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 初めて会った時から、彼女は不思議な人だった。不思議というより奇妙、不審、と言った方が適切かもしれないが、今この現状を思えば「不思議」という言葉で表現したい。自身の人生において、分岐点のひとつだったと思う。まさか彼女と結婚することになるとは思わなかった。

「……泣いて喜びそうだな」
 先程宝石店から受け取ったものを車内で眺めながら、降谷はフッと息を抜くように笑う。自身の仕事の関係もあり、彼女との夫婦の証を先延ばしにしていたが、つい先日にやっと購入の目処が立った。関わっていた大きな案件が一段落したというのが一番の理由だ。揃いの指輪を購入するにあたり、彼女と一緒に選ぶのも選択肢の一つだったが、試しに覗いてみた店でピッタリなものを見つけた。彼女の好みは把握している。指のサイズもさり気なく確認済みだし、何より自身がサプライズで渡した方が喜ぶと思った。まるで新しい玩具を買って貰った子供のような心境で、降谷は購入したばかりの指輪をはめてみる。シンプルな銀色の指輪は、中央で裏と表が捩じれているだけのシンプルなものだ。表裏一体、永遠に終わりがない事を意味するメビウスの輪。妻の好きな数字の『8』に似た形状であり、自身の愛車の名前に含まれた『無限』にも通じるものがある。左手を上げ、輝くそれを眺めながら、降谷は満足のいくものが選べたのではないかと自負する。
 約二ヶ月後には結婚記念日だ。その日に合わせて渡そうかと思ったが、思いの外自分も舞い上がっているようだ。できたらすぐにでも彼女が指輪を見て笑う姿が見たいと思った。こういうところで辛抱ならないのは自分らしくないが、一人の男としてはなんら不思議でない心境だった。
 まさかこんな風に考える日がくるとは思わなかったな……なんてニヤけつつ視線を外に向けると、少し先の公園の傍を歩いている見覚えのある後ろ姿を見つけた。見間違えるはずもない、自身の妻だった。何故こんなところを歩いているんだろう……とは思ったが、それより気になったのは彼女の服装だった。あれは、妻が家で愛用している寝間着のはずだ。あからさまなパジャマというデザインではないため、外であの格好でいてもあまり違和感は無いが、それにしても寝間着で外を歩いているというのはおかしい。直ぐさま車のエンジンをかけ、降谷は妻が歩いている場所へ向かう。丁度左側車線の傍を歩いていたから、車を寄せて声をかけるのは簡単だった。
「何やってるの?」
 ビクリと肩を震わせた妻がまさか、自分の事を忘れているなんて誰が予想できる。

 医者の話によれば、彼女が一定期間の記憶を失ってしまったハッキリとした原因は分からないらしい。原因不明のため、記憶が戻るかどうかも分からない。約8年分の記憶が無い以外は至って健康体の彼女に降り掛かった、最悪の偶然だった。
 妻の病室を後にし、一時入院する事になった彼女の着替えを取りに戻るために車に乗ってもいまいち実感が湧かなかった。ハンドルに手を置いてから、自身の左手の薬指に指輪をしたままになっていた事に気付いた。いつもの妻だったら、こんな指輪をしていたら目ざとく気付いて「それ何?」なんて控えめに尋ねてきただろう。それが無かった事が、より降谷の心を抉った。すぐにでも指輪を渡したかったが、降谷なりにロマンチックなものにしたいと思っていた。さてどこで、どんな演出で渡そうか……なんて、指輪を受け取る前に考えていた。そんな降谷が、指輪をしたまま彼女に会ってしまうというヘマをしてしまうくらいには、直視したくない現実だった。
 これは報いなのだろうか。過去の自身の行いや、彼女に対する仕打ちを思い出し、車の窓にコツリと頭を預ける。女性に好意を持たれる事には慣れていた。その中でも、綾という存在は殊更に降谷にしつこかった。初対面時に逆プロポーズしてくるという奇行にはじまり、親切な安室透になりすましている時でさえ適当な対応をしてしまうくらいには、アプローチが激しかった。しかしその割に、人並みの羞恥心は持ち合わせているらしく、アプローチをした後一人勝手に身悶えているというよく分からない女だった。当初は面倒な人間に好かれたな……なんて思っていたが、その認識は途中で変わった。奇妙な事に、彼女は何故か降谷の事を知っていた。降谷の正体を知っているのなら、どこかの組織の人間かとある程度絞り込めた。しかし、彼女が知っているのは例えば降谷の好物であったり、習慣であったり、割と重要でないプライベートな事だけだった。仕事における重要な事を知っているわけでは無かったが、降谷も自身のプライベートについて他人に話した記憶はない。同業者で無ければ、敵対する犯罪者達の仲間でもない、しかし降谷の事を何故か知っている綾という存在は、あまりに奇妙だった。あらゆる手段を使って問いつめた時、ずっと隠している(つもりになっていた)彼女は、昔降谷に会った事があると白状した。彼女はとても嘘を言っているようでは無かったが、降谷も降谷で彼女に会った記憶は無い。そして自身の事を話した覚えもない。
 不可解。それが彼女を表現する上で適切な言葉だった。疑念はあったが、途中で考えても無駄だと判断し、降谷も匙を投げた案件だった。彼女の事を特別好きというわけでは無かった。嫌いでもなかったが、誰かと交際している余裕なんてない当時は、どうでもいい存在だった。
 そのはずだったのに、ひたむきな好意を寄せられ続けると、どうしても情というものが湧いてくる。嫌な予感がして彼女を遠ざけたが、それでも彼女は降谷を追ってきた。この女にここまで好かれるような事をした覚えはないのに、と困惑し、酷いことをした事もある。しかし、彼女は折れない。何故……と戸惑っている間に、降谷も綾の事を割り切れなくなった。それに気付いた時には、すでに手遅れだった。そうしていろいろあったあった結果、彼女を生涯の伴侶にするという今に至る。
 彼女と一緒になるにあたり、本当に様々な事があった。それを共に乗り越え、共有し、生涯を誓ったというのに、彼女はそれを綺麗に忘れてしまった。楽しかった事も辛かった事も、ふたりのかけがえの無い思い出も、ごっそりと。
 不思議と涙は出なかったが、心は異常に苦しかった。数時間前までは浮かれて眺めていた指輪をしている左手が、今は痛い。ぼんやりと指輪を眺めながら、降谷はふと思い出す。先程彼女は「私は8年前から来た」と言った。そういえば、似たような事を過去に妻が言っていた気がする。
「いつか8年前の私が、アナタに会いにくるかもね」
 何の冗談でそんな事を言ったのかは覚えていないが、確かこんな発言をしていた。もしかして、過去の自身の発言を覚えていて、今の彼女はこんな事を言ったのだろうか。記憶は無いが、思い出の欠片が彼女の中に残っているのかもしれない。その可能性が降谷にとって、小さな希望になった。
 記憶がなくとも、彼女は彼女だ。例え綾が降谷の事を思い出さなくとも、手放す気は毛頭無かった。記憶が無いなら、また一からはじめれば良い。好きになって貰える自信はある。だから、ずっと自分を追いかけてきてくれた彼女のために、今度は自分が彼女を。
 自身の指にはめた指輪を外してから、降谷は決意した。そうして、記憶のない妻との生活がはじまった。

