time after time

「うーん……」
 駅地下の売り場で、綾は自身の顎に指を当てて唸った。視線の先には新発売のお菓子の箱が二つ。一番目につくコーナーに並んだそれを見比べながら、どちらにするか思案する。ひとつはチョコをコーティングしたクッキー。もう一つはフィナンシェだ。きっとどちらを買って行っても子供なら喜ぶだろう。そんなに迷わなくてもいいかと、綾は個人的に好みのデザインの箱を手に取り、会計に向かう。
 時刻は午前十一時。約束の時間まであと少しである。


 先日「なんとなくそんな気がする」という理由で、隣の部屋に住む男が爆破事件を起こすかもしれない、と高校生探偵の家を尋ねた。生憎その探偵である工藤新一は不在だったが、彼と知り合いだという少年、江戸川コナンのおかげで、なんとこの問題は解決した。
 工藤新一に伝えてくれるということで説明をしたのだが、流石に小学生でも意味不明な事を言っていると分かるようで、コナン君は「何を言っているんだ」と言いたげな顔をしていた。まぁそうなるよね……と共感はするが、綾も綾で冗談を言っているつもりはない。非常に深刻な問題だった。そんな綾の心境が伝わったのか、コナン君は少しだけ考えてから「ボクが手伝うよ」と言った。これには綾も少々困った。自分が意味不明な依頼をしているという自覚はあるが、子供と遊ぶつもりで話した訳ではない。正真正銘、プロの探偵に用があったというのに、やる気を見せてくれる少年の様子には少し困った。
「あの……できたら、工藤君にもこの事を相談して貰いたいんだけど……」
「分かってる。新一兄ちゃんにこの事を連絡するから、その男の人についてもっと詳しく教えてくれない?」
「うん」
 それから、その場で綾はフルヤという男についての話をした。と言っても、昨日引っ越してきたばかりの彼については何も知らないに等しい。俳優Fの弟である事くらいしか特筆すべきこともなかった。しかし、コナン君は何かに引っかかりを覚えたらしく、綾が「フルヤ」の名前を口にすると、一瞬静止した。
「……そのフルヤって男、どんな感じの人?」
「スラッとした人の良さそうな人だったな……それにお喋りかも」
 初対面の綾に対する気さくさは、人と話す事にとても慣れているように感じられた。きっと普段からそうなのだろう、という綾の勝手な予測ではあるが、それを聞いたコナン君は少しだけ眉をひそめた。
「その人、金髪で色黒じゃない?」
「確かに金髪だったけど……色黒だったかなぁ?」
 肌を注視していたわけではないが、特に何も思わなかったというのが正直なところだ。しかし色白なのか? と問われるとそうでもない。記憶が曖昧なために「うーん」と考え込んでいる、聞いてきた本人であるコナン君は「まぁいいや」とこの話題を打ち切った。そして綾が今の部屋から引っ越すまでの一週間、コナン君は頻繁に綾の家に通い『調査』をはじめた。なんでも探偵である工藤新一からの指示らしいが、綾から見れば『子供の探偵ごっこ』だった。小学生の子供が調査なんて……と思っていたが、その考えは早々に撤回する事になった。
 小学一年生だと言うコナン君は、見た目も言動もあからさまに子供っぽいのに、たまに妙に大人びる。綾でも気付かない事に気付いたり、明らかに学校で習わないような知識を持っていたり、まるで子供らしくない部分があった。そういう部分を見ていると、まるでプロの探偵のようで、綾は素直に感心した。本当にこの子は子供なのかと疑いすらした。そうして隣の部屋に住む男はフルヤと名乗ったが、実は偽名である事を初日に突き止めたこの少年に、綾はいつの間にか頼るようになった。
