offense and offense

 何年も前に流行った曲が、気の抜けた音源で響く店内。ごく最近できたこのスーパーマーケットに通うようになって二週間になる綾は、頻繁に野菜コーナーのある場所の前に立っていた。未来の世界に行った時までまず手に取る事の無かった緑の野菜を手に取り、何個かカゴの中に入れる。個人的に野菜が好物であるという人は少ないように思うが、このセロリという野菜が一番好きだと言う人間はもっと少ないだろう。その希少な存在の一人である未来の夫は、セロリをそのままかじる事があるくらいにこの野菜が好きだった。何故好きなのかと聞いたら「わからないけど好きなんだ」と零さんにしては珍しく曖昧な事を言っていた。しかし、そうと分かれば彼の好物を使った料理を作りたくなるのは自然の事だった。おかげで人よりはセロリを使った料理には詳しい。夫にもいろいろと教えて貰い、彼の好みの味付けもある程度把握している。現状、告白をしたにも関わらず安室に相手にされていない綾ではあるが、今後のためにもと健気にレパートリーを増やしていた。この成果を果たして披露する事ができるのだろうかと脳裏を過ったが、とりあえず今は考えない事にする。
 今日も今日とてセロリをカゴに入れたせいか、野菜コーナーを整理していた店員がチラリとこちらを見る。この野菜を頻繁に買って行く客が珍しいからか、顔を覚えられている気がする。綾も店員の方に顔を向けたが、店員は素知らぬ顔で視線を逸らし、野菜コーナーを立ち去って行った。その様子をじとりと眺めながら、綾は小さくため息をついた。こんな事ばかり一人でやっていても、安室に近づく事ができないというのは重々分かっている。もっと別の行動を起こさなければいけないのだろうが、ここの所の綾は失敗続きだった。
 まず初対面での公開告白、しかもいきなりプロポーズ発言をする女と印象づけてしまったのが最悪だ。そこから他の女達から頭一つ抜きにでようと思っても、なかなか上手くいかない。マイナスからのスタートラインに立っている自分は、果たして安室の中でどのように処理されているのだろう。それを考えて沈んでいるところで、ふと綾の隣に誰かが立った。十中八九、この青野菜コーナーに用がある客だ。先程からずっとこの場を占拠してしまっていた事に気付き、綾はとっさに振り向く。申し訳ないという気持ち半分でなんとは無しに隣の客を見上げると、なんとそこに安室が立っていた。一瞬反応が遅れた綾だったが、まじまじとこちらを見ている安室と目が合って二秒後、思わず後方に飛び退いた。
「うわっ!」
「ははは、驚きすぎじゃないですか?」
 綾が飛び退いたと同時に手から落としそうになったカゴをさり気なく支え、安室は小首を傾げてみせた。急に隣に知り合いが立っていれば誰だって驚く。現に安室も驚かせるつもりでそこに立っていたようで、悪戯が成功した子供のように楽しげだ。
「もう、驚かせないでください……!」
「すみません、つい」
 安室はチラッと綾のカゴの中を見てから、何気なく尋ねる。
「お好きなんですか?」
 何が、と口にしそうになってから、綾は自身のカゴの中身を見て察した。今の所、中にはセロリが複数入っているだけだ。そんなに料理で多用する野菜でもないから、安室がそう思うのも不思議では無かった。
「ええ、私もセロリが好きで……」
 あはは、と笑いながら頭を掻くと、安室は不思議そうな顔をした。
「私、も?」
「はい?」
「いえ、まるで他にもセロリが好物の方がいるようだったので」
「え」
 しまった。目の前に立つ人の好物がセロリだと知っていたから何気なく口にした言葉だったが、墓穴を掘った。どうしよう……と一瞬思考を停止させた綾だったが、ある事を思い出してからハッとする。
「いやっ、その……前にポアロに行った時に、誰かがそんな話をしていたんですよ! 安室さんがセロリ好きだって」
 これは事実だ。ポアロに通っている女子高生達がそんな話をしていたのを聞いた事がある。詳しい事は上手く聞き取れなかったが、実際に「安室さん」「セロリ」「好きだよね」というワードは確かに聞こえた。恐らく間違っていないだろうと安室を見上げると、彼は「成る程」と顎に指を当てた。
「そうでしたか」
 どうやら納得してくれたらしい。意外にもあっさり引いた安室に安堵し、綾はカゴの中に入っているセロリの上に白菜を乗せる。特別必要なものでは無かったが、多めに入っているセロリを隠すための悪あがきだった。そして安室の好物がセロリであると知った上でこんなに購入している事を伝えたのは、非常に恥ずかしい事なのではないかと今更気付いた。墓穴から逃げようとして別の墓穴を掘っている。穴があったら入りたい。いや、むしろ入っているのか。
