destiny

 今日は友人の誕生日である。大学時代からの仲間達で集まり、ささやかなパーティを開く予定である本日、綾は予約していたケーキを受け取りに洋菓子店に向かっていた。先日ポアロに行った時、安室に教えて貰った折り紙付きの店だ。駅を出て徒歩すぐの場所にあるそこを目指している道中、不意に目の前を何かが通り過ぎた。
 ガチャン!
 大きな音と弾け飛んだ何かに驚き、綾は飛び退く。丁度あと一歩踏み出そうとした場所を見れば、植木鉢が無惨に散らばっていた。見上げれば、傍のアパートの二階に住んでいるらしい女性が「ごめんなさい!」と声を上げた。どうやらあそこから植木鉢を落としてしまったらしい。直撃しなくて良かったと、ぶつかった時の事を想像しながら青ざめる。後になってからドキドキと心臓が煩くなり、そこでじっと固まっていると、傍のアパートの階段から足音が聞こえてきた。そして先程、植木鉢を落としてしまったらしい女性が慌てて走って来た。
「本当にすみません、怪我とかしなかったですか!?」
「大丈夫です」
「本当ですか? 良かった……」
 ホッと息をついた彼女は、こちらが申し訳なる程に何度も頭を下げた。よく見れば、彼女の服装は外出用とはお世辞にも言えず、部屋着のまま飛び出して来た事が窺える。「怪我も無かったのでもう大丈夫ですよ」と綾が再度口にすると、彼女もやっと顔を上げた。そうして「引き止めてしまってごめんなさい」と言った彼女は、せっせと割れた植木鉢を片付け始める。それなりの高さから落下した鉢の破片は広範囲に散らばっており、見かねて綾も破片拾いを手伝う。
「あのっ、ここは私が片付けるのでお構いなく!」
「いえ、私もそんなに急いでないので。それにこれを一人で片付けるのは大変でしょうし」
 構わず植木鉢の破片を拾い、とりあえず道路脇の植え込み付近に集めていく。最初は申し訳なさそうにしていた彼女も、綾の問答無用の行動に次第に何も言わなくなり、最終的に雑談をはじめた。
「これからどこかにお出かけですか?」
「そこの洋菓子店に」
「あぁ、あそこ人気ありますよね。私もあの店のチーズタルトが好きで……」
 どのケーキがお勧めか話している彼女の意見を参考に、今度買ってみようかなと考えながら鉢の破片をつまみ上げる。白い独特の模様が入った植木鉢のパーツなのだろうが、良く見れば花の形をしている。
「……可愛い鉢植えですね」
 あまり見かけない、凝ったデザインのものだと破片だけで分かる。割れてしまって勿体ない、というニュアンスを含んで綾がそう言うと、女性は言いにくそうに苦笑いを浮かべた。
「いえ、その……実は……」
「?」
 なんでも、この植木鉢は元彼に誕生日プレゼントで貰ったものらしい。別れてから随分経つし、これを見ていると彼の事を思い出して悲しくなるからと処分を決めた。この鉢植えに植えられていた花には罪がないからと別の鉢に植え直し、元カレから貰った植木鉢を持ち上げたところで、誤って手を滑らせ、ベランダから落としてしまったのが事の顛末のようだ。
「本当にごめんなさい」
「いえ……」
 どちらにしても、この植木鉢が処分される未来に変わりはなかったらしい。白い花型の破片に視線を落としてから、綾はそれを残骸の山の上に置いた。

 そう。
 植木鉢がどちらにしても処分されてしまうのと同じように、片付けを終えて洋菓子店に向かった綾の運命も結局変わらなかった。ただ少々、時間に差が出た程度だった。
「騒ぐと撃つぞ」
 洋菓子店に入ってすぐ、まさか拳銃を向けられるなんて誰が想像できただろう。綾が来店した事で鳴ったベルの軽快な音が、この場の緊張感をより高めた。綾が店に入ってすぐの所で、この店の店員が半泣き状態で店の状況を隠すようにブラインドを下ろす。恐らく銃を持っているらしいこの男の指示なのだろう。最後の仕上げとばかりに入り口の前に「closed」と書かれた看板を置いた後、ぶるぶると震えながら再び店内に戻ってきた。そして入り口の前に別の男が立ち、退路を塞ぐ。その場に突っ立ったままの綾は、まるで状況が飲み込めずに固まるしかない。
「さて……」
