知らせるベルが鳴った時からそうなる気がしていた。

 申し訳なさそうに頭を下げ、男性が綾の正面に座る。彼はすぐに注文の品を決めてしまい、その旨を安室に伝えていた。先日、怪しげな男達に倉庫に閉じ込められていた時の一件について、安室から話を聞こうと思っていたが、この状況では難しいかもしれない。コーヒーを飲みつつ、店内を歩いている安室をぼんやりと目で追っていると、不意に相席の男性に「あの、」と声をかけられた。
「――好きですか?」
「えっ」
 一瞬何を言われたのか分からなかった。思わず瞬きを何度か繰り返し、目の前の男を凝視する。グラスを片手に、こちらが質問に答えるのを何の気無しに待っているようだった。好きですか? とは何だ。数秒思考を巡らせてみたが、どう考えても先程から自分が安室を見ていた事を指摘されたようにしか思えなかった。そんなに分かりやすいものなのだろうか。まさか、初対面の男性に指摘されるとは思わなかった。
「……そんなに分かりやすいですか?」
「はい?」
「私が、安室さんが好きだって」
「……えっ?」
「え?」
 男性はキョトンとした後、首を傾げた。
「安室さんが好きなんですか?」
「えっ……さっき、そう聞きませんでした?」
「いえ。このお店で何が一番好きですか、と……聞いたつもりだったんですけど」
「…………」
 聞き取れなかったにも程がある。赤面に赤面を極め俯くと、トドメの一撃とばかりに男性の注文の品が届いた。
「お待たせしました」
 よりによって持って来てくれたのは安室である。いつもならチャンスだとばかりに雑談のひとつでも振るのだが、先程の話の流れから流石に何も言えなかった。先日の事件についての話がしたかったが、ここで安室に話しかけようものなら「この人どれだけ安室さんが好きなんだ」と目の前の相席の男性に思われてしまう。いまさら何を恥ずかしがる事があるのかと思ったが、目の前の男性客がチラリと安室を見たものだから、何も言えなくなってしまった。周囲に好奇の目で見られる事には慣れているが、やはり居心地が悪い事には変わりない。まるでお見合い会場で初対面を果たした慣れない男女のように硬直し、気まずく据わりの悪い空気を漂わせている二人を見て、安室は首を傾げる。
「……どうかしましたか?」
 幸い先程の会話は聞かれていないようである。それに安堵しつつ、テーブルに置かれたコーヒーのカップをサッと持ち上げる。
「いえ、なんでもないです」
 ハハハと適当に誤摩化し、勢いでコーヒーを傾ける。安室は腑に落ちないような顔をしたが、さして興味もないのか、深くは尋ねずそのままカウンターの方に戻って行った。その対応がありがたいようなそうでないような、一抹の寂しさを感じながらも綾はホッと安堵する。そんな綾の様子を見て、様子を窺っていた相席の男も安心しているようだった。彼には関係ないのに、余計な気を遣わせてしまったかもしれない。
「すみません……」
「いえ」
 ははは、とお互いに苦笑いを浮かべた後、気まずくさで無言になる。今日が初対面という事もあって会話のネタもなく、二人して黙々と食べ物を口に運ぶしかなかった。注文したサンドイッチの最後のひとつをつまみつつ、綾はチラリと相席の男を窺う。穏やかそうな雰囲気の男は、注文したチースケーキに丁寧にフォークを入れているところだった。あのケーキは綾も食べた事がある。中に入っている甘酸っぱい果肉がチーズクリームと絶妙に溶け合い、ほどよい酸味と甘みで人気のある一品だ。一部を一口大に食べやすくカットされたそれを、彼はそのまま口にするのだろうと思っていた。しかし相席の男は、それを更に半分にカットし、断面を覗く。彼の奇妙な行動を暫く盗み見てはいたが、相席の彼は一向にそれを口に運ぶ気配がない。ケーキの断面を妙に観察し、チーズクリームの中に入っているものを探し出し、それを見極めているようだった。ケーキを綺麗に解体していると表現するべきか、目の前の男性は真剣な目でケーキを見ている。ただ目の前のスイーツを楽しんでいるというような、そんな雰囲気でない。奇妙に思いながらその顔をひっそりと窺って数秒、綾は「あれ?」と引っかかりを覚える。この男性をどこかで見た事があるような気がする。どこだっただろうか……と思考を巡らせれば、すぐに一つの答えは出た。まさにここ、喫茶ポアロだ。先程まで気付かなかったが、そういえば彼もよくこの喫茶店に足を運んでいる客の一人だ。一人でケーキを黙々と食べていたように思う。しかし、それだけだっただろうか。目の前の男をまじまじと見ながら、何かがもう少しで掘り起こされそうな気配を感じ取る。誰だったっけ、どこで会ったっけ、とあまりにも凝視していたせいか、相席の男性はついに、綾の視線に気付いて顔を上げた。
「あの、何か……?」
 申し訳なさそうに顔を上げた彼は、フォークを動かすのをやめた。非常に居心地悪そうにしているが、こんなにじっと見られていれば当然だ。しかし綾も綾で、彼の事が喉まで出かかっているのだ。そうして「どこかで会った事がありませんか?」とナンパ地味た言葉がでかかった時、急に彼の名前を思い出した。
「あっ」
「え?」
「もしかして、神山さんじゃないですか?」
