like a flower

 未来を知っていれば、果たして同じ道を辿れるのだろうか。

 いつもの通い慣れたスーパーの一角。昨夜料理番組で見た鯖の味噌煮が美味しそうだっため、綾は鮮魚コーナーで鯖を吟味していた。魚の鮮度を見極めるコツなどがあるというのは知っているが、詳細までは把握していない綾は、とりあえず手に取った二つを見比べる。素人考えでは大きくて張りのあるものが良さそうな気がするが、どうなのだろう。そんな事をぼんやりと考えていると、綾の隣に他の客が立った。綾と同じく並ぶ魚が見たいであろう客のために、綾は気持ち横にずれる。瑞々しく青銀に光る魚の体の模様にまで視線を巡らせるが、いまいち分からない。そんなに味に差が出るわけでもないだろうしもういいか……と諦め、片方を元の場所に戻そうとした時、不意に声をかけられた。
「こっちがいいんじゃないですか?」
「……えっ?」
 パッと顔を上げると、綾の隣に立っているのは安室だった。何故ここに、と聞こうとして、その質問が愚問だという事に気付く。安室も人間だ、スーパーで買い物をしていたってなんらおかしくは無い。
「今日はセロリを買わないんですね」
 ちらりと綾のカゴの中身を見てから、安室も鯖の入ったトレイを手に取る。からかいの発言に少しだけ居心地が悪くなったが、今更だと思って開き直る。
「家にまだ蓄えがあるので」
「そうですか、残念」
 わざとらしく肩を竦めてみせる安室をじとりと見るが、本人は気付かないふりをして並ぶ鮮魚を眺めている。スーパーで居合わせたのは偶然かそうでないのかは分からない。しかし、安室が綾にわざわざ声をかけてくるという事は、何かあるのではないか。安室透という合理的な男を散々見てきたせいで、綾は身構える。
「まだ何か聞き出そうとしてます?」
「……否定はしません」
 ほらやっぱり。今度は何を聞かれるんだろう……と肩を落としながら、綾は自身のカゴに鯖を入れる。先程安室が「こっちがいいんじゃないか」と言ったものだ。綾も綾でちゃっかりしている。
「でも、今日は普通に挨拶をしておこうかと思って声をかけただけですよ」
「本当ですか……?」
「ええ」
 疑り深い綾を見て、安室はカラカラと笑う。その表情からは嘘を言っているようには見えないが、この人は本音を隠すのが非常に上手い。彼の笑い方や仕草のひとつで、どれが本音なのか気付けたらいいのに、綾にはいまいち分からない。「目を見れば分かる」なんて言う台詞があるが、安室の目を見ても区別がつかない。安室の事が好きなのに、綾は見極められる域に達していないのだ。未来の世界で彼と一緒に生活していたというのに、今更こんなことに気付かされるとは思わなかった。いくら夫婦として生活していたとしても、彼と過ごしたのはたった二ヶ月程だ。そんな短期間で夫の事が全て分かるはずがない。それに零さんも、綾に言いにくいという理由で隠している部分もあった。「良い思い出ではない」と暗に夫は言っていたが、それすらも今は知りたい。良い事も悪い事も全て彼と共有できた瞬間、8年後のあの人にまた会える気がする。
「安室さんってどんな人が好みなんですか?」
「……急ですね」
「折角なので聞きたいと思って」
 綾の気持ちなんてバレているので、今更恥ずかしく思うのも馬鹿らしくなってきた。安室だって照れもせずに、綾からの好意を言葉を受け取ってくれる。そして受け取った好意を、さり気なく元の場所に戻すのだ。さながら、先程彼の手の中にあった鯖のように。
「そうですね、穏やかな人でしょうか」
「穏やか……」
 フムと頷いてから、綾は自分という人間がどんな人物か振り返る。安室の「穏やか」という言葉を聞いて綾の頭に浮かぶのは、立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花、という言葉が似合う女性だ。安室の容姿やスペックも相まり、彼の好みが平凡な女性だとは思えない。自分がそれに当てはまっているかは、火を見るよりも明らかだ。
「私って穏やかに見えます?」
「どっちかというと、一人で騒がしそうにしている感じはしますけど」
「…………」