 銃を持った男が、綾を頭から足まで不躾な視線を向ける。見るからに胡散臭そうな男ではあったがガタイは良く、ニヤついた顔からは何をしでかすか分からない得体の知れなさがあった。銃を向けられたのは初めてだが、こういう時の行動は知っている。大人しく降参を示す為に両手を上げると、近くで子供の声が上がった。
「お母さん!」
 聞き覚えのある子供の声だった。思わず声のした方を向けば、なんとそこにいるのはコナンだった。コナンの視線は真直ぐこちらに向いており、そしてその隣にはなんと安室が立っていた。この状況の整理もついていないのに、混乱させる情報が更に増える。そもそもコナンの「お母さん」という発言はどういう事なのだろう。呆気に取られたまま固まっていると、銃を持った男が「なんだ母親か」と呟いた。そして見かねた安室も、綾に向き直る。
「綾、こっちに」
「えっ……?」
 安室……いや、降谷に名前を呼ばれたのは久しぶりだ。こんな状況でドキリとしている場合ではないが、綾は言われるがまま、恐る恐るコナンと安室の傍に歩いていく。店内にいる客……所謂人質達の視線を浴びながら、綾もその一人になった。
「大丈夫……?」
 コナンと安室の傍に行くと、コナンに心配の声をかけられた。それはお互い様だと思ったが、綾はここでやっと状況を理解する。成る程、コナンが綾の事を「お母さん」と呼んだことで、なんの疑いもかけられる事なく二人の傍に来れた。きっとコナンはそれを見越していたのだろう。こんな状況下で良く頭が回るなと関心しつつ、心細くなくなった事で少しだけ安堵した。そしてコナンの発言により「お父さん」役になってしまった安室も、綾に労いの言葉をかけてくれた。
「……何なんですかこれ」
 綾がコソリと尋ねると、安室は銃を持った男から視線を逸らさぬまま静かに口を開いた。
「今は静かに」
「……」
 有無を言わせぬ迫力があった。それに忠実に従おうと唇をキュッと引き締め、綾は店内の状況を見る。店に訪れていた客は、今の綾達のように全員壁際に立たされていた。そして店の中央、ケーキの入ったショーケースの前には一人のウェイターが座り込んでいる。男はウェイターの正面にしゃがみ、銃を持った手を左右に振った。
「なぁ、お前のせいでこんだけの関係ない奴が迷惑被ってんだ。なんとか言ったらどうなんだ」
「……」
「この状況どうしてくれんだよ、マジで」
 妙に演技がかった話し方をする男の目的ははっきりしないが、どうやら座り込んでいるウェイターに対して腹の虫が収まらないらしい事は分かった。何も言えず黙ったままのウェイターを容赦無く蹴った事で、店内にいた女性客が小さな悲鳴を上げた。呻き声を上げ床に倒れた男の手を、別の男が踏みつける。先程までドアの番をしていた男だ。入り口に鍵でもかけたのか、その男もウェイターへの暴行に加勢する。そして、傍でもう一人余裕そうな表情で立っている女性を見つけた。店内に飾られていたものらしいテディベアをいじくりながら、ニヤニヤとウェイターと男二人の様子を傍観している。彼女もこの連中の仲間なのだろう。しかし良く見れば、彼女の手にも拳銃が握られており、まるでアピールするかのように見せつけている。綾の知らない日常を送っている人間達が占拠するこの場所は、この後どうなってしまうのだろう。綾が青ざめた事に気付いたのか、元気づけるようにコナンが手を握ってくれた。大人の綾よりも、小学生のコナンの方がずっと肝が据わっている。
 早く警察に通報したいところだが、この状況ではそんなことを出来る人間は一人もいない。それに下手をすれば、今度は自分がターゲットにされてしまう。皆当然ながらそう考えているが、だからと言って暴力を振るわれているウェイターを見て心が痛まないわけではない。どうにかしたいが、どうにかできる力が無い。口を閉ざしたまま唇を噛む者、怯える者、耐えきれず視線を逸らす者など様々だ。流石のコナンも見るに耐えなくなったのか、ウェイターから視線を逸らし、安室のズボンを少しだけ掴んだ。見かねた安室は、当然のようにコナンを抱き上げ、トントンと背中を叩いてやっていた。まるで本当の家族のようだと頭の端で考えたところで、安室に抱えられたコナンがボソリと呟いた。
