hill climb

「うっ……うぅ……」
 どうしよう。座り込みすすり泣く女性を目の前に、綾は自身の膝に視線を落とす。広範囲にわたって擦り傷が出来ており、血がにじんでヒリヒリと痛む。それに今腰を下ろしている物置の中は、物が多くて居心地も悪い。おまけに反抗する気を削ぐためか、頭から水をかけられる始末だ。肌寒さにくしゃみをすると、余計に惨めになってきた。ふぅー……と細く長い息を吐くと、正面で泣いていた女性が疼きながら口を開いた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
 グスグスと泣きながら謝る彼女は、悲惨な事この上ない。「気にしないでください」と言えたら良かったのだが、綾も綾でこの状況に恐怖を感じていた。余裕も無いが、なんとか励まそうと「大丈夫ですよ……」と口にして、全く大丈夫でないこの状況に絶望した。

 遡る事、一時間程前。
 綾は喫茶ポアロに向かう途中だった。先日、安室が試作したチョコパンケーキがついに新メニューになったということで、それを目的とした外出だった。ほぼ毎週ポアロに通い、周りから「またあの人来てるよ」と言われていたのが、最近はついにその話さえされなくなった。それどころか、綾が初対面の安室にプロポーズをしたと知った客が「頑張れよ」と生暖かい言葉をかけて応援してくれる事もちらほらあった。完全に微笑ましげな目で見られているとあって羞恥はあったが、もはやそんな事はどうでも良くなる程に感覚が麻痺していた。なんとしても安室を振り向かせてやる、という恋する女としてはいささか男らしい決意を胸に、今日も今日とてポアロを目指す。そしてその道中、路地裏の方から微かな声が聞こえて足を止めた。
 昼間ではあるものの、光の射さない建物の隙間道は薄暗い。普段そんなところは多くの人間が避けて通る。人目が無い所というのは不安になるものだし、変な連中に絡まれるかもしれないという印象があるからだ。実際路地裏での犯罪も多い。そんな場所から、空耳かもしれないが声が聞こえた。たった一瞬のものではあったが、妙に気になり、綾は路地裏の中を入る。建物と建物の間の細い道を抜け、最初の分かれ道の真ん中に立つ。昼間であるにも関わらず薄暗いこの場所からは、誰かの気配も感じられない。やはりさっきのは空耳だったのだろう。そう急いで結論付けて、元来た道を引き返そうとした時だった。
「た……すけて……」
 思いの外近い場所から、女性の声が聞こえた。思わず声のした方にバッと振り向くと、そこには隣の建物のドアがあった。恐らく裏口だ。そして助けを求めるか細い声は、間違いなくこのドアの向こう側から聞こえた。つう、と背筋を冷や汗が伝う。明らかに不穏な空気を漂わせているドアから、ガタリという物音が聞こえた。そして短い悲鳴も。明らかに普通ではなかった。
 ゴクリと息を飲んでから、綾は恐る恐る携帯を取り出す。今まで入力をする機会が無かった、簡単な数字を三つ入力する。この状況を上手く伝えられるのか、そもそも通報する必要があるものなのかも分からない。しかしとりあえず、言うだけ言っておいた方が……とコールしようとしたところで、おもむろにドアが開いた。ここで綾は、さっさとこの場から隠れて通報するべきだったと後悔したが、全てが遅かった。ドアの向こう側に立っていた男は、携帯を片手に蒼白な綾を見て一瞬固まる。明らかに軽卒そうな風貌、そして腕っ節の強そうな体つき、不審気に歪められた眉に戦き、携帯を落としてしまった。そして、ガチャンと嫌な音を立てて落下した携帯の画面に表示された110の番号を見るや否や、男は問答無用で綾の口を塞ぎ、壁に叩き付けた。痛い、もっと早く通報しておけば良かった、なんですぐに隠れなかったのか、携帯さえ落とさなければ、と後悔の言葉が脳内をぐるぐると回るが、もはや現実はどうにもならなかった。そして綾は男にされるがまま、悲鳴の聞こえた建物の中に引きずり込まれた。廊下に投げ出され、体を強くぶつけて悶える。悲鳴にならない悲鳴を上げて震えていると、傍で女性のすすり泣く声が聞こえた。暴行されたのか、廊下に倒れ伏している歳の近そうな彼女を見て、綾は戦慄した。先程の助けを求める声は彼女のものだったのだろう。今は声を出す気力もないのか、ぐったりとしている。
「ヒッ……!」
