Apollo 10

「糸見さん、今度また一緒に喫茶アポロに行きませんか」
「……えっ?」
 コーヒーを飲んで一息ついた綾は、一瞬ポアロとアポロを混同しかけた。今まさに喫茶ポアロにいるというのに、何故喫茶アポロに……とここまで考えて、安室の言う喫茶アポロが、例の植物園内にあるお洒落な喫茶店を指している事に気付いた。植物園らしい色とりどりの花や植物に囲まれた、ある種幻想的にも感じるあの空間には、綾もまた足を運びたいと思っていた。しかし、まさか安室にこうして誘って貰えるとは思わなかった。綾が誘ったところで頷いてくれるか微妙な人の笑みを見上げながら、一瞬違和感が過る。安室から、何の目的もなく誘われるというのは初めてだ。……いや、何か目的があるのではないか。
「何でですか?」
「あそこのハーブティー、結構種類があったじゃないですか。全種飲んでおきたいと思っていて、それに付き合って頂けると助かるんですが」
「……本当にそれだけですか?」
「喫茶ポアロと喫茶アポロ。同じ喫茶店同士名前が似てるので、相手の手の内を研究しておきたいんですよ」
 にこりと笑いながら口にされた言葉は、あまりにしれっとしていた。ここで本音を隠されなかった事に関しては距離が縮まったように感じるが、何故だか男女の関係としては遠ざかったような気がする。先日、デート(暫定)で行った喫茶店のハーブティーを飲んで感心していた安室だ。いいところのいいものを調べ上げ、ライバル店に対する対抗策を講じようとしているのだろう。安室さんは警察官なのに、こちらの仕事にも熱心なんですね……と言いたくなったが、寸での所で口を閉ざした。これまでポアロに通っていて分かったが、安室は自身が警察官である事を隠している。そもそも偽名を使っている時点で仕事の一環なのだろうが、そんな相手に「あなたの本職を知っている」なんて言ったら、またもや尋問されてしまう。何も悪い事をしている訳でもないのに、じわじわと安室に逃げ道を塞がれるのは苦手だ。だからこそ、機会があるまで黙っているつもりでいる綾は、自身の額を右手で抑える。
「……難しいですか?」
 綾が頭を抱える所作を見てから、安室は窺うように眉を下げる。その表情には少しの驚きも垣間見えた。まさか綾が断るとは思わなかったのだろうが、その通りだ。だからこそ綾は頭を抱えていた。
「いえ、是非ご一緒させてください」
 例え他に重要な目的があったとしても、こうして出かける機会があるだけありがたい。自身をどうにかアピールして安室の気を引きたい綾と、ライバル店へ視察に行きたい安室。二人の関係は正にWin-Win。しかしそこにloveはまだ無い。綾がカクリと肩を落とすと、了承された事に安心したらしい安室は、カウンターから一つの皿を取り出し、綾の前に置いた。
「新メニューの試作なんですけど、良かったらどうぞ」
 皿の真ん中には黒いパンケーキが乗っている。恐らくチョコレート味だ。パンケーキの上にたっぷり乗ったクリームと、鎮座する苺がコントラストが引き立てている。
「……頂きます」
「どうぞ、召し上がれ」
 相変らず人好きする笑みを浮かべる彼が、いまいち何を考えているのか分からない。

   * * *

「思ったんですけど」
 約束の日。喫茶アポロに通じる植物のアーチをくぐりながら、綾は純粋な疑問を口にする。本当は誘われた時から気になってはいたが、下手に聞き出して振り回されたくないというのが本音だった。しかし、いざ二人でここまで来ると再度気になり、結局尋ねる事にした。
「喫茶店アポロへの敵情視察なら、一人でも良かったんじゃないですか?」
「その件ですが、実はこの前一人で行ったんですよ」
 えっ、と綾が声を漏らすと、安室は苦笑いを浮かべた。
「なんというか周りがカップルだらけで、男一人だと居心地悪くて……」
「あぁ……」
