stick to one's guns

 仕事の後、職場の人の誘いで飲み会に参加しての帰路の途中。なんとなく気分も高揚した事、そして店からの帰宅ルートにポアロがあった事などもあり、わざわざ徒歩で自宅に向かっていた。夜も遅くポアロが開いているわけでもないが、外観だけでも眺めたいと思った。先週は仕事が立て込み日課のポアロ通いができなかったから、安室さんが恋しい。店に行ったとしても必ず安室がいるわけでもないから余計に。
 以前、遠出をした際に買った土産を安室に渡そうとポアロに通った二週の間、安室が全くポアロに現れなかった事がある。その間に土産の賞味期限が切れてしまい、もっと長持ちするものを買えば良かったと後悔した。ポアロに通えば会うきっかけにはなるが、安室はいつもそこにいるわけではない。この店でしか安室との関わりが無い綾にとっては深刻な問題だった。辛うじて連絡先は知っているが、必要のない連絡はしてくれるなと安室に暗に釘を刺された。恐らくしつこく連絡を入れる方が彼に嫌われる。探偵の仕事も警察の仕事も忙しいだろうし、当然だと思った。
 ここに通うようになってそれなりになるが、まるで安室と進展していない。その事実にため息をつきつつ、綾は手首に巻いた腕時計を擦る。未来の世界から持って来た安ものの腕時計は頻繁に身につけているせいで、最近ベルトがくたびれてきた。そろそろ身につける回数を減らした方がいいかもしれないと考えながら、綾は視界に映り始めたポアロを見やる。薄暗闇の中では非常に見つけにくい外観だが、今日は珍しい事にすぐに判別がついた。それもそのはず、営業時間を過ぎているのに店の明かりがついている。思わず小走りで店に駆け寄り、ガラス越しに店内を覗こうとしたがブラインドで中の様子が窺えない。
 誰がいるのだろう。もしかして安室さんだったりして。自分の都合の良い予想を並べた後、虚しくなってため息をついた。安室さんがこんな遅くまで店にいるはずがない。居るなら十中八九店長だろう。そう結論付けて肩を落とした時、不意に目の前のブラインドが揺れた。刑事ドラマよろしく、ブラインドに指をかけ外の様子を確認したのは、まさに会いたいと思っていた人だった。ガラス越しに視線を合わせてコンマ数秒、綾は思わず後退する。それを見た安室は苦笑いを浮かべてから、ブラインドから指を離す。暫くして、ポアロの店のドアが開いた。
「どうされたんですか糸見さん、こんな遅くに」
 エプロンをつけたまま、安室がひょっこりと顔を覗かせる。安室さんがいたらいいのにとは思っていた。しかしまさか、本当にいるとは。
「安室さんこそ、こんな遅くまでポアロにいるんですね」
「実は新作のケーキについて、ちょっと試していたんですよ」
 研究熱心な事だと感心しつつ、綾は肩にかけたカバンを持ち直す。
「安室さん、ポアロでメニューまで考えたりして、凄く忙しいんじゃないですか?」
「まぁ、そうですね。しかし、慣れてしまうと訳はないですよ」
 ハハハと笑いながら、安室は頬を指で掻いた。
「逆に忙しくないと落ち着かないというか……僕、本業は探偵ですし」
 暗に探偵の仕事が減り暇になるのが恐ろしいと言う安室の言葉を聞きながら、綾もクスクスと笑う。本業は警察官だろうに。しかしワーカホリックな部分のある彼らしいとも思う。
「ふふ、そんな感じがします」
 警察の仕事に探偵に喫茶店員。もしかしたら他にも仕事を請け負っているかもしれない。一体いくつの顔を持っているのだろう。未来の世界で夫に教えて貰った事も全てではないのかもしれないと思い至ると、少しだけ切なくなった。今日は安室と少しだけでも話せて良かった。そうで無くても彼は忙しいのだし、さっさと帰ろうと綾は片手を上げる。
「お仕事頑張ってくだい。それでは、」
「ちょっと待ってください」
 帰ろうと一歩踏み出した足を止め、綾は振り返る。
「何ですか?」
「いや……」
 呼び止めた本人の方が若干戸惑っていた。言いにくいのか、安室にしては珍しく言い淀んでいる。気難しそうな顔をしている安室を眺める事数秒、やっと吹っ切れたらしい彼は顔を上げた。
「実は新作がついさっき出来たんですよ。良かったら味をみていきませんか?」
「えっ、いいんですか?」
 仕事の邪魔になったら申し訳ないと退散しようとしていたが、なんとケーキの味見をして欲しいらしい。それは願ってもいない頼みだと速攻で頷く。綾のあからさまな反応に安室は呆れたように笑いつつ、ポアロに招き入れてくれた。閉店の看板が下がったドアの向こう、いつものカウンター席に腰掛けた綾は、いそいそとカバンを隣の椅子の上に置いた。
「糸見さん、さっきまでお酒を飲んでいましたね?」
「えっ、お酒の臭いします?」
「少し」
 しまったと口元を覆うと、安室はさりげなくカウンターに温かいお茶を出してくれた。小さな葉っぱの浮かぶお茶の匂いには覚えがあった。
「ハーブティーですか?」
「ええ。喫茶アポロのハーブティーを参考にしてみました」
 この店と名前が二文字しか違わない喫茶アポロは、二人きりのデート(暫定)で行った店だ。ハーブティーが売りのあの店のお茶を安室は大層気に入っていたから、こうして自分でも作ってみたのだろう。
「ただ同じ事をしていては差別化もできないですし……今回は気になったものがあったので、試しに作ってみただけです」
「へぇ」
 気になったものとは何だろう。ハーブティーを口につけながら待っていると、安室は奥のキッチンから例の新作ケーキを持ってきた。そしてコトリと軽やかな音をたて、カウンターの上にそれを置く。安室がテーブルに置いた皿の上には、何の変哲も無いタルトが乗っていた。タルトの特徴である外側のクッキー生地の上には、ところ狭しに胡桃が並べられている。
「えっ」
 思わず声を漏らし、綾は安室の方を見上げる。当の本人はしれっとした様子で「どうぞ」とケーキを勧める。それを目の当たりにした綾は、二週間前にこの店で相席となった神山との会話を思い出した。実はどこかのケーキ屋のパティシエで、敵情視察にポアロに来ていた彼が力を入れて作っているのが胡桃のケーキだと言っていた。その話の後、二度目にポアロで彼と遭遇した時に、綾はこっそりと胡桃のケーキを貰った。綾が胡桃のケーキが好きだと言っていたから是非食べてもらいたかったのだと、ポアロに来る度に持参してくれていたらしい。神山から貰ったそれを自宅で食べ、次にポアロで会った時に美味しかった事と礼を述べた。神山が非常に安心したような顔をしていたあの日も、確かに安室は店内にいた。
 まさか。
 綾は目の前の胡桃のケーキを食べようとフォークを手に取る。安室は尋常ではない程に鋭い人だ。あの時、綾がこっそり他の店のケーキを貰っていた事に気付いていたのではないか。そしてそのケーキを食べた感想を口にしていた事にさえ、辿り着いてしまうかもしれない。
 これは嫉妬とかいうよりも、負けず嫌いなんだろうな。綾の口端が上がる。
「……安室さんも案外子供っぽいところありますよね」
「いいから食べて感想聞かせてもらえます?」
 にっこりと脅してくる安室が、今日はあまり怖く感じられなかった。

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