Honey from the future

 彼に会いたい。ただそれだけの物語だ。

 私は昔、未来の世界に行ったことがある。こんな事を誰かに話したところで信じて貰えない事も重々承知だ。まともな人ならまず取り合ってくれない。理由を言うまでもなく、それはあり得ないからだ。人は過ぎ去った時を二度と歩めない。同時に、まだ知らぬ未来を知る由もない。今しか生きられない。
「いらっしゃいませ」
 ニコリと笑いかけてくれる彼の顔は、未来で会った彼と同じだ。違うのは、数年分若い事と、綾の事を知らない事。きっとその他にも違う部分はあるのだろうが、綾にはこれくらいしか分からない。それくらいの違いしかないのに、随分と違う人のように思えた。零さんも、こんな感じだったのだろうか。自分が8年前の世界に行っていた時の事を思い出し、綾は少しだけ立ち尽くした。
「……どうかしました?」
「いえ……」
 軽く首を傾げる安室に「何でもない」と言ってから、綾はカウンター席に腰掛けた。時間があれば、一週間に二、三度は喫茶ポアロに通っている。ここに初めて来た時の自分の行いのせいで、綾はちょっとした有名人である。ただし、あまり良い意味ではない。
「またあの姉ちゃん来たぜ」
「凄い執念ですよね……」
 ひそひそと小学生達が話ているのがなんとなく分かったが、綾はなんとか羞恥に耐える。その中に、とてもお世話になったコナン君もいるが、彼はきっと苦笑いを浮かべているだろう。私がこの店に来て開口一番に発した言葉を聞き、呆気にとられていたあの子の反応は正しい。あの時は、明らかに私の方がおかしかった。
「またあの人来てる」
「うわ、ほんとだ」
 コソコソと話す女子高生の声も聞こえる。彼女達は悪意と牽制をもって少し大きめの声で内緒話をしている。きっと安室さんのファンでもあるのだろう彼女達の冷ややかな視線は正直居心地が悪い。息をつける休息の場である喫茶店の中にいるはずなのに、綾の心はまるで休まらない。
 この空間を苦痛にしたのは自分だった。自業自得だが、はじめてこの店に来て零さん……否、安室さんと再会した時に感極まってしまった。今まで忘れていた大事な記憶を思い出した事、そしてその大事な記憶の多くを占める過去の彼に会えた事。これは運命なのではないか、と思いさえした。しかし、だからといって実質初対面の相手にプロポーズするのは正気ではなかった。あの時の私に「もっと冷静に考えろ!」と説教してやりたいが、過ぎ去った過去を変える事は叶わない。言われた安室さんも安室さんで、流石に困っているようだった。我に返り、店内にいる人達からの視線を集めていると気付いた時には、後の祭りだった。「お気持ちは嬉しいですが……すみません」と断られるのは当然だった。ここで安室さんが頷くはずがない。急激に羞恥心に襲われた綾は、それはもう謝り倒した。自分で何を言っているのか分からないくらいに頭を下げまくり、当初の目的を忘れて颯爽と店を出た。しかし、外に出て数歩歩いてから、今日はコナン君にごちそうするためにここに来たのだと思い出した。ウィンドウ越しに店内を確認すれば、コナン君を含めて全員がこちらを見ていた。あの空間の中に戻るのは気が引ける。それこそ鋼の精神力か、図太い神経でも持ち合わせていないと無理だと思った。しかし、コナン君にお礼をしたいと誘った手前、逃走するのは大人としてどうなのだろう。十秒だけその場に留まった後、綾はグッと腹を括った。そして息を整え、再度喫茶ポアロのドアを潜る。カランというベルが鳴った後、未だそこに立っていたらしい安室さんは、気圧されたように「いらっしゃいませ……」と再度口にした。「すみません……」と再度謝罪してから、綾はコナンの座る席に向かう。そして呆気に取られている少年の正面に座り、コナンにも謝ると、ぎこちない笑みを浮かべた。流石に思うところがあったのか、コナン君は「お店変える?」と気を遣ってくれた。しかし、ここまでくればもう自棄だ。綾は所謂「大人の対応」を突き通す事にした。