 でしょうね、と頷きながら、自分が誘われた理由を察する。一人でここに来にくいから誰でもいいから誘おう、この前一緒に来た綾なんていいんじゃないか、僕の事好きだし多分断らない……とか、なんとか考えていたのではないか。安室を相手にすると真実の奥の奥に本音が隠されていそうで、いろいろ考えてしまうので頭も痛いし、心も痛い。一体なんのために自分はここにいるんだろう、と見失いそうになっている間に、喫茶アポロの前に辿り着いた。
「いらっしゃいませ」
 入り口で出迎えてくれたのは、前に来た時にも会った女性ウェイターだった。向こうもこちらの事を覚えていたのか、嬉しそうにニコリと笑い、席まで案内してくれた。二人が最初にここに来た時と同じ席だった。綺麗に磨かれているガラスの天板の下には、この店の看板商品でもある『月の芽』の鉢植えが置かれていた。まるで白い月のような花を見ていると、安室が「欲しいですか?」と口にした。
「えっ」
「良かったらプレゼントしますよ」
「……何でですか」
 何か裏があるに違いない。そう思って身構えたが、安室はメニューに視線を向けたままだった。
「今日、付き合ってくれたお礼です」
 思いの外穏やかな声だった。それに毒気を抜かれ、綾は脱力する。本当に安室が何を考えているのか分からない。しかし、分からないのなら、それを勝手に予想して振り回されるのも馬鹿らしい話だ。折角二人で出かけられる機会なのに勿体ない。こんな疑ってばかりでは駄目だと自分に言い聞かせてから、綾もメニューを見やる。
「いいですよ。これ結構高いですし……」
 ここだけの希少種とあって、月の芽の値段はそれなりである。メニュー一覧の下の方に書かれている鉢植えの値段は、正直相当欲しく無いと購入に踏み切れないように思う。一体どれ程の人がこの鉢植えを買っていくのだろう、と頭の端で考えていると、綾の傍に女性店員が立った。
「すみません、やっぱり高いですよね……」
 申し訳なさそうな表情の彼女は、片手に注文票を持っている。そしてこの店オリジナルであろう、店のロゴの入ったエプロンのポケットからは小さな花が覗いている。そんな所にまで花が植えられているのかと驚いた。
「育てるのも難しくて、こうして売りに出せるものも限られてしまうんですよ」
「難しいんですか?」
「ええ、デリケートな花なので」
「へぇ……」
 それを聞くや否や、先程より鉢植えに興味を持ち始めた安室を眺め、綾は思わず口元だけで笑ってしまった。先程までこの人が何を考えているのか分からない、なんて嘆いていたが今は分かる。育てるのが難しいと聞いて、逆に自分が育ててみようかなどと考えている。難しい事への挑戦は彼には良くある事だ。そういう逆境のようなものを楽しんでいる節がある。
「ではこのお店で飾られているものの世話だけでも、大変なんじゃないですか?」
 安室の言葉を聞き、綾も「確かに」と頷く。ざっと見ただけでも、店内に置かれている月の芽の鉢植えは十以上ある。世話が大変なものを万全のコンディションでこんなにも並べるのは、かなり大変なのではないか。案の定、女性店員は困ったように眉を下げた。
「実は……。研究施設の方が毎日チェックをしてはくれるんですけど、この花の世話はほとんどお店のスタッフがやっているんですよ。もう毎日出勤する度に緊張するんです、枯れてないだろうか……って」
「そんなに難しいんですか……」
 へぇ、ほぉ、などと雑談している途中、ハッと我に返った女性店員は咳払いをした。以前来たときも思ったが、彼女も存外おしゃべりだ。綾達の隣の席に座っているカップルも、慌てた女性店員を見てクスクスと笑っている。ここに良く来る客なのだろうか、彼女がこうして話に夢中になってしまうのも日常茶飯事なのかもしれない。
「ご注文はお決まりですか?」
「僕は季節のケーキとカモミールティーのセットを。糸見さんは?」
「私も季節のケーキと……ローズヒップティーをお願いします」