 遅れて悲鳴が口から漏れたが、直ぐさまタオルで口元を塞がれた。声がくぐもり、呼吸もし辛くなる。この状況が更に綾を追い立て、これから先どうなるか想像して涙が溢れた。殺される。もしくは暴行される。綾をここに引きずり込んだ男を含め、数人の男に取り囲まれている。
「おい、どうする……」
「ここにいるのはまずいな」
「だったら倉庫に……」
 倒れ込んだまま、何やら相談をはじめた男達の声をぼんやりと聞き取る。とにかく殺されやしないか、殴られないかと震えていたが、彼らの話は「倉庫に連れて行く」という事でまとまった。そうして声も出せない状況の中、両腕を後ろ手に縛られ、綾ともう一人の女性は小型トラックに放り込まれた。建物内にある車庫に入れられたトラックは、シャッターのせいで外の人間から見られる事はない。手慣れている。そう感じさせられる手際に唇を噛みたくなったが、口に巻かれた手ぬぐいのようなもののせいでそれは叶わない。
 しばらくして、トラックのエンジンがかかり車が振動する。恐らく『倉庫』と言われたところに連れて行かれるのだろう。そこについた後どうなるのか想像したくはないが、真っ暗なトラックのコンテナの中で、綾ともう一人の女性は大人しくしているしかなかった。そうしてトラックに揺られる事三十分程、車のエンジン音が止まり、運転席のドアが開く音が聞こえた。目的の場所に到着したらしい。綾ともう一人は、そのままトラックから引きずり下ろされ、狭い建物のようなところに放り込まれた。小さな格子付きの窓から強い日差しが差すだけの、物置のようなところだった。放り込まれたはずみで転んだ綾は、膝を擦りむいた。
「死にたくなきゃ大人しくしてろ」
 男の一人がそう言い、二人にペットボトルに入った水をバシャリとかけた。体に伝う急な冷たさと、服に染み込んでいく水が不快で思わず顔を歪める。一瞬男を睨んだが、相手はフンと楽しそうに鼻を鳴らしただけだった。
「俺達の機嫌はとっておいた方がいいと思うがな」
 敵意を剥き出しにしない方がいいと暗に言った男は、綾と女性を物置に置いて出て行った。大人しくしていたからと言って、殺さない保証もないくせに。そう心の内で毒突いてから、綾は正面に座り込む女性と視線を合わせた。お互いに声も上手く出せず、腕の自由もきかない、同じ危機を迎えたある種の同士。絶望のこの状況に、二人で眉を下げるしかない。
「ふぉめんなふぁい……」
 くぐもって聞き取り辛かったが、女性は「ごめんさない」と口にした。恐らく綾を巻き込んでしまい、申し訳なく思っているのだろう。彼女のせいではないというのに、彼女の目からはボロボロと涙が伝った。そうして泣き始めた彼女を慰めようと手を伸ばそうとして、自由が利かない事を思い出した。ビニールテープで拘束された腕は、とても綾の力では引きちぎることも、解く事もできなかった。自分の無力さを痛感し、綾も頭垂れる。
 この後どうなってしまうのだろう。あまり考えたくないが、考えざるを得なかった。自分たちをここに連れて来た男達の目的は分からない。しかし、警察に電話しようとしていた綾を連れてきた辺り、良い事をしようという連中ではない事は明白だ。
 このままここで大人しくしているのが得策であるかも分からない。ならばどうする……という思考に至れたのは、未来の夫のおかげだった。物置の内部を見渡してみれば、カメラが設置されているようには思えなかった。立ち上がり、試しに隠しカメラがないか探ってみたが、それらしいものは見つからない。ならば倉庫内で何かをしていても気付かれないのでは、と綾はゆっくりと立ち上がる。
 あの男達の様子から、綾と女性の存在は予想外のものだったように思える。あくまで目的は『私達』ではなく、見られてまずい状況に居合わせたから連れて来られただけ。ただの口封じだ。それならば、ここから逃げ出す事さえできれば万事解決だ。そう思い至ったが早いが、綾は倉庫内に何か鋭利な物がないか物色をはじめる。まずは、この腕の拘束をどうにかしたい。幸いな事に、綾達の腕を縛っているのは何重かに巻かれたビニールテープだ。どこかに引っ掛けて徐々に削るだけでも、拘束から抜け出せる可能性がある。これだけゴチャゴチャと散らかった倉庫だ、ここに連れて来た連中だって中に何があるかなんて把握していないのではないか。そんな綾の予想は、わずか五分後に的中する。壁際の端、埃を被った箱の端に、錆びた鋏を見つけた。