trigger

「いらっしゃいませ」
 休みの合間をぬい、懲りずに喫茶ポアロを訪れた綾は、安室の足下に巻き付いている子供に目を止めた。玩具のミニカーを片手に持ったまま、ぎゅうぎゅうと安室の左足に抱きついている。歩きにくそうにしている安室ではあるが、客に向ける笑顔はいつも通りだ。綾の当然の疑問に気付かないはずがない安室は、ハハハと苦笑いを浮かべる。
「少し事情がありまして……」
 安室がそう言うと、奥の席に座っていた女性が申し訳なさそうに「すみません……!」と頭を下げた。どうやらこの小さい男の子の母親らしい。ペコペコと頭を下げる母親と一緒に居合わせている友人らしき人達は、その様子を見て面白そうにクスクスと笑っている。
「安室さんが良く遊んでくれるから、すっかりお気に入りなんですよ」
「成る程……」
 カウンターの向こう側にいた喫茶店員の梓が、綾に笑いながら教えてくれる。ここでの安室さんは非常に優しく親切で、そしてとても人懐っこい。大の大人に「人懐っこい」という表現はどうかと思ったが、それでも人好きするようなキャラクターの安室透には適している気がする。未来の世界で出会った降谷もそうではないというわけではないが、人懐っこいかと言われるとそうではなかった気がする。未来の夫と今の彼を重ね、違う部分を見つけ出してから、綾はいつものようにカウンター席に座る。
「糸見さん、いつもので?」
「はい、お願いします」
 足元に子供をひっつけたまま、安室はカウンターの向こう側へ移動する。ちゃんと小さい子の歩幅に合わせ、まるで戯れるように移動する彼の気遣いは、こちらの口元を緩めさせるには充分だった。あんなに子供っぽい無邪気な笑みが浮かべられるんだ。ここにきて初めて見る事のできた側面だった。
「こーいー?」
 コーヒーと言いたいのだろう。子供は必死にカウンターの上の様子を窺おうとしているようだが、物音が聞こえるだけで実行はできていないようだ。子供の頭より随分高い位置にあるカウンターを覗くには、踏み台か何かでもないと無理だろう。見たい見たいと駄々をこねる子供を宥めながら、安室さんはテキパキとコーヒーを作っていく。合間に歌なんかを歌ったりして、子供の気を紛らわせている彼を見ながら、綾は未来の夫を思い出す。
 降谷零という人は比較的、綾の前では格好いい人だった。隙もなく余裕もあり、優しくて紳士、そして真摯。時に、相手によっては恐ろしく冷たい顔をする事もあった。未来の世界では自分たちの間に子供がいなかった事もあるが、彼が小さな子供の対応をしているところを見た事がない。スーパーで駆け回る子供を見て、二人して「可愛いなぁ」なんて話したことはあるが、それくらいだ。未来の私とは「そろそろ子供が欲しいな」なんて話をしていたらしいから、彼自身も子供を望んでいたのは知っている。だからこそ、今目の前で安室と小さい男の子の戯れは、また違った光景に見えた。綾の良く知る隙の無い彼も、自身の子供を腕に抱いたらこんな表情をするのだろうか。安室透という男ではなく、降谷零として、子供と一緒になって歌を歌うのだろうか。
「お待たせしました。……糸見さん?」
 綾の前にコーヒーを置いてから、安室は瞬きを繰り返す。自分が安室をずっと見ていた事に気付いて、綾はハッと我に返る。うっすらと目に水分が張っていたが、なんとか誤摩化しながら「ありがとうございます!」と少し大きめの声で礼を述べた。安室は不思議そうな顔をしていたが、すぐに口元を緩めてから、足下にしがみついていた子供を抱き上げた。子供の手にはコーヒーフレッシュがギュッと握られている。何だ? と綾が首を傾げると、男の子は短い手を必死に伸ばして、コーヒーフレッシュを綾に差し出した。
「あい」
 はいどうぞ、と言いたげな子供の様子にキョトンとしてから、綾は状況を飲み込んで笑顔になる。どうやらこれを綾にくれるらしい。綾も綾で猫撫で声で「ありがとう〜」と言えば、男の子は嬉しそうにキャッキャと笑い、照れからか顔を両手で隠した。
「いたいいたい、とんでった?」
 痛い……と言いたいのだろうか。何故、そんな事を聞かれたのか一瞬わからなかった綾は、自分の目に張った水の膜について指摘されているのだと気付いた。こんなに小さい子供なのに、綾が少しだけ泣きそうになった事が分かったのだ。なんて子だろう……なんて感心半分、情けなさ半分、綾は出されたコーヒーにコヒーフレッシュを入れ、グイッと飲む。
「美味しい! もう痛く無いよ!」
 カツリ、と音をたててソーサーにカップを置くと、男の子は「よかったねぇ」と笑った。安室さんも微笑ましげに、子供の頭を撫でてやっていた。この光景がなんだか目映いものに見えて、綾は目を側める。痛く無い、と言ったそばで、また男の子に「いたいいたい?」と聞かれてしまいそうな心境だ。誤摩化そうと再度カップに口をるけると、奥のテーブルの会話が耳に入った。
「ね〜、もう安室さんと結婚してパパになって貰えば?」
「ちょっと!」