「……そういえば、先日糸見さんが話していた事件、解決したようですね」
 何の事だろう。すぐに心当たりに行き着かなかった綾に気付いて、安室は続ける。
「ビルでクリスマスの飾り付けをされた男性の遺体が見つかった件です」
 それを聞いてから、綾も「あぁ」と頷いた。この前ポアロに行った時、軽く触れた話題だった。そして綾が失言をしてしまった事でもある。その時にはまだ解決していなかった事件の先を喋ってしまった事で、安室に不審に思われたのではないかと不安に思っていた。動揺を悟られないように視線を青野菜コーナーに向けてから、綾はしらばっくれるように「そうなんですね」と口にする。
「実は毛利先生のツテで、その事件についてちょっとした話を聞く機会があったんですよ」
 何が言いたいのだろう。しかし、何か嫌な予感がする。友好的な笑みを浮かべているこの人が、なんだか不気味に感じられる。この人が本当に、未来の零さんなのだろうか。
「報道では、犯人の男については一般人とされているようですが、実は警察関係者らしい」
 安室が何を言いたいのか分かり、背筋を冷や汗が伝う。先日ポアロに行った時の綾の失言を、彼はしっかりと覚えている。覚えているどころか、ここでこの話をするという事は何かひっかかっているからだ。それはもう的確に、確信を持って。
「糸見さん、先日言ってたじゃないですか。『事件の犯人って意外でしたよね。警察官だなんて』って」
 もしかしなくても、彼はそれを追及するためだけに今ここにいるのではないか。まるで立ち話をしているのだとアピールするように、安室はセロリではない青野菜を手に取る。未来の夫は食べ物の好き嫌いは特に無かったが、中でも彼があまり好まない野菜だった。まるで、お前はせいぜい「これ」程度なのだと、暗に伝えられた気がした。
「何故ご存知なんですか?」
「それは……」
 未来でその事件のニュースを見たから、なんて言えるはずがない。
「別の何かの事件と勘違いしてたんです。それが偶然、その事件と被ったというか……」
「ではその別の事件というのは、どういうものだったんですか」
「さぁ、それもハッキリと覚えていなくて」
 こうなったらシラを切るしかない。もはや安室との雑談ではなく尋問に成り果ててしまったこの空間に近づく客もいない。誰か助けてくれないだろうか……と心の内で嘆いても、神様は助けてなんかくれない。
「糸見さん、嘘をついていますね」
 鋭い一言が綾に刺さる。何故そう思うのか、と安室に尋ねようとしたが、恐らく理屈に理屈を捏ねた証拠を突きつけられる気がした。未来の彼にも言い合いで勝てた試しがない。しかも断言する辺り、きっと綾も言い返せない確証がある。どうしよう、どうしよう……と必死に考えるが、追いつめられたこの状況で妙案も思いつかない。結局、綾に残された道は、開き直る事しか無かった。
「……言わなきゃ駄目ですか?」
「僕も探偵の端くれなので。この謎の真相を知りたいんですよ」
 にっこりと笑っているが、凄まじい圧のようなものを感じる。何が何でも「吐かせる」という勢いだ。こんなに相手に容赦のない安室を見たことがない。あまりに高圧的で、この後綾がどう思うかなどと考えてもいないようだ。……いや、むしろそれも狙いなのだろうか。綾が安室から離れていくかもしれないと、あえて鋭く切り込んできているのだろうか。そう思い至ると、綾の方も意地になる。絶対にこの男の事を諦めてやるかと、決意を固めて二週間。期間は短いが、意思は強い。とにかく今は、この場を逃げ切り、立ち向かうための言い訳を考える時間が欲しい。安室の後方で、客が「コーヒー家にあったっけ?」と電話で誰かに確認している声が聞こえた。それだ、と思った。
「じゃあ今度、私とどこかお茶しに行きませんか? もし付き合ってくれたら話します」
 我ながら最高の思い付きだった。安室への言い訳を考える時間も稼げる。しかも、安室は綾に対して釣れない対応をする事が多かった。この誘いは、断られる可能性が非常に高い。それはそれで堪えるものもあるが、綾は安室の思い通りにもなりたくなかった。これならどうだ! と鼻息を立てると、存外安室はあっさりとしていた。
「いいですよ」
 てっきり断られると思ったのに、安室の意外な返事に拍子抜けする。「何で」と口にしそうになった綾ではあるが、内心喜んでいた。彼からの追及があるのは分かっているが、一緒にお茶をする約束を取り付けてしまった。これはデートではないだろうか、なんて浮かれた。
「話してくれるのなら」
 しかし、最後に釘を刺された。

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