思わず声を上げかけたが、なんとか自身の心の内にそれを留め、綾は背を向けてその鋏をなんとか掴んだ。そうして自身の腕を拘束しているビニールテープをなんとか挟み込み、何度も刃を重ね合わせる。刃物の擦り合うジャキジャキとした音だけは響くが、テープは緩くなるもののなかなかに切れない。それでもなんとか奮闘する綾を見て、もう一人の捕まった女性は泣くのをやめた。もしかしたら拘束から抜け出せるかもしれない、という期待が湧いたのだろう。彼女も立ち上がり、唯一外が確認できる格子つきの窓から、外の様子を窺い見張りをしてくれた。そしてついに、綾の腕を拘束していたビニールテープが緩みに緩み、腕を抜き出す事に成功した。これにはもう一人の女性も目を輝かせ、二人して視線を合わせて喜びを分かち合う。腕に巻かれていた紐を床に投げ捨てようとしたが、もし次に見張りが巡回にやって来た時の事を考え、とりあえずは手首に巻きつけておく事にした。同じ理由で口元に巻かれていた布を首元にずらす。息苦しさから解放され、いくらか心に余裕ができた。
「今から腕の紐解きますね!」
 コッソリと話したつもりだったが、思いの外大きな音になり、慌てて口元を抑えた。誰かに気付かれていないかと外の様子を窺いつつ、錆びた鋏をジャキジャキと動かす。切れ味が悪かった事が功を奏し、もう一人の人質の拘束も緩み、腕を抜く。自由がきかなかったのは一時間にも満たない時間だったが、思ったよう動けるようになった事でお互い静かに喜ぶ。濡れて服に染み込んだ水分は未だに気持ち悪いが、少しだけ気を紛らわせる事もできた。しかし、目の前の小さな問題が解決しただけで、更に大きな問題が目の前に立ちふさがる。拘束から逃れたはいいが、倉庫の扉は外から鍵がかけられているため開かない。ご丁寧に内側から解錠出来る部分を破壊されており、脱走を目論む事を想定された作りになっていた。折角自由になったというのに、この倉庫からは出る事が叶わないと知り、綾ともう一人の人質は呆然とした。そしてそのうち、もう一人の女性がグスグスと泣き出した。ひたすら綾に「ごめんなさい」と言う彼女の背中を叩きつつ、どうするかと倉庫内を見渡す。
 外部と連絡を取る手段を含め、手荷物は全て奪われてしまった。今ここにあるのは身一つだけだ。強いて言うなら、このごった返した物の中に、何か脱出手段になり得るものがあればいいのだが。とりあえず手当り次第に倉庫内を漁り、めぼしい物がないかと漁る。そうして二人で物色していると、不意に外の方で車のエンジン音が響いてきた。徐々に大きくなるその音は倉庫付近に止まり、二人はあわてて捕まったふりをすべく身なりを整える。倉庫についている唯一の窓からこっそりと覗くと、丁度正面辺りに白と黒のカラーリングの古めの車が一台止まっていた。そこから一人の男が運転席から降り立つ。まだ昼間に近い時間帯であるため、男の人相も認識できた。着崩したジャケット以外はタイトな服装の若い男だ。細身では有るが、立ち姿からなんとなく物騒な気配を感じ取る。だらりとしているように見えて堂々としている様はどことなくつかみ所がなく、恐ろしく思えた。車の鍵を指に引っ掛けながら、男は別のところに歩いていこうとして、ふと足を止めた。何だ? と疑問に思った瞬間、細身の男はぐるんと体の向きを変え、こちらに真直ぐ歩いてきた。
 まずい! 咄嗟にしゃがみ込み、二人して捕まった振りに集中する。中に入って来るかもしれないと怯えた刹那、倉庫のドアノブがガチャガチャと音を立てた。鍵がかけられているため開かないので当然である。しかしドアの向こうにいる男は執拗にドアノブを回し、最後にはドアに蹴りを入れる始末である。
「んだよ、開かねーじゃねぇか」
 吐き捨てるような独り言を残し、男はこの場を立ち去って行く。足音が遠くなっていくのを確認しながら、綾もその場からゆっくり立ち上がる。男が行ってしまった事を確認しようと、小窓を覗いた時だった。瞬間、倉庫のドアがすさまじい音をたてて凹んだ。もともと古いドアだったこともあり、凹んだ衝撃で外れたドアの向こうから、先程の細身の男が現れた。まさかドアが開かないからと言って、それを破壊しようと思い至る思考回路の人間がいるなんて、誰が予想出来ただろう。非現実的な状況に関わる人間も、やはり非現実的で常識が通用しないのだろうか。自分が拘束を解いてしまっているという事を失念したまま、綾は唖然として立ち尽くす。ドアを蹴破り、倉庫に入って来た男はもう一人の人質をじっと見た。そしてこちらへ振り向こうとしたところで、綾はハッと我に返る。今、拘束から逃れている自分を見たら、この男が何もしない訳が無い。ベコリと凹んだドアを視界の端に、綾は咄嗟に背後から男の服を掴み、倉庫奥の荷物がごった返した中に男を押した。流石に予想外だったのだろう、男はもの凄い音を立てて荷物の中に突っ込み、野太い声を上げた。