 神山さん。未来の世界で会った事のある人物だ。そういえば彼は零さん……否、安室さんと面識があった。成る程、喫茶ポアロに通っていたからお互いに顔見知りだったのか。それに彼は、私と初めて会ったのは喫茶ポアロだとも言っていた。何もかも辻褄が合う。そして開口一番、私が「安室さんが好きです」と言い放ったと言っていた彼の言葉が、本当の事なんだとも分かった。もう少し早く彼に気付いていれば、この恥ずかしいカミングアウトをせずに済んだかもしれない。しかし、今の綾はそんなことより、未来で会った顔見知りとの再会に高揚する。
「そうですけど……何故僕の名前を?」
「えっ」
 己の軽率さを後悔するのは何度目だろう。不審に思われて当然の発言をしてしまい焦るが、なんとか誤摩化すしかない。
「あの……前に神山さんが働かれているケーキ屋さんに行った時に……」
 ここまで言った後で気付いた。未来の世界で会った彼は確かにケーキ屋でパティシエをしていた。しかし、今はそうだと限らないのではないか。たった数年、されど数年である。失言だったかもしれないと不安を過らせた瞬間、神山はパッと顔を上げた後、キョロキョロと辺りを焦ったように見渡した。そしてテーブルから身を乗り出し、コソコソと耳打ちする。
「ご存知だったんですか、僕の事」
「はい……」
 どうやら不審には思われていないらしい。今もケーキ屋で働いているという事で間違っていないのだろうが、綾はこれ以上余計な事を口にしないように口元を引き締めた。すぐにボロを出してしまいそうだと冷や冷やしつつ、手に取ったカップは僅かに震えた。神山は椅子の前の方に腰掛け直し、この店の店員である梓や安室を気にしながらも、素直に白状した。
「実は敵情視察で来ているんです。どうかこの事は内密にして頂けませんか?」
 切実そうにそう言う彼の言葉に頷くと、神山は安堵の息を漏らした。ふうと一息ついてから、まじまじと綾の方を見る。
「いつから気付いていたんですか?」
「本当についさっきです」
「そうですか……」
 やはり変装くらいはするべきだったか、と神山は唸る。雑談ついでにどこのケーキ屋で働いているのか聞きたいところではあるが、彼の勤め先を知っているという事になってしまっているので、この質問はできない。手元にあるチーズケーキにフォークを入れつつ、綾はあたり障りのない質問をした。
「今、特におすすめのケーキってありますか?」
「……ポアロの、ですか?」
「いえ、神山さんの所の」
 未来の世界で彼が働いていたケーキ屋が今、存在しているのかは分からない。存在しなかった場合、おすすめのケーキから神山の勤め先を特定できるとは思えないが、少しくらいの手がかりくらいにはなるはず。そんな思惑を混ぜた言葉ではあったが、神山は少しだけ嬉しそうな顔をして、顎に手をあてた。
「そうですね……。まだ店頭にはお出しできていないんですけど、今力を入れているのは胡桃を使ったタルトですね」
 近日中にお店に出す予定で……とポツポツ語る神山の言葉を聞きながら、綾は驚きでやや目を見開く。未来の世界で、綾が食べたケーキがまさにそれだった。いつかの散歩の途中にお店に寄り、神山と初めて会ってから、自分と夫の分の二つのケーキを買って帰った。苺のムースケーキと胡桃のタルト。零さんが苺を選んだから、自動的に綾は胡桃のタルトを食べる事になったのだ。こんな偶然があるのだろうかと感激すると同時に、それをもう一度食べてみたくなった。未来で食べた懐かしの味、と言うと酷く矛盾しているが、何も間違っていないので不思議だ。これはどうにかして彼の勤め先の正確な場所を聞き出さなければならない。
「胡桃のタルト、私も好きなんです」
「本当ですか?」
「ええ」
 こそこそと話している中で、神山も表情を明るくしていく。
「僕の名前を覚えて貰えていた上に、新作を食べたいと言って貰えるのは初めてで……! しかも、こんなところでそういうお客様にお会い出来るなんて」
 喜びが抑えられない、と言わんばかりの彼の様子が微笑ましい。さて、これからどうやって勤め先を教えて貰おう……と綾が前のめりになった時、不意に傍で誰かの気配が揺れた。
「何やら楽しそうな話をしていらっしゃるようで」
 ビクリと肩を震わせ見上げると、そこには安室が立っていた。先程近くの席に座ったばかりのお客さんに注文の品を運んだ帰りなのか、お盆を片手に持っている。ニコニコと友好的な笑みを浮かべている安室は、お盆を傍にあるカウンターに置いてから、ウォーターピッチャーを手に取った。そして水が少なくなっている綾のグラスに、冷たいそれを注いでくれる。呆気にとられつつ二人で硬直していると、安室はやや演技がかったように腰に手を当てた。
「胡桃のタルト、僕も興味があるんですよ。お勧めのお店等あれば教えて頂きたいんですが」
 聞かれていた。それも詳細に。嫌な汗が背筋を伝う。
「…………」
 神山は、自身が敵情視察に来ている事が安室にバレたのかバレていないのか、どちらか図りかねているようだった。しかし綾はすぐに分かった。このわざとらしさ、勘の良い安室が気付かないはずがないのだ。分かっていてしらばっくれている。お勧めのケーキ屋という名の、神山の勤め先を暴こうとしている。状況を把握した綾だけが、一人追いつめられる。
「どうかしました?」
 本当に安室という男は、シラを切るのが上手い。

back  next