「聞いて」
 安室と綾にしか聞こえない程度の小さな声で吐き出された声には、怯えは感じられなかった。
「この中で本物の銃を持っているのはあの男一人だよ。あの女の人が持っている銃は牽制のための偽物」
 淡々と話すコナンの声に耳を傾けながら、綾は視線の先で倒れているウェイターを見やる。殴られた痛みで唸る気力もないらしく、ぐったりとしている。よく見れば頬には涙が伝っており、綾は胸が締め付けられる思いがした。ただ無力に悲しんでいる綾とは反対に、コナンは打開策を見いだしたようだ。
「安室さんがあの銃を持っている男を、僕がもう一人の男を、そして綾さんがあの女の人に。三人同時に掴み掛かる」
「……」
「……」
 無言のまま「何を言い出すんだ!」と内心驚く。しかしコナンのそんな提案に安室は微かに頷くものだから、綾の選択肢は残されていない。掴み掛かるって具体的にどうすれば……と不安に思っている事を察してか、コナンは綾の上着を緩く握る。
「大丈夫、僕らがなんとかするから」
 これではどちらが子供か分かったものじゃない。前々から思っていたが、本当にコナン君は子供なのだろうか。安室に抱えられたまま、銃を持つ男達に背を向けているコナンは覚悟を決めているようだった。ここまで言われて「無理です」なんて言えるわけがない。「ええいもう、なるようになれ!」と自棄を起こし、綾も無言で頷いた。そうして安室に抱えられていたコナンが再び床に足を下ろしたタイミングで、店内にパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。ここにいる誰かが通報したものだとは思えなかったし、遠くにいるようだったが、後ろめたい事がある連中は揃って店の外の方に視線を向けた。その瞬間、安室が飛び出し、そしてその後にコナンが続いた。この後に自分も続くべきだと理解したのは、一秒後だった。
「! なんだテメェら、」
 掴みかかってきた安室に気付いた男は、銃を向けようと構えたが、容赦なく安室に手首を捻りあげられた。野太い悲鳴と共に銃が床に落ち、安室はそれを人質の方に蹴り飛ばした。銃が滑って来て驚いた客達ではあったが、すぐにハッとして銃を自分たちの後方に隠した。それを持つ勇気はないが、連中に渡してなるものかという意地が感じられた。
 コナンと言えば、どこからか取り出したサッカーボールを凄まじい勢いで蹴りあげ、銃を持っていない男を気絶させていた。本当にあの子は何者なんだと他人事のように考えながら、綾は偽の銃を持っている女に体当たりした。その衝撃で倒れ込んだ彼女を更に抑え込もうとしたが、それより先に彼女に銃を向けられた。こうすれば勝ちだ、とばかりに誇らしげに笑っている彼女を無視して容赦無く跨がると、彼女は引き金を引いても弾が飛び出ないそれに驚いているようだった。コナンが偽物の銃だと言ってはいたが、ここにきて「本当に偽物だったんだ」と理解する。根拠も何も聞いてはいなかったが、コナンの言葉を信じて良かったと、綾は女の両手を床に縫い付けるように掴む。押し倒すような体勢になっている綾を振り払おうと、女は腕に力を入れて抵抗する。それが思いの外拮抗し、女同士の争いは泥仕合と化しそうになる。しかし、先程凄まじい蹴りを炸裂させたコナンがニッコリとしながら近づいてくると、途端に女は黙り込んだ。コナンがサッカーボールを持っていたから、余計に怯えたのだろう。女が抵抗をしなくなったのを見計らい、綾は彼女の上から退く。その移動の際、彼女が先程までいじっていたテディベアが足に当たった。白っぽい毛が特徴的なそれをなんとなく手に取った綾は、客達が安堵して話し始める空間の中でそれに視線を落とす。しかし、近場でカチャリと控えめな音がして顔を上げると、状況は一変した。
「動くな」
 黒く光る銃を片手にそう言い放ったのは、なんと客だと思われた男だった。いかにもラフな格好の男の手にはこの店の紙袋が握られており、まさか連中の仲間だとは思いもしない。そもそも、なんでこんな物騒なものを持った連中が洋菓子店にいるのか、というのが問題だ。しかしそればかりは本人に聞かなければ分からず、かと言って今そんな事を聞ける状態ではない。途端に静寂を取り戻した店内で、客に扮していた男は「あーあ」とため息をついた。