「いってぇなァ……!」
 言葉尻に怒気が含まれ、綾は思わず震え上がる。怒らせると何をしでかすか分からない、定まらないような目を向けられ、綾は自身の行動を一瞬後悔した。しかし、やってしまったものはどうあがいても修正はきかない。一歩後ずさった時に、小さくて固い何かを踏んだ。チャリと音を立て床を擦ったのは、持ち手が大きめの鍵だった。上品なレザーのキーホルダーについているそれは、間違いなく車の鍵だ。鍵の正体を察した瞬間、綾はそれを直ぐに拾い上げ、もう一人の女性の腕を掴んで倉庫の外に出た。いきなりの事で彼女も驚いたようだったが、すぐに状況を飲み込み、綾と並走してくれた。
「免許」
「え?」
「車の免許、持ってます!?」
 全力で走りながら綾がそう聞くと、女性は首を振った。
「持っていません!」
「……そうですか」
 ならば自分がやるしかない。そう腹を括り、綾は手の中の車の鍵を握り込んだ。目指すは、先程倉庫にやって来た男の白黒の車である。鍵を差し込みロックを解除してから、綾は狭い運転席に潜り込む。
「乗ってください!」
「は、はい!」
 免許を持ってはいるが、運転するのは久しぶりである。しかし、そんな事を言っていられる状況ではない。とにかく逃げなければ! その一心で、ぶつけるように車のキーを差し込み、くるりと捻る。もう一人の女性も転がり込むように後部座席に乗り込み、しっかりと車のドアのロックをかけた。先程倒れ込んでいた男がのろのろと倉庫から出て来る様子が窺えたが、これだけ距離があれば追いつかれる事はないだろう。そう安堵しながらエンジンをかけようとした瞬間、車がガコンと音をたてて沈黙した。一瞬何が起きたのか理解できず、綾ももう一人の人質も呆然とする。
「何で……」
 もう一度エンジンをかけようとキーを捻るが、エンジンがかかりそうな音がした後、もう一度ガコンと音を立てて静かになる。どういう事だとアクセルやブレーキを軽く踏もうとして、綾はペダルが一つ多い事に気がついた。アクセルでもブレーキでもないペダルを軽く踏んでから、この車が古いものであるというのを思い出した。まさか。もはやうろ覚えになりつつある教習所での教えを思い出す。綾達が乗った車は、クラッチにギアチェンジと操作が必要なMT車だった。今主流のAT車とは操作がやや異なる。ついでに言うなら、綾の持つ免許ではこの車を運転出来ない。結論から言えば、エンジンのかけ方すらも分からない車に乗り込んでしまったのだ。
 サァと血の気が引いていく。逃走の手段を見つけたと、喜々として希望を掴んだはずなのに、現実という絶望に強引に引き戻される。もう一人の人質の女性も、綾が車を動かせない事に気付いて泣きそうになっている。
「おい」
 薄い窓の向こう側から声が聞こえた。恐る恐るそちらの方に顔を向けると、この車の主がすぐ傍に立っていた。片手には太めの鉄パイプを持ち、こちらを挑発的に見下ろしている。恐らく倉庫にあっただろうそれを振りかぶる男を見上げ、綾は「鉄パイプを使って倉庫のドアを破っても良かったかな」などと場違いな事を考えた。そして直ぐさま振り下ろされた鉄パイプは窓に細やかなヒビを入れ、一部を粉々に突き破った。破片が飛び散り、体に降り掛かった事に驚いている間に、割れた窓から腕が伸びてきた。それに怯えて身を竦ませた刹那、車内に侵入して来た腕は冷静に、運転席のロックを解除する。車のドアを隔てた先にいる男はいかにも軽そうな男ではあったが、その実落ち着いていて、行動は非常に狡猾である。冷静さの中に残虐さすらも垣間見えるような、据わった目の男がドアを開け、綾との隔たりを無くす。表情すら無くし、恐怖で男を見上げると、鉄パイプを振り上げて男がニコリと笑った。後部座席にいるもう一人の人質の彼女が、大声で「やめて!」と叫ぶが、嘘の笑顔を貼付けた男は容赦ない。あれで打たれたら痛いだろうな、なんて呆然としている間に、鉄パイプが振り下ろされる。
 バキッ!