 記憶を無くしてはいても、綾という人間はあまり変わりなかった。少々初で幼い部分もあったが、その辺りは可愛らしくて悪く無い。からかうと良い反応をするところや、隠し事をしても筒抜けな事、未だに降谷に免疫のない部分があり、顔を近づけてじっと見ていると視線を逸らす事、等等。降谷の事は覚えていないが、彼女は間違いなく糸見綾だった。ただ降谷綾であった事を知らない、それだけ。
 日々彼女により好かれるように努めた。過去に酷い事をした負い目もあり、今までの自分の中でもとびきり優しく接した。どうせ一から覚えて貰うなら、カッコいい完璧な人に思われたかった。……思われたかったが、仮眠の途中にソファから転げ落ちてしまったところを見られてから、それは叶わなくなった。予測通りというべきか、彼女からの反応は好感触で、割りと早い段階で綾に好かれている自信はあった。しかし、彼女と生涯を誓った身としては、それでは足りない。生易しい好意が欲しいわけじゃない。数々の障害を越えて一緒になった事もあり、降谷の持て余している思慕の情も相当なものだ。それに見合うくらい、身を焦がすような想いが欲しい。「零さんでなければ駄目」だと彼女が口にする程の愛が、もう一度。
 だからこそ、彼女を骨抜きにする事が降谷の当面の目標だった。彼女は良く赤面して固まっていたが、徐々に降谷に傾いてきているのは火を見るより明らかだった。そうしてズルズルと滑り落ちてきた彼女もついに、情欲を覗かせるようになった。彼女からの向けられる思慕の情がハッキリとした辺りで、降谷の抑えもきかなくなっていく。抱きしめたい。キスをしたい。その肌を暴きたい。彼女と交わしたことのある愛を確かめる行為をしたい。男の性からくる欲望を抱えたが、それでも誠実であろうとなんとか耐えた。彼女が自身に「好きだ」と伝えてくれるまでは待とうと、自分なりのルールを決めていた。彼女が何やら悩んでいる事も察していたが、それさえ覆してやろうと思った。
 早く、俺の事を好きだと認めろ。
 滾る慕情を内に抱えながらも、思いの外冷静に彼女を手招きした。その傍らで、綾が降谷に隠れて何かをしている事にも気付いていた。綾が寝ている間に勝手に部屋に入り調べたが、出て来たのは日記帳のようなノートと、ウェディングドレスの奥にあった謎のメモ。日記帳にはこれまでの出来事が繰り返し何度も書かれていた。謎のメモには、結婚記念日の前日の日付と『最後の日』と記載されている。どういう意味かは分からなかったが、嫌な予感がした。その後に「特に変わった事はないか」と何度か尋ねたが、綾は何も話してはくれなかった。
 結婚記念日の二日前、彼女に流星群を見に行こうと誘った。綾はなんの裏も無い様子で、嬉しそうに「行きます!」と言った。『最後の日』にあたる明日に何かがあるなんて、本人が全く知らないような態度だった。そしてその翌日、仕事を午前中に片付けた降谷は、綾の様子を窺っていた。疑っているわけではないが、何かを隠しているのは明白だ。今日という日に証拠を掴み、綾を問いただそうと思っていた。何度も綾から着信があったが、意図的に応答しなかった。昼頃から綾は自身の生活スペースを転々と散歩して回っていたが、それ以外に不審な動きもない。むしろ、何故こんなに広範囲を散歩しているのかが不思議になってきた辺りで、彼女は最近通っている図書館に入った。彼女は図書館に通うわりに、本を借りて帰ったことがない。そこで「怪しい」と思い至った降谷はついに、図書館に足を踏み入れ、綾の前に姿を現す事にした。そして彼女が手に取りたそうにしていた本を奪い、戦慄した。『遺言の書き方』なんて本を手に取る人間が考える事なんて、一つしか考えられなかった。