 そして綾の引っ越しの前日、事件が起きた。仕事を終え帰宅した時、タイミング良く部屋から隣の部屋のフルヤが出て来た。彼を警戒してはいたが、ここで鉢合わせて挨拶もしないのは逆に不審だ。そう思って綾が声をかけると、不意の事で驚いたらしいフルヤが手に持っていた紙袋を落としかけた。袋が地面に着地する前になんとか掴み直した彼だったが、その拍子に紙袋の持ち手の片方がフルヤの手から離れた。持ち手がフリーになった事により紙袋の中身が一瞬、綾の視界に映る。何やらコードがたくさんついた黒い物体が見えて、綾は息を詰めた。
「あぁ、糸見さん。こんばんは」
 さり気なく紙袋を持ち直し、何気ない挨拶をするようにフルヤは微笑む。あまりにいつも通りの彼は、逆に不気味だった。
「お仕事お疲れさまです」
「……はい、ありがとうございます」
「じゃあ俺、少し急ぐので……」
 綾へ労いの言葉をかけた後、フルヤは一瞬真顔になってから綾の隣を通り抜けていく。彼が爆破未遂事件を起こすかもしれない、という何の根拠もなかった綾の勘は、小さな探偵のお陰で疑いに変わった。彼が偽名を名乗っている事をはじめ、コナン君が調べた彼の情報や行動はあまりに不審で、爆破未遂を起こす起こさないにしても何かあるのは明白だった。
 数日前、フルヤは何やら怪しいと判明した時、コナン君は言った。「綾さんはもしかしたら、自分が気付かないうちにフルヤという人の不審な部分を見ていたのかもしれないね」と。きっと「なんとなくあの男が爆破事件を起こす気がする」と言った綾が何故そんな事を言ったのかについて、コナン君なりの見解だったのだろう。そうだろうか? と思った。しかし、今になって思えば、それはきっと間違っていない。
 綾は昔見た事があるのだ。この男が事件を起こした人物としてテレビの画面に映ったところを、数年後に。
「……それ、どうするつもりですか」
 爆弾というものを見た事はないが、明らかに怪しいものだった。勇気を出して振り向き、フルヤにそう尋ねると、彼も真顔で振り返る。初対面時の優しげな様子はどこへやら、何を考えているのか分からない表情を貼付けた彼を見て、綾はゾッとした。
 まずい、と思った時には、彼は踵を返してこちらにツカツカと歩み寄って来た。声をかけたはいいが、この後どうなるかなどと考えていなかった綾は慌てる。綾が借りている部屋はアパートの二階にあり、その唯一の出入り口である階段はフルヤの向こう側にあった。自分の部屋に逃げ込むという選択肢もあったが、この距離ではドアを解錠している間に捕まってしまう。逃げ道はないが、このままでは自分がどうなるか分からない。焦りで、大声で叫べば誰かが来てくれる……という簡単で適切な事も思いつかなかった。
 綾は手に持ったカバンを一時的に地面に置き、身構える。フルヤはすぐ目まで迫っていた。ゴクリと息を飲んでから、綾は夫の言っていた事を思い出す。そんなに力を入れなくても良い、ただタイミングを合わせるだけで効果は絶大だ。そう言いながら手取り足取り指導してもらった護身術を、今ここでやらずにどうする。
 そうしてこちらに腕を伸ばしてきたフルヤを受け流し、綾は軽い力で彼の背に肘を入れて押し、地面に転倒させた。まさかこんなに上手くいくとは思わず、綾は思わず喜んだが、同時に宙に舞った紙袋を認めて戦慄した。恐らくあの中に入っているのは爆弾だ。それについて詳しくはないが、爆弾が強い衝撃を受けると良くないというのは流石に分かる。しかし、運悪く紙袋は通路の手すりの外側まで飛んでいき、綾は「あっ!」と間抜けな声を漏らした。とっさに腕を伸ばしたが届かず、黒いものが入った紙袋は重力に従って落ちていく。この時ほど自分を馬鹿だと思った事は無い。「言っただろ、頼れるなら頼れって」そう言った夫の言葉を思い出し、綾は呆然とした。
 夫って、誰。