 そんな惨事から二週間程。自分がやらかした事が事だっただけに、喫茶ポアロの常連達に「初対面でプロポーズをかます女」と認識されてしまった。普通の人間なら、自身の奇行を知るこの店に二度と来る度胸も湧かないだろうが、綾にはそうもいかない事情がある。
 零さん……いや、今ここでの彼は安室透だ。未来の世界の夫は「安室透という偽名を名乗っていたことがある」とは言っていたが、その経緯までは教えてくれなかった。恐らく言えなかったのだろう。理由が気にならないわけではなかったが、彼はこうして目の前で「安室透」を演じている。周りの人間も、彼が「安室透」だと当たり前に思っている。しかし彼の本当の名前は「降谷零」だ。彼の本名を知っている自分は、きっと異端な存在だ。安室さんもまさか、綾が未来の世界からの出戻りの妻、なんて夢にも思わないだろう。知っている事は少ないかもしれないが、綾は「降谷零」のことについてはいくらか詳しいはずだ。そこに勝機があると、自分では思っている。
「糸見さん、いつものにされますか?」
「はい、お願いします」
 いつもの、が通用するくらいにはここに通い、常に同じものを注文しているのだと実感する。他意はないのかもしれないが、なんだか当て付けのような気がして顔を上げる。安室さんは相変らず、なんでもないような顔をしていた。内心では面倒だと思っていたと、教えてくれたのは未来の彼だ。
「そういえば糸見さん、ご存知ですか?」
「はい?」
「アナタの後ろに座っている彼」
 こっそりと、綾にしか聞こえないような声で安室がさり気なく耳打ちする。
「彼も常連なんですけど、どうやらパティシエのようで、ここに偵察に来ているみたいなんですよ」
「……そうなんですか?」
「ええ、恐らく」
 振り向いて顔を確認しようかと思ったが、今振り向いたらあからさま過ぎるかもしれない。帰る時にさり気なく顔でも見てみようかと考えている綾に、安室は続ける。
「ただ、どこの店の店員なのかは分からなくて……。糸見さん、今度彼に話しかけてみてくれませんか?」
「え……?」
「アナタになら、彼も本当の事を話してくれるかもしれませんし」
 安室さんはニコリと笑う。それを見て、彼の頼みなら……と一瞬頷きかけた綾ではあるが、ふと一瞬考える。未来での彼は非常に頭の回る人だった。相手を気遣う時やからかってくる時にもそれは遺憾なく発揮されたし、そして相手を追いつめる時も同様だ。彼は非常に合理的な考えの人だ。懐に入れた人間には優しいが、それ以外にはまるで容赦がない。今の綾は言わずもがな、後者だ。
「……私が聞き出すより、安室さんが聞いた方がてっとり早くないですか?」
 安室さんが彼の素性を聞き出そうと思えばきっとすぐだ。それをわざわざ綾にやらせるという事は、何か他の目的があるのではないか。そう……例えば、彼と話すうちに仲良くなって、綾が安室から彼に乗り換えたりだとか。そういう事を期待してお願いをされたような気がしてやんわり断ると、安室さんは申し訳無さそうな顔で「そうですかね」と言った。なんとなく、綾の予想は当たりの気がする。
 彼と綾の距離は随分遠い。今の綾から伸びるベクトルが強いだけで、彼はまるでこちらを見ていない。こんな状況で、未来の自分は良く彼と結婚できたなとつくづく思う。しかし、諦めるには彼への思慕を募らせすぎた。未来の彼が言った「綾といられて幸せだった」「諦めないでくれ」という言葉を胸に、綾は折れてたまるかと腹をくくる。
 未来の彼とまた会う為には、彼との仲を縮める他ない。そして、安室さんと仲良くなって、彼の正体が「降谷零」であると明かしてもらわなければならない。そのためにはやはり、周りからの視線が痛くても、彼との唯一の接点である喫茶ポアロに通うしか方法がない。
 未来の私と同じ道を歩けているのかは分からない。しかし、彼を諦めない事が何より大事だと思った。
「絶対諦めませんからね」
「……何の事です?」
 安室透は綺麗な笑顔で首を傾げ、綾の前にコーヒーを出した。

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