 そうして彼女と一緒に帰宅し、更に問いつめた。結果、全く持って予想もしていない事実が発覚した。とても信じられないが、彼女は本当に8年前の世界から来た糸見綾であるらしい。以前にも似たような事を言ってはいたが、正直降谷としては信じられる事では無かった。しかし、自分が過去から未来にやって来ると知っていた降谷綾からの手紙を見て、それが疑いようの無い事実だと発覚する。自身の妻が『元の時代に戻ることができるが記憶をなくす』と書いた手紙が工藤新一に預けられたのは、彼女が記憶を無くす前。そして綾が記憶を無くした後に受け取った手紙には、ある仕掛けが施されていた。なんの変哲もない紙だが、折り鶴にすることによってメッセージが浮き上がってくるという、割りとありふれた仕掛けだ。昔綾に教えた事があったが、記憶を無くした綾にこれを教えた事はない。まさか、という思いで鶴を折り、浮き上がったメッセージを見て静止した。
『ごめんね』
 自分の良く知る妻からの謝罪。これだけで、この現実とは思えない事実を認めざるを得なくなった。思えば、妻はたまに未来でも見えているかのような発言をすることがあった。根拠もないのに妙に確信めいており、それが存外当たるから不可解だった。当時はただの偶然だろうと片付けていたが、どうやらそれは偶然ではなかったらしい。彼女は、未来へ行って帰ってきていたのだ。そしてその彼女が言うには、今ここにいる綾は降谷の事をまた忘れてしまう。彼女が自分の事を忘れてしまったら、もしかしたら出会う事すらなくなるのかもしれない。そう思ったら、途端に胸の辺りが苦しくなった。どうすればいい。どうやったら彼女は自分の事を思い出してくれるだろう。彼女を失いたく無い。……こんな事なら、自分と彼女の馴れ初めなんかを事細かに話しておけば良かった。自身が彼女にした酷い事を話したくなくて誤摩化していたツケが、ここで回ってくるとは思わなかった。残された時間は少ししか無い。その中で降谷が口にしたのは、情けない願いだった。

「これは俺の我が儘だけど、聞いてくれるか」
「もし過去に戻ったとして……君が過去の俺と会えたとして」
「辛い事もあるだろうけど、もし君が許してくれるなら……俺の事を諦めないでほしい」
「もう一度、俺の事を好きになってくれ」

 言った後で気付いた。今目の前にいる彼女は、8年前の糸見綾だ。もしかしたら彼女は、俺の願いのために諦めずにいてくれたのかもしれない。俺がここで「諦めないでくれ」と言ったから、俺が何をしようがずっと、過去の彼女は追いかけてきてくれたのか。そこに思い至り、降谷の中で愛しさは募る。
 これ以上俺をどうするつもりだと、心の内で理不尽な八つ当たりをしながら、彼女に口づけた。抱いて、その身に自分の事を刻み付けてやろうと思った。相変らず免疫のない彼女は、その行為を匂わせただけで紅潮した。可愛かった。
 そうして、ここで綾が何故か結婚指輪を身につけている事に気付いた。どうやら勝手に降谷の部屋に忍び込んで持って来たらしい。自身の部屋に勝手に入った事は咎めてやりたいところだが、今はむしろ指輪の存在は丁度良かった。記憶を無くした彼女が、自分の事を好きになってくれた時に、プロポーズも兼ねて渡そうと思っていた。既に結婚しているのにプロポーズなんて、と思うかもしれないが、俺と彼女は再度出会い、再度恋に落ちたのだ。だからこそ、もう一度生涯を誓う事に意味がある。降谷は口元を緩めて、綾の指から銀色の輪を抜き取り、自身の手で指輪を贈ろうと指を動かす。
 あぁ、彼女にやっとこれを渡せる。
 綾の左手を取り、薬指に永遠の輪を通そうとした時、手の中の温もりがフッと消えた。
「……え?」
 行き場を失った指輪は空を切り、カツンと音を立ててフローリングに落ちた。

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