After eight years

 目が覚めたら、見知らぬ部屋のベッドの中にいた。妙に肌触りの良いシーツに布団、明らかに自分が愛用しているぺちゃんこな布団とは違うものの感触に、綾は冷や汗を流した。一体ここはどこだろう。布団の中に潜り込んだまま、そこから出る事が恐ろしくて、綾はぎゅっと縮こまる。この状況は、あれなのだろうか。飲み会帰りに酔っぱらってしまい、誰かと一緒にホテルに入ってしまったという流れなのだろうか。しかし、綾の記憶が正しければ、昨日は夜遅くまで課題のレポートに取り組んでいたはずである。そろそろ〆切が近いので、手をつけておかなければとパソコンに向かい、資料を読み返しながらある程度進めていたはずである。いくら考えても、飲みに行ったり、外出した記憶がない。それならそれで、この状況はどういうことなのだろう。
 とりあえず布団から起き上がった綾は、自身が沈んでいたベッドから寝室の様子を見渡した。思いの外広い部屋には、大きなベッドが一つと小さなテーブル、椅子が二つ置かれているだけである。明らかに二人用……というか、どう見ても夫婦の寝室である。何やら修羅場の臭いしかしない。ゾッとしながらも、綾は自身の体を確認する。着ているラフな部屋着には見覚えは無いが、体の節々が痛んだり、何かがあったであろう形跡はない。それにホッとしたものの、現状の謎が余計に深まる。
 何故自分はここにいるのか。そもそもここはどこなのか。他に誰かがいるのだろうか。音をたてないようにそろりとベッドから抜け出し、サイドテーブルの上に置いてあるリモコンを手に取り、綾は寝室の入り口に向かう。ドアに耳をあてて物音がしないか確認したが、この先の部屋からは生活音のようなものは聞こえない。コクリと息を飲み、綾はリモコンを護身用の武器として抱えながら、ゆっくりと寝室のドアを開いた。その先には、何てことは無いリビングが広がっていた。やはり、この家には綾以外誰もいないようだ。そうと分かれば、と綾は早速物色を始める。まずはここが誰の家なのか、郵便物でも無いかと探るが、不思議な事に宛名の書かれた封筒などは出て来ない。不思議に思いながらも、綾はテーブルの上に置かれたメモに視線を落とす。何やら可愛らしい小さなメモには、達筆で『三日程で戻る』と書かれている。この家の住人は家具の数からして、恐らく二人だろう。そのうちの一人が、もう一人に宛てたらしいメッセージである。しかし、このメッセージを貰ったはずの人間は今ここにはいない。外出でもしているのだろうか。純粋に疑問に思った綾は、リビングを抜けて廊下を歩き、玄関の前に立った。玄関には女物のスニーカーがポツリと置かれているだけである。傍にある靴箱を確認すると、男物の靴と女物の靴がそれぞれ綺麗に仕舞われていた。
 やはりここは、夫婦の家なんだろう。確信を得た綾は、心の内で謝りつつ、玄関に並んでいるスニーカーに足を突っ込んだ。不思議な事に、スニーカーは綾の足のサイズにぴったりである。違和感のないそれを履き、綾はドアを開けて外に出た。目の前の通路の向こう側、手すり越しに町並みが広がってはいたが、やはり綾の記憶には無い眺めである。本当にここはどこなのだろう。混乱しつつ、綾はドアの傍にある表札プレートを確認する。しかし、そこには部屋番号が記されているだけで、この家の住人の名前は書かれいない。外の景色を確認すればここがどこだか分かるかと思ったが、この光景には一切の心当たりがない。これはもう一度家の中を探して手がかりを見つける方が早そうだ。そう思って振り向き、自身が何故か転がり込んでいた部屋に戻ろうとドアノブを回す。しかし、何度か手に力を入れてはみたが、一定の場所からドアノブが動く気配が全く無い。……まさか、オートロックだったのか。サァと顔を青ざめさせた綾は、呆然と立ち尽くした。
 ここがどこだかも分かっていないのに、部屋着姿で家の外に放り出されてしまった。当然外出するつもりも無かったので、手持ちにお金も携帯もない。身一つである。ここで待っていれば、綾が先程までいた部屋の住人が戻ってくるだろうか。しかし、この部屋が誰の家かも分からない。住人が帰ってきたからと言って、この状況が好転するかもはっきりとは言えないのだ。しかも部屋の中に残されていたメモには、住人の一人は三日後に戻ると書かれていた。もう一人は、それよりも先に戻って来る可能性はあるが、確証は無い。
 こんなところで、三日も待ち続けられるわけもない。無一文ではあるが、ここは行動するしかない。そう腹を括り、綾はもたれ掛かっていた手すりから顔を上げた。まずは歩いて、ここがどこかを確認しよう。綾は部屋着という大部ラフな格好ではあったが、町中を出歩いていたとしてもギリギリ大丈夫そうなものである。じっくりと見られてしまうと恥ずかしいが、そんな事を言っている状況ではない。そうしてマンションを出た綾は、とりあえずここがどこか分かる看板のようなものを探した。そして見かけた看板に書かれていたのは『東京』という文字。大学に通うため、一人暮らしをしている綾の自宅圏内だと分かり、綾はここでやっと安堵した。お金を一切所持していないが、ここが都内ならなんとか家に帰れそうである。