 おおよそ人体から聞こえてはまずいような、骨の軋む音が鈍く響く。声も出ない程の痛みに顔を歪め倒れたのは、綾ではなく目の前の男だった。男の手から離れた鉄パイプが地面を滑るように転がり、少し離れた所で止まる。思い切り蹴られた脇腹を抑え踞る男を見下ろし、そこに立っていたのは、綾の良く知る男だった。
「何で……」
 ここに安室さんが。そう続くはずだった言葉を制し、安室は周囲を見渡してから眉間に皺を寄せた。サラリとした髪の隙間から垣間見える瞳は、普段よりもずっと鋭く研ぎすまされている。
「……今ので気付かれたな」
 チッと舌打をしそうな勢いで険しい顔をした後、安室は綾を助手席に推し込み、運転席に乗り込んだ。綾がいくらキーを回してもエンジンのかからなかった車は、安室の手により呆気なく、音を立てて動き出す。流れるようなクラッチの操作、ギアチェンジする手管を呆然と眺めながら、綾は先程言いかけた、安室に制されてしまった疑問を口にした。
「何でここにいるんですか……?」
「その話は後で」
 安室がちらりと背後に視線を向けたものだから、綾もつられるように振り向く。先程この車の窓を破壊した男は未だ地面に転がったままだったが、奥の建物から十人程の男達が姿を現した。先程の騒動に気付いたのだろう、何人かが車に乗り込む姿が遠目に確認出来た。
「警察には通報してあるんですが、とりあえずこの場から逃げるのが先決です」
 確かに、ここで警察が来る前に捕まっていては元も子もない。助手席に追いやられた綾はコクコクと頷くしかなかった。そして今になって緊張の糸が解け、目に水分が溜り始める。さっきは本当にあの鉄パイプで殴られるかと思ったが、間一髪で安室が助けてくれた。さながらヒーローのように現れた安室に再度惚れ直したところで、綾は車の向かう先に逃げ道がない事に気付いた。
「安室さん、どこに逃げるんですか……?」
「いい質問ですね」
 慣れた手つきで車を走らせながら、安室は不敵に笑う。今車が向かっている先には、コンテナだらけで逃げ道は見当たらない。車に乗り込んだ場所が悪かったというべきか、こちらに逃走せざるを得なかったので仕方が無かった。既に車の後方には、こちらを追いかけて来る車が数台いる。ここから引き返し、数台の追走車をくぐり抜けるのは至難の業だ。どう見ても危機的な状況のはずなのに、安室の口端はやや上がっている。この表情をどこかで見た事がある気がして、綾は記憶を辿る。そしていつだったか、未来の世界でカーチェイスをした事があったなと思い出した。あの時の夫と、今にも舌舐めずりしそうな程度にどこか得意気な様子の安室とが重なり、綾は嫌な予感がして震えた。
「まさか……」
 何かとんでもない事をしようとしているのではないか。そう思って車の向かう先を見れば、コンテナの側面辺りに、何やら妙な形の大きな荷物が置かれているのに気がついた。ここからでは未だにあれが何かは分からないが、緩やかな斜面を持った大きな物体を捕え、安室は嫌になってしまう程期待通りの事を口にした。
「あれを登る」
「……えっ、嘘。冗談ですよね!?」
 あの物体が何かも分からない。ただ斜めになっているからこの車で登れるだろうと、そんな安直な考えを実行に移すと言うものだから、綾は絶句した。後部座席にいるもう一人の女性も、先程までは「助かった」と涙ながらに喜んでいたのに、今度は安室の逃走手段を知って泣き始めた。上手く行けばいいが、失敗すればただじゃ済まない。しかし、車は容赦なく加速していく。そして乗り上げる予定の物体はすぐ傍まで迫っていた。
「し、死んじゃいますよ!」
 シートベルトを渾身の力で握りながら叫んだが、安室は容赦無くアクセルを踏み込む。
「貴女、あと四年は死なないんでしょう?」
「えぇ!?」
「僕を信じて!」
 この人といると、命がいくつあっても足りない気がする。自棄になりながらも、綾の口元は引きつりながらも弧を描く。こんな状況で笑えるくらいに状況を理解したくないが、もはやどうにもならない事に気付いてしまった。あぁ、神よ……なんて都合のいい時だけ天に祈るのは人間特有の現実逃避だ。都合のいい時だけ祈る私の願いを聞き届けてくれるのか分からないが、今この先の運命は隣に座る男が掌握している事には変わりなかった。