   * * *

「お会計、一五四〇円になります」
 コナン君への手土産を購入し、綾は待ち合わせ場所である喫茶店に向かう。
 あの後外に落下しかけた爆弾入りの紙袋は、なんと隠れ潜んでいたらしいコナン君が華麗に拾い上げた。小学生とは思えぬ程の運動能力を発揮し、滑り込むように紙袋をキャッチしたコナン君は、その後の活躍も凄まじかった。転倒していたフルヤは起き上がった後、紙袋の中にある爆弾と、どうやら自宅にも仕掛けていた爆弾を爆破させようとした。そしてそんな男を、どこから持ってきたのか分からないサッカーボールを使って気絶させた。凄まじい勢いで放たれたサッカーボールがフルヤの顔にめり込んだ瞬間、あまりの威力に体が吹き飛ばされ壁に激突する様を見て、綾は正直震えた。いくらなんでもやりすぎなんじゃないかと思いさえしたが、コナン君は慣れた様子で気絶したフルヤの腕をガムテープで縛った。その後の流れは全てコナン君の指示のまま、スムーズに片がついた。こうして本当に発生した爆破未遂事件は、呆気なく幕を下ろした。
 それにしても警察に知り合いの多いコナン君は何者なのか。そんな疑問を当然ながら持ったが、外国等では頭のいい子供が飛び級して大学に通っていると聞く。コナン君もきっと、そういう類いの頭の良い子なのだと勝手に結論づけた。兎にも角にも、彼にとてもお世話になった事には変わり無い。というわけで、今日は先日のお礼を兼ねてコナン君にご馳走をする約束をしている。本当は依頼料を払うべきなのだが、彼に断られてしまっては仕方が無い。妥協案としてランチの約束を取り付けたが、ただ知り合いの小学生を親の許可無く飲食店に連れて行くのはどうだろうかと漏らすと、コナン君はひとつ提案してくれた。
「ボクの家のすぐ下に喫茶店があるんだ。そこでご馳走してよ」
 それなら心配ないでしょ? という少年の発言に頷き、綾は携帯で所在地を確認しながら歩く。携帯を持っている方の腕には、先日お守りの中から出て来た腕時計をつけている。これも未だ謎のある品の一つだ。とても信じられないが、恐らく四年後の自分から送られてきたもの。普通であれば信じるなんてまずないが、様々な事象が綾にそう思わせる。断片的な未来の記憶、誰だか分からない夫という存在。まるで心当たりなんてないのに、知っているような気がする。そして、何か困った事があれば工藤新一を尋ねろと書いてあった手紙。その通りにしたら、工藤新一ではないがコナン君と出会い、惨事を阻止することができた。偶然というにはできすぎている。しかし、これが何なのか綾には分かりかねている。
 ……コナン君に相談したら、一緒に考えてくれるだろうか。そんな事を考えながら、腕時計の表面をそっと撫でる。無限を意味する記号があしらわれているそれは横から見ると、数字の8にも見えなくもない。まるで小学生のような発想だと苦笑いをしながら顔を上げると、少し進んだ先の右手に目的の建物が見えた。
 毛利探偵事務所。事情があってそこに預けられているらしいコナン君の、今の家であるらしい。そしてその下にある喫茶ポアロが、待ち合わせ場所であり、昼食を約束したところだ。店の名が書かれた窓越しに店内を覗けば、傍の席にコナン君が腰掛けていた。待ち合わせにはまだ時間があるというのに、先に来て待ってくれていたらしい。綾がガラス越しに手を振ると、コナン君も気付いて顔を上げた。軽く手をあげて「こっち」と言葉無く呼ぶ少年の元へ行こうと、綾は早足で店の入り口に向かい、ドアを開ける。
 カランカラン、と来客を知らせるベルが店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
 入り口のすぐ傍、カウンター辺りで作業をしていたらしい店員が、ゆるりと振り返る。金色の髪に色黒の肌、スラッとして無駄のない体つきの男は、客である綾にニコリと笑いかける。とても綺麗な男の人だった。思わず見蕩れてしまうほどに。呆気にとられたまま無言で立ち尽くし、エプロンを付けている彼を見上げる。人の良さそうな笑みを浮かべている彼と、どこかで会った事がある。どこだったっけ。あぁ、確か前もこんな風に話した気がする。いや、話したどころか良く一緒にいた。一緒にいたというか、一緒に住んでいた。同じ屋根の下、同じベッドで寝ていた。彼は家を空けている事が多かったが、それでも彼なりに時間を作ってくれた。一緒に買い物に行ったり、外食したり、デートに出かけたり。短い時間だったが、共に過ごした日々は楽しかった。
 一つの綻びを掴み引っ張ると、スルスルと糸が解けていくように思考が鮮明に澄み渡っていく。今まで頭から抜け落ちていたものが引き上げられるような感覚。彩りを伴って蘇るのは彼との思い出。まるで夢でも見ていたかのようにしか思えない、非現実的な出来事。私は四年前に、四年後の彼と一緒にいた。そうして綾は唐突に、最後に彼とした約束を思い出した。
『もう一度、俺の事を好きになってくれ』
 目の前の店員と未来の夫の面影が重なり、綾は勢い良く口を開いた。
「あの……!」
「はい?」
 私は今日、この日のために生きていたのかもしれない。そう思える程に、劇的な出来事が目の前に広がっている。未来の彼は、記憶の無い私を大事にしてくれた。好きだと言ってくれた。私も彼が大好きだった。だから記憶がなくなったとしても、また彼を好きになりたかった。そしてもう一度、未来のあの人に会いたい。今度は本当の妻になりたい。幸せだったと言ったあの人の願いを叶えたい。そのためだったら、私はいくらだって頑張れる。
 未来の私が残したヒントも、過去の私の努力も、全てはここに集束していた。
「私と結婚してください!!」
 店内に突如として響き渡ったプロポーズは、流石の彼をも困惑させるには充分だった。

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