 かしこまりました! と姿勢を正した彼女は、やや早足にキッチンの方へ戻っていく。その姿を微笑ましげに眺めていると、不意に安室がメニューを引っくり返した。アクリル製のスタンドに組み込まれたメニューの裏には何も書かれていないはずなのに、それをじっと見ているものだから、綾は首を傾げる。
「どうしたんですか……?」
「いえ……」
 なんだかしっくりこない様子の安室は、無言で綾にもメニューの裏を見せる。何も書かれていないそれを見せられても、と困惑しつつ、綾はとりあえずメニュー表を受け取る。しかし、よく見てみると薄い印刷で何かが書かれていた。正確に言えば印刷が色あせてしまっているのだが、そこには花の名前がズラリと並んでいた。
「これは……」
「調べたんですけど、このお店は以前花屋だったそうです。その名残でしょうね。しかし……」
 顎に指を当て、安室は何かを考えているようだった。
「普通、使い回します?」
「え……?」
「これだけ雰囲気を作り込む喫茶店なのに、メニュー表を使い回すなんて……」
 何かスイッチでも入ったのか、安室は始終店内のものに目を止めてコメントしていく。このテーブルはどこ製だの、あの鉢植えはどういうこだわりがあるかだの、自身の見解をつらつらと述べていく。余程この店に対抗意識があったのか、良い所も上げれば改善点も挙げていく安室を眺めつつ、綾はグラスに口をつける。存外この人も負けず嫌いだ。そして話題が尽きない。
「このお店の名前は、この『月の芽』から取られたんでしょうけど……」
 話の途中、安室がそんな事を言うものだから、綾は疑問符を浮かべる。
「そうなんですか?」
 何故そんな事が分かるのだろう。深く考えもせずに尋ねたが、答えはあまりに簡単なものだった。
「ほら、月に初めて人類が降り立った時に乗っていた宇宙船の名前ですよ。アポロ11号」
「……あぁ」
 だから喫茶アポロ。あまりに安易な思い付きではあるが、とてもピッタリな名前だと思った。月の芽開発の翌年にこの喫茶店ができたのだと、安室はこの情報の信憑性を説明する。
「分かりやすくていいじゃないですか。ポアロだって似たようなものですし」
 喫茶ポアロの名前も、マスターの趣味によって決められた。世にある店の名前というのは、案外そういうものが多いのかもしれない。考えに考え抜かれて名付けられたのかそうでないのか、部外者が判断するには難しい。
「お待たせしました」
 そうしてなんだかんだと話している間に、先程の女性店員が注文したものを運びに現れた。ハーブティーの入った透明なカップにポットをテーブルにトンと置いていく。安室の頼んだカモミールティーにはカモミールの花が浮かんでいてとても見栄えがいい。それにボケッと見蕩れていると、注文の品をテーブルに並べ終えた店員に安室が声をかけた。
「すみません、追加でいいですか?」
「はい?」
「カモミールを」
 トントン、とメニュー表を指で叩きながらそう言った安室を見て、女性店員は注文票に何かを書き込む。
「かしこまりました」
 そうして再びキッチンへ戻って行く彼女を見送り、綾は「え?」と首を傾げる。
「何でカモミール……? まだ飲むんですか?」
「すぐに分かりますよ」
 クスクスと笑いながらカップに口をつけた安室を見つつ、綾も自身が注文したローズヒップティーを飲む。正直に言えばハーブティーにはあまり詳しく無い。名前だけ見て注文してみたはいいが、いまいち美味しいのかどうかも分からない。なんとなく口に合わない気がして、一緒に店員さんが持って来てくれた蜂蜜を入れてみる。そして再度飲んでみれば、まろやかな甘みがあって飲みやすくなった。それにホッとしていると、安室がじっとこちらを見ている事に気がついた。
「どうですか?」
「お……美味しいです……。その、蜂蜜を入れたら」
 美味しいです、と言い切れたらいいのだが、正直そのままでは飲めないかもしれない。安室に嘘をつくのもなんとなく躊躇われて正直な感想を述べた綾を見て、安室は頬杖をついた。
「酸味が強いですからね。ローズヒップティーはビタミンCがたくさん含まれていて、美容にいいそうですよ」