「予定が狂っちまったじゃねぇか、どうしてくれんだよ」
 銃口を綾とコナンの方に向け、男は綾の手にあるテディベアに視線を落とす。
「オイ、そのクマ持って来い」
 綾の手にある、この白っぽいテディベアの事だろうか。短い時間で何度も考えたが、これしか考えられない。ギギギという音が鳴りそうな程にぎこちなく首を動かし、綾は白いクマのぬいぐるみに視線を落とす。そして、視界の端に見えた女も固まっている事に気付いた。先程まで本物だと思い込んでいた銃を持ってニヤニヤとしていたというのに、その余裕が感じられない程に息を潜めている。今銃を構えているのは、先程安室とコナンと共に大人しくさせた連中とは別の存在だと、女の様子を見て気付いた。
「早くしろ」
 銃口を向けられたまま急かされ、綾はビクリと肩を震わせた。早くこれを持っていかなければ殺されるかもしれない。そう考え至った瞬間、そもそもこれを渡したところで殺される可能性もある事に気付く。こちらに銃を向けている男は、何を考えているか分かったものではない。そもそも、この日本社会で普通は手に入らない物を持っている時点で、信用なんてできるわけが無い。
 瞬間、走馬灯のようなものが脳裏を駆け巡る。物心ついた時の思い出から、未来の世界に行くという珍事、そして過去の夫と再会できた今と、印象深い思い出が蘇る。視界の端で安室がジリと足を動かしたのが見えたが、銃を構えた男はそれを見逃さず、安室に「動くと撃つ」と警告した。それに対して舌打ちでもしそうな様子の安室を見て、綾はぼんやりと考える。
 もしここで死んだら、未来の安室……いや、降谷零に会う事もなくなってしまう。未来に行った時の事を思い出してから、綾は専ら未来の夫中心の生活を送っている。未だ進展の兆しは無いが、それでも未来の夫の『願い』を頼りにここまで頑張ってきたつもりだ。自分が『零さん』に会えないのも辛いが、何より彼が「幸せだった」と言ったのが忘れられない。彼にもう一度会うんだ。死にたくない。死にたくない。しかし、銃は容赦なく綾に向いている。
 ……これも運命だと言うのか。店に来る前、植木鉢が落ちてきた時から、今に至るまでが全て。
 そう考えた瞬間、綾は割れてしまった植木鉢の持ち主の言葉を思い出した。誤って鉢を落としてしまったが、結局その鉢はそうなる運命だった。運命。この先の決まっている未来。過去の世界で私が死ねば、当然その先の未来は無い。これは『過去』に重きを置いた話だ。しかし逆に、これから四年後の未来の世界で、私は生きて生活していた。それが例えば「運命」なのだとしたら。私はもしかしたら、ここで死なないかもしれない。そう「決まっている」かもしれない。緊迫した空気の中、妙な理屈が過り、綾は落ち着きを取り戻す。綾が今生活しているこの時代は、丁度未来の世界に行った年の中間に当たる。過去と未来、どちらの影響が出るのか分からない時代。影響を与える事ができるかもしれない時代。妙に冴え渡っていく思考をよそに、コナンが綾の服の裾をツイツイと引っ張った。
「そのぬいぐるみ、僕が持っていくよ」
 静かな声だった。この緊迫感の中でも尚、この子供の目には諦めの色はない。どうやってこの状況を打開してやろうかという意思が垣間見えるコナンの瞳を見ていると、なんだか情けなくなった。
 怖いと思うのは正常なはずだ。拳銃を向けられたのも今日が初めてである。ここは日本なのだから当然だ。あの手に握られている黒い物から放たれた弾に当たったら痛いだろう。痛いどころか死ぬかもしれない。身近にないものではあるが、あの銃というものの恐ろしさは知っている。それをこちらに向けられて怯えないわけがない。現に綾を含め、壁際に座り込んでいる店内の客達も皆、いつアレの引き金が引かれるのかとビクビクとしている。この狭い空間の中でアレに立ち向かおうとしているのは、目の前にいるコナンと、少し離れた所に立っている安室だけである。何故そんな気丈でいられるのか聞きたい程だ。