 それはストレートに好みじゃない、と言いたいのだろうか。それに一人で騒がしいとはどういう意味なのだろう。独り言なんて普段言ってないはず……とぐるぐると考えていると、安室は笑いながら「そういうところ」と言った。
「黙ってますけど、頭でいろいろ考えてるんだろうな……とこちらに筒抜けですよ」
「う……」
 比較的オブラートに包んだ発言をする安室に面と向かってシャットアウトされ、綾はズーンと沈む。安室に初めて会って日が浅い時はやんわりと断られたり否定される事が多かったが、先日の植物園でのデート(暫定)以来、安室はわりと容赦無い。気を許してくれたのかも! などと前向きに捕えてはみたものの、どちらかというと安室が気を遣うのに疲れてきたからのような気がする。そりゃあ、何故安室のプライベートな個人情報を知っているのかと聞かれて「昔、未来で貴方に教えて貰った」なんてとんちんかんな事を言う女なんて、面倒くさいことこの上無いだろう。安室さんも女性相手に手を焼く事があるんだな〜なんて、無理にポジティブに捕えるしかない。
「糸見さんって、少し変わってますよね」
「え?」
 追い打ちの如く、安室は続ける。
「好きな人に振られたら、普通辛いですよね?」
「……?」
 確かにそうだが、何故安室が神妙にこんな事を言うのかは良く分からない。綾だって初対面時にはじまり、これまで安室にお断りされ続けている。ショックではないと言えば嘘になるが、もはや袖にされる事にも慣れつつあった。その事について安室が疑問に思っているのかと考えたが、どうやらそうではないようだ。
「初めてポアロで会った日、貴女は僕に『結婚してください』って言ったじゃないですか」
「……はい」
 彼との再会に感極まり、思いがけずプロポーズしてしまった時の事だ。あの後、安室に申し訳なさそうに断られたのも随分と前の事のように思う。
「あんな事の後で、僕に会うのは気まずかったはずだ。そのわりに、貴女は相変らずポアロに通っている。周りから好奇の目で見られているのを分かっていて、羞恥に耐えながら」
 何が言いたいのだろう。手持ち無沙汰に、綾は自身のカゴの中にある長ネギに触れる。
「少しくらい落ち込んでも不思議ではないのに、貴女は異常に前向きな気がする。前向きというより、意地のようなものすら感じられる……」
 安室はもはや、目の前に並んだ魚を見ていない。視線をそちらに向けたまま、意識の全てをこちらに向けている。
「何か他に理由があるんじゃないですか」
 流石安室と言うべきか、確信を突かれて綾は目を見開く。
「糸見さんって、本当に僕が好きなんですか?」
 まさかそんな事を言われると思わず、綾は不意を打たれた。しかし、この質問には非常に既視感があった。
「ふふふ……」
「何ですか?」
「いえ」
 未来の世界で綾が悩んだ事と同じ疑問だった。今の安室は綾に対して好意を持っていないだろうが、同じ考えに至ったという事実が可笑しい。今、綾の隣に立っているのは確かに『未来の夫』と同一人物ではあるが、『彼』ではない。綾が好きなのは『未来の夫』であって、安室透ではないんじゃないか。安室は勿論未来の自分の事を知る由も無いが、言いたいのはだいたいこんな事だろう。それに対する答えは簡単だった。それも、未来の夫と同じ結論。
「理屈じゃないんですよ」
 理屈ではないのだ。結局自分の事を知らない安室に会ったとしても、彼が好きなのだからしょうがない。零さんも、8年分の記憶が無い私に対してこんな気持ちだったのかな……なんて考えてから、なんだか嬉しくなった。
「そんなものですか」
「ええ」
 もしかしたら、自分は安室の中でミステリアスな女だと認識されているのかもしれない。……いや、ミステリアスというよりは、辻褄の合わない、奇怪な存在だと思われている線の方が強そうだ。それでも彼の意識の中に滑り込めているのなら、上場だと思う。
「好きですよ」
 サラリとした台詞ではあったが、綾は再び安室に告白する。気の抜けたJポップをBGMに発せられた言葉を聞いても尚、安室の表情は変わらなかった。
「そうですか」
 コクリと頷いて、安室はカゴを持ち直した。中にはセロリが既に入っている。好物を綾に隠す気の毛頭ない行動に、じわりと胸が熱くなった。

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