「そうなんですか……。安室さんは、本当に色んな事に詳しいですね」
 今の話に限らず、安室は綾が今まで出会った人の中で一番博識だった。彼が知らない事の方が少ないのではないかというくらい、何を聞いても、話しても、彼が「はじめて知った」と驚くことは少ない。つくづく隙の無い人だな……と改めて実感していると、キッチンから先程の女性店員が再び出て来た。手には小ぶりの花束のようなものを持っている。その花が安室の頼んだお茶に浮かんでいるものと同じで、綾は「まさか」と思わず姿勢を正した。
「お待たせしました」
 にっこりと笑いながら女性店員が花束を差し出すと、安室も笑顔でそれを受け取った。確かに先程、安室は「カモミール」を注文した。しかしそれがハーブティーではなく本物だったとは、全く気付かなかった。
「という事で、糸見さん。良かったら受け取ってください」
 流れるような所作で渡され、綾は咄嗟に手を出して花束を受け取る。
「何で……?」
「調べたから知っていたんですが、ここは昔花屋であった名残で、今も花を注文出来るんですよ。ただ、所謂『裏メニュー』というやつですが」
 メニュー表の裏を指で叩いてみせた安室を見て、綾はやっと理解した。これほど雰囲気に拘っている店なのに、メニュー表を使い回しているのは妙だと言っていた。しかしその理由は、こうして『裏メニュー』を知る人間に向けたものだったらしい。
「気付いていたなら、最初から教えてくれれば良かったのに……」
「僕もさっき気付いたんですよ。でも、ちょっとしたサプライズに良いですね」
「そうですね。……でも、これを貰ってしまっても良いんですか?」
「ええ。先日のお礼です」
「……先日?」
 なんのことだ? と疑問符を浮かべる。安室に感謝されるような事があっただろうか……と思考を巡らせたが、答えが見つかる前に安室が解答した。
「この前の洋菓子店での一件ですよ。コナン君を守る為に立ち向かってくれたじゃないですか」
「……あぁ」
 先日、訪れた洋菓子店であった暴力事件の事だった。安室やコナン、綾が人質になったあの事件の真相は、ごく最近テレビで少し報道された。犯人達の関係が複雑で、まともに話を聞いているとこんがらがりそうになるものだった。今思えば、あの時の自分はある種どうかしていた。『拳銃を突きつけられても立ち向かった女性』と言われると誇らしく思えるが、今冷静に考えると正気の沙汰ではない。打開策があった訳ではない。子供であるコナンを守らねばという一心で、その実何も考えていなかった。
「でも……あの状況なら誰だってそうするでしょう?」
 咄嗟に子供を守ろうとしたのは、もはや反射に近かった。理由や理屈が浮かぶ前に、体が動いたのだ。長い時間をかけて綾の中に刷り込まれていた『何か』が表に出た瞬間だった。そしてきっとこれは、綾だけに当てはまる話でもない。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。どちらにしても、貴女の行動は勇気のあるものだった。だから受け取ってください」
 もしかして、その時のお礼も兼ねて今日はここに誘ってくれたのだろうか。安室は敵情視察だと言っていたが、実は『お礼』の方が本命だったりして。チラリと安室を窺ってみたが、真相は結局分からなかった。聞いたところで、彼相手では『本当の事』は分からない。まさに迷宮入りと言ったところだ。
「ありがとうございます」
 それでも、嬉しい事には変わりない。男性に花束を貰ったのは初めてだ。ささやかなものではあるが、落ち着く香りを漂わせる可愛らしい花に見蕩れる。喜んでいる綾を見て満足したのか、安室は息をついてから「それにしても」と呟く。
「裏メニューとはいい案ですね。ポアロもポアロらしく、謎解き裏メニューでも考えてみましょうか」
「いいですねそれ」

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