 そうして看板を頼りに歩く事数時間程、綾は見覚えのある大きな駅にたどり着き、ある種の感動を覚えた。普段ならば自転車や電車で軽々と移動しているのだが、それに頼ることのできないこの状況では、その有り難みを痛感してしまう。自宅まではまだ距離もあるし歩く必要もあるが、ここまでくれば、後の道筋は分かる。とりあえず歩き疲れたので駅前のベンチに腰掛けて休憩し、綾はどこかで水でも飲めないかと記憶を辿る。歩き続けたせいで、喉はカラカラである。公園の水飲み場に行ってもいいが、お土産屋さん辺りで試飲できなかっただろうか……なんてぼんやりと考えながら、目の前でくるくると切り替わるデジタル広告を眺める。そして、画面に表示されている日付を何気なく見た後、思わず目を見開いた。日付は綾の把握している日時と変わりないが、その隣に並んでいる西暦を認めて呆然とした。見間違いだろうかと何度か瞬きを繰り返したが、そこに表示された四桁の数字は変わらない。
 夢なのだろうか。今ここにある電子画面から、壁に張り出されているポスター、ありとあらゆるものに書かれている年号は、綾の把握している年から八年も経過している。
 これはどういう事なのか。妙な焦燥感に襲われつつ、綾はベンチから立ち上がった。自分の気付かない内に八年も経過してしまったというのだろうか、いや、そんな馬鹿な話があるわけが無い。そうやって視線を逸らし、己を保とうとするが、綾の視界に飛び込んでくるのは、紛れも無く『八年』という歳月を感じさせるものばかりである。見た事の無い芸能人の広告、見た事のないマスコット、再来年公開予定のはずの映画の続編のポスター、見た事のない新型の携帯電話……等、どれも綾の認識から大きくズレ込んでいる。しかし、道往く人々は『綾にとっての異常』を『日常』と捕え、当たり前のように生活している。
 まるで世界にただ一人、取り残されているようだ。とても飲み込めない状況の中、綾は受け入れがたい現実を突きつけられる。夢ならば早く覚めてくれないだろうかと頬を抓ってみたが、残酷にも頬は痛みを感じ取る。どうしたものか、と本日何回目にもなる自問自答を繰り返し、綾はノロノロと自宅を目指す。
 もし。もし本当に八年の時が経過しているのだとしたら、私の家は残っているのだろうか。家賃の安いボロいアパートで、何年か後に建壊す予定もあったあの建物は、果たして今も存在するのか。そうしてぐるぐると考えながら、やっとの思いで自宅に辿り着いた。しかし、そこには見覚えの無い綺麗なアパートが建っており、綾はついに泣きそうになった。借りていたアパートも部屋も、どこにも無い。薄々勘付いてはいたが、本当に綾の知る時代から八年も経過しているのなら、なんら不思議ではない光景だった。
 こういうのって、神隠しって言うんだっけ。私の空白の八年はどこへ行ってしまったのだろう。ビュウと寂しい風が、綾の傍を通り抜けて行く。暫くは現実逃避をして、ぼんやりとしていたい気持ちはあるが、そろそろ日が暮れて来る時間帯である。現実問題、このままでは野宿コースまっしぐらだ。顔を青ざめさせた綾は、慌てて思考を巡らせる。八年前ならば、この辺りにある友人の家も何軒か心当たりがあったのだが、こんなに時間が経過していてはそこに今住んでいるのかすら怪しい。都内には親戚もいないし、強いて言うなら隣県の実家がここから一番近い。せめて電話のひとつでもできればいいのに。
 何かないかとポケットに手を入れると、チャリと金属が擦れ合う音が聞こえた。ハッとしてポケットの中身を取り出すと、そこには十円硬貨が二枚入っていた。そういえば、昨日レポートを書いている間に喉が渇いて、ジュースを買いに行ったのだ。その時のおつりを後で財布にしまおうとポケットに入れっぱなしにしていたのだが、まさかそれが希望の光になるとは思いもしなかった。ここからまた歩く事にはなるが、ここに来る道中で見かけた公園に電話ボックスがあったはずだ。そこから実家に電話をかけて、迎えに来てもらおう。幸いな事に、実家からここまでは車を飛ばせばそんな遠いところにはない。
 飲み込みきれない現実を受け止めつつ、綾は小銭を握りしめて公園に走った。今日一日だけで随分歩いたものだから足が痛いが、早く見知った人に会いたいという思いが体を軽くした。公園についてから電話ボックスに駆け込み、お金を入れて電話番号を入力する。コールの最中に、何と家族に説明するか考えるが、思考の最中で受話器の向こうから「もしもし、糸見です」と言う母の声が聞こえた。聞き覚えのある声に、少しだけ涙が出た。
「もしもしお母さん!?」
『あら、綾。久しぶりねぇ、どうしたの?』
「あのね、無理を承知でお願いしたいんだけど!」
『えぇ?』
「私を迎えに来て欲しいの」
『迎え? あなた今どこにいるの?』
「東京。今から東京駅に行くから来てくれない? 私今お金全く持ってなくて、家に帰れなくて……」
『なに、零さんと喧嘩でもしたの?』
「零さん?」
 誰だそれ。綾が一瞬、ひっかかりを覚えたタイミングで、母は「やっぱり!」と言いたげな反応を見せた。
『もう、零さん忙しいんだから余計な心配かけちゃ駄目でしょ』
「え……いや、待って、零さんって誰?」
『何をとぼけた事言ってるの』
 心底呆れた、といった様子の母の後方で、父が「電話誰からだ〜?」と呑気に尋ねる声が聞こえた。

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