「行きますよ、何かに捕まって!」
「はい……」
 もう自棄だった。綾はシートベルトを握り込み、目をぎゅっと閉じた。もう一人の人質も後部座席に踞り、衝撃に備える。そして数秒もしない間に、車に凄まじい衝撃が走り、体が宙に浮いた。ガリガリガリ、と嫌な軋みを立てて全進した車は酷い傾斜を登りきった後、ガタンと音を立てて水平に着地する。周りに見えるのは空とコンテナだけという状況の中、綾は今自分たちがいる状況を察した。安室の言う通りコンテナの上に乗り上げたのだ。そしてこの先の事を想像して、か細い声で呟く。
「安室さん……」
「なんです?」
 精神的に参ってしまいぐったりとしている綾をよそに、安室は次の行動に移っていた。と言っても先程と変わりない、クラッチを踏んでギアチェンジをしているだけである。何をしようとしているかは明白だった。
「これからどうするんですか……」
「分かってるんじゃないですか? 勿論逃げますよ」
 ブオンと音を立て始めるエンジンの音を聞き、後部座席にいる女性が悲鳴を上げる。絶叫マシン並に恐ろしい事がまだ続くのかと、心臓が嫌に締め上げられる。もしかしたら倉庫でずっと捕まったままでいた方が、平和的に救出してもらえたかもしれない。そんな『もしも』の話を想像したところで、何もかも手遅れだった。今綾達がいるのはコンテナの上である。ここから車を使って逃走するという事は、そういう事だ。
「飛ばしますよ」
 安室の言葉を合図に、車はコンテナの上を走り始める。コンテナとコンテナの間にタイヤが沈む毎に衝撃が走り、心臓に悪ければ尻も痛める状況である。途中で窓ガラスに額をぶつけ、痛みに悶えたいところだがそんな暇もない。もうこんなところまで来てしまえば追手もかからないのでは、と冷静な意見が脳裏を過ったが、きっと安室は聞き入れてくれない。ガタガタと音を立てながらコンテナの上を走り抜けていく車の中、綾は思考を放棄した。ガタガタ揺られながら、ぼんやりと目の前の景色を眺める。そして車がコンテナに乗り上げた衝撃で、車のナンバープレートが外れて宙に浮いたのを視界で捕える。不自然に曲がり、くるくると回りながら飛んでいく様がスローモーションのように見えた。その一瞬の中で、そのナンバープレートの数字が目に焼き付いた。数字の『8』のぞろ目。どこかで見たことのあるその数字の並びに、綾は目を見開いた。

 車が止まったのは、それから約十分後だった。パトカーがサイレンを響かせながら駆けつけてきたのを確認し、安室はコンテナの上で車を止めた。そして何やら誰かと連絡を取った後、綾達に向かって「もう大丈夫」だと言った。それを聞いて安堵はしたが、今の状況もそれなりに救出が必要なものだった。
「ボロボロになっちゃいましたね」
 とりあえず車から降り、ここまで荒事に付き合わされてしまった車を眺める。元々古い車ではあったが、そこら中傷だらけになったせいで、余計に古びたものに見える。年期は入っているが、大事にされていた車の有様を見て心が痛んだ。
「そうですね。恐らく盗難車でしょうが……貴重な車に申し訳ない事をしてしまった」
 安室も思う事があったのか、車のボンネットに手を置き、車の状態を確認している。足回りを中心に見て回ってから、安室の表情は少しだけ晴れやかになった。
「しかし……これなら廃車にならずに済むかも」
「そうですか」
 良かった、と言いつつ、綾はそれがある程度予想できていた。
「……安室さんと、ある意味因縁のある車ですしね」
 クスクスと笑う綾の言葉の意味が分からず、安室は首を傾げる。四年後、この車と本当の持ち主に再会し、競争する事になるなんて、今の安室は知る由も無いのだ。

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