「早く」
 拳銃をこちらに向けている男をチラリと見てから、コナンは手を出して急かす。綾は言われるがまま、手に取ったテディベアを渡そうとして、途中で腕を止めた。それに驚いたらしいコナンの表情を見たら、なんだか可笑しくなった。正直怖いし、泣きたい。しかし、大人としてこんな子供を危ない目に合わせるわけにはいかない。それに、安室と再会するきっかけとなったコナンには感謝しているのだ。覚悟なんて決まらなかったが、腹を括らざるを得ない状況に無理矢理持ち込んでやろうと思った。
「……ありがとう、コナン君」
 テディベアをコナンに渡さず、そのまま綾は立ち上がる。それを見たコナンは「危ないよ」と言ったが、それはお互い様だし、尚更で今更だ。
「大丈夫。私、あと四年は死なないから」
 多分。あの人が未来で待っていてくれる限り。
 そうして半泣きになりながら、拳銃を持つ男の方に歩いて行く。銃口は相変らず向けられているし、いつ撃たれるかも分からない状況の中で、緊張で今にも吐いてしまいそうだ。相当に酷い顔をしているのか、銃を持った男は綾を見てけらけらと笑っている。
「どうした奥さん、すげぇ不細工な顔してるぜ」
「……」
「そうだよな、怖いよな」
 銃を手に鼻歌でも歌い出さんばかりの様子の男は、愉快そうに片手を腹に添えて笑いはじめた。つくづく思考回路が理解出来ずに恐怖を覚えたが、その瞬間、男が手から拳銃を落としかけた。体を震わせて笑ったせいか、その振動で手から銃が浮き、重力に従って落下しそうになる。時間にするとほんの一秒くらいの事だったが、綾にはそれがまるでスローモーションのように見えた。男は手から離れた銃に意識を集中させ、こちらを見ていない。反撃するなら今なのではないか。
 そう思ったら、考えるより先に体が動いていた。この一瞬の隙をつき、なんとかあの男から銃を取り上げるか、タックルでもかましてやるか、とにかくどうにかしてやろうと咄嗟に走った。綾の行動に気付いた男は、覚束ないながらも拳銃をしっかりと握り直したが、それよりも綾が男にぶつかる方が早かった。勢いまかせに突っ込んだものの、女の綾の力は及ばなかったらしく、まるで抱きとめるかのように受け止められた。男の顔は見えないが、男がニヤッと笑った気がした。
「いってぇなァ!」
 力任せに投げ飛ばされ、綾は近くの壁に激突した。体全体が打ち付けられ、一瞬息ができずに咳き込む。呻き声も上げられないまま壁にもたれかかり、ズルズルと座り込むと、後頭部に固い銃口が押し付けられた。
「詰めが甘いな、奥さん」
「お前がな」
 瞬間、バキッ! と骨が軋むような音が響いた。途端にドスンと倒れ込むような音が響き、綾はなんとか後ろを向く。そこには倒れ込んだ男と、銃を奪い取った安室が立っていた。どうやら安室が隙を突いて殴ったらしく、男は頬を抑えて踞っていた。何が起こっているのか分かっていない様子の男の顔の傍に、発砲音と共に穴が空く。
「おっと、すみません」
 間違って引き金を引いてしまった、と言わんばかりの様子の安室だったが、見ていた側からすると「嘘だ」としか思えない態度だった。それに綾は安室が警察官だと知っている。銃の携帯を許された人間が銃の扱いを知らないわけが無いし、何より銃を使ったというのに動揺した様子もない。銃声を聞いた周りの人間の方が動揺している始末だ。
 これは安室なりの仕返しで、警告なのだろう。煙が上がる小さな空洞を目の前に、倒れている男は憎らしげに安室を見上げる。それに対してニコリと笑った後、安室は男に銃を向ける。
「まぁ、これは妻の分ということで」
 これから警察を呼ぶから大人しくしていてくれ、と脅しをかける安室をぼんやりと眺めながら、綾は今自分が生きてここにいることを実感し、じわじわと舞い上がる。まるで降谷と結婚する未来は変わらないと、安室本人の手によって証明されたような気がした。
「大丈夫ですか、糸見さん」
 彼は『夫』から『安室』に戻る。綾に対する声色は優しいのに、男に対する扱いは容赦無い。こういうところは、未来でも変わらないのだなと、綾は安堵の息をついた。

back  next