 奥の席から聞こえる主婦達の発言に、綾は思わず固まる。先程までのセンチメンタルから一転、急に現実に引き戻されたかのように頭を殴られるような衝撃だった。奥の席の会話は、安室にも聞こえていたのだろう。若干居心地悪そうに笑い、聞こえなかった振りをしつつ、子供を床に下ろしていた。
 分かってはいたが、この人がモテないわけがない。未来の世界でよくこの人と結婚できたな……などと他人事のように考えていたが、今となっては深刻な現実的問題だ。綾が安室目当てにこの喫茶店に通っているように、他に同じ目的を持った女性客は多い。それに彼が出会う女性は、喫茶店内に限られない。今の彼がどんな仕事をしているのかは良く分からないが、他の場所にいるライバルも多いだろうと簡単に見当がつく。その中の一番になるためには一体どうすればいいのか、というのが最近もっぱらの悩みだ。こんなにも異性相手に積極的になった事がなかったから、余計に。とりあえず唯一の接点であるここには通っているが、恋敵達と差をつけるような出来事は何もない。一線を画するにはどうすれば……なんて綾が悶々と考えていると、奥の席から「そういえば」という声が聞こえた。
「安室さん知ってます? この前、この辺であった事件の……」
「えぇ、マスターから聞きました」
 事件。なにか物騒な事があったらしいが、綾には初耳だった。首を傾げると、察してくれたらしい主婦達が、内容を教えてくれた。なんでもこの辺りにある建設中のビルの中から、明らかに他殺であろう遺体が見つかったらしい。しかもその遺体は大量のクリスマスオーナメントで飾りつけられており、一種の不気味さを孕んだものだった。そこまで聞いてから、綾もやっと思い出す。そういえば、そんな事件があったと心当たりがあったからだ。そんな綾の反応を見て、安室も口を開く。
「糸見さんもご存知でしたか」
「ええ。そういえば、その事件の犯人って意外でしたよね。警察官だなんて……」
 どこのミステリー小説か、というような事件だった。そもそもクリスマスの装飾を施された遺体、というだけでも小説にありそうなものだ。確か犯人は、亡くなった男の友人である警察官だった。男の敵を討ちたい、という動機で捜査に加わっていたらしいが、実際は捜査の状況を確認したかっただけに過ぎなかった。過去の一件で亡くなった男を恨んでいたらしい。何故遺体にクリスマスの装飾を施したのかという質問に「綺麗だと思ったから」とある種狂気じみた発言をしたと、テレビで言っていた覚えがある。そうして綾が記憶の糸をたぐっていると、不意に奥の席に座っていた主婦が疑問符を浮かべた。
「あれ? 犯人ってもう捕まったんですか?」
「……え」
 だって前にテレビで……と言いかけて、綾は口を噤んだ。確かにその事件の犯人について、テレビで放送されていたのを見た事がある。しかしそれがいつだったかはハッキリと覚えていない。珍しい内容だったから記憶に残っていただけだ。コクリと息を飲んでから、綾はコーヒーカップに口をつける。もしかして、この記憶は未来で見たものの断片なのだろうか。曖昧すぎて断言はできないが、現在進行形で起こっている事件の結末はまだハッキリとしていない。しかし綾はその結末を知っている。つまりはそういう事なのではないか。私は今ここではまだ起こりえない事を口にしてしまったのではないか。綾はゴクリとコーヒーを喉に流し込み、平静を装う。
「そうでしたっけ。じゃあ私の勘違いですかね」
 別の事件と勘違いしたのかも、と付け足せば、周りの人達は気を止める事なく「ですよね」と笑う。そうして喫茶店内の話題は別のものに移行する。物騒な事件繋がりで、最近隣町のスーパー付近でひったくりが数件起きているらしく、行く機会があるなら注意した方がいいとの事だった。スーパーに通う事の多い主婦らしい会話だ。それを聞きながら、綾はホッと息をつく。先程の自身の失言については誰も疑問に思っていないようだ。良かった……と再度コーヒーカップに口をつけようとして、綾の正面に誰かがいる事に気付いた。綾が座っているカウンター席の向こう側、自動的に誰がそこにいるのか限られてくるその場所から、視線を感じる。
 恐る恐る綾が顔を上げると、案の定そこには安室さんが立っていた。コーヒーの入ったポットを持ったままこちらを見下ろす瞳には、感情も何も無い。ただ真直ぐにこちらを見ている彼の目が、こんなに恐ろしいとは思わなかった。
 綾がヒクリと静止したタイミングで、安室の脚にくっついたままだった子供が「ねぇねぇ」と声を上げる。それに反応した安室は、先程までの無表情など無かったかのような笑みを浮かべる。「どうしたの?」と言って子供の目線の高さにしゃがんだらしく、カウンターの向こう側に姿が消える。しかし、未だに彼がこちらを見ているような気がして、綾の背筋に冷や汗が伝った。

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