|4| years

 頭と体が誤作動を起こす事がある。
 例えば疲れている時、コンビニの棚に並んでいるお茶を手に取ろうとして、隣にあるジュースを取った事があった。要はお茶を手に取ろうとした一瞬、ふっと頭の中が白くなって思考が回らなくなる。そして思ってもみないものを無意識に手に取り、会計の時にそれに気付く。あぁ自分は疲れているんだな……とこの時はぼやくだけで終わる。仕事が忙しい時期に、このような現象が二度程あった。
「はい……はい、フルヤ様ですね……」
 職場で電話対応をしている時だった。担当者不在のための取り次ぎの終わり際、相手の名前を再度確認した。フルヤ、という名前を聞きながらメモにペンを走らせ、お決まりの流れで電話を終える。そして改めてメモを見た時に、綾は「あれ?」と首を傾げた。メモに書かれているのは相手の要件と折り返し連絡が必要な旨と期限、そして名前。フルヤと名乗った取引先の相手は、自身の名前の読みだけを綾に伝えただけだった。それなのに、綾の手にあるメモには『降谷』と記載されている。古谷でもなく古屋でもなく、降谷。同じフルヤという読みでも、珍しい漢字の組み合わせのような気がした。無意識に書いたものだったが、それにしても何故こんな事を書いたのか不思議だった。綾の知り合いに『フルヤ』という名前の人間はいない。同じ苗字の芸能人なんかはたまにテレビで見るが、それだけである。今まで一度たりとも『降谷』という人間に会った事はない。それなのに、無意識にこの漢字の組み合わせを書いてしまったのは何故だろう。疲れでも溜っているのだろうか……となんとなく眉間あたりをグイグイと押してマッサージしてみたが、いまいち釈然としない。たまにある頭と体の誤作動、と片付けるにはどこか腑に落ちなかったが、綾は些細な事だとこれ以上深くは考えなかった。


 大学を卒業してから二年が経過した。
 卒業後に就職し、会社にそれなりに慣れてきた頃だった。新しく支社が出来るという事で勤務地が変わる事になり、それに伴った引っ越しの準備をしている最中、綾は四年ぶりにそれを見つけた。
「……何これ」
 大事な小物類をしまっている小さい引き出しの奥から、明らかに手製のお守りを見つけた。それと一緒に奥に仕舞われていたのは、大学受験の時に神社で買った合格祈願のお守りである。お守りという事でとりあえずこの引き出しに入れていたのだろうが、まるで記憶が無い。合格祈願のお守りは受験する年に買った事を覚えている。しかし、もう一つの手製のお守りをいつ入手したのか、欠片も思い出せない。
 うーん……と唸りながら、綾はいろんな角度からそれを見る。普通のお守りに比べて微妙に大きい気がするそれの口部分は、何故か少しだけ緩んでいる。まるで一度、このお守りを開けて中身を確認したようだと思いながら、綾は好奇心で結び紐を更に緩める。お守りの中には何が入っているのだろう。罰当たりではあるものの、純粋な興味が勝ってお守りの口を開くと、中には更にもう一つお守りが入っていた。何故……? と当然すぎる疑問を抱きつつそれを取り出すと、どうやら一緒に入っていたらしい紙切れも一緒に出てきた。そして音も無くフローリングの上に落ちた紙切れには、物騒な事が書かれていた。
『今、これ以上中身を見たら死ぬ。そしてこれを、肌身離さず持ち歩くように』
 まるで昔のホラー映画にでも出て来そうな文面である。これ以上中身を見たら死ぬとはどういう事だろう。それを信じる気は無かったが、内容が内容だけに気味が悪い。お守りの中身を見てしまったという罪悪感もあり、綾はお守りを元の状態に戻した。「これ以上見るな」と言われると正直気になるが、『死ぬ』という文字のインパクトは計り知れない。まるで曰く付きの品を手に持っているような心境に陥り、正直これを手放してしまいたいというのが本音だ。しかし、さっき一瞬見た紙切れには、まるで釘でも刺すかのように『肌身離さず持ち歩くように』なんて書かれていた。手放すと余計に恐ろしい事が起こりそうで、綾は急に心細くなる。まるでホラー映画を見た後のように、耳に入ってくる物音が妙に大きく聞こえた。なんとなく、部屋の隅や廊下に繋がるドア付近に誰もいないか確認して勝手に安堵していると、不意に部屋のインターホンが鳴った。思わず肩をビクつかせてしまったが、綾は早足で玄関に向かう。昨日両親が荷物を送ったと言っていたから、それだろうか。思ったよりも届くのが早いな……なんて考えつつ部屋のドアを開けた綾だったが、予想外にもドアの向こう側には見知らぬ男が立っていた。
 誰だろう。配達業者の人とも思えない私服の男に首を傾げると、何やら包装された箱を持っていた男は「はじめまして、フルヤと申します」と口火を切った。フルヤという名前を聞いて綾は思わず反応する。なんてタイムリーな事だろう、と思わぬ偶然に瞬きを繰り返した。そうして続けて話し始めた彼は、なんでも昨日綾の隣の部屋に引っ越して来たらしい。その挨拶だと言って差し出された箱を受け取り、綾も慌てて自己紹介する。しかし、折角丁寧に挨拶をして貰ったというのに、綾は来週この部屋を出て行ってしまう。その旨を申し訳なさそうに話すと、相手の男はカラカラと笑った。「そうでしたか」と残念そうな表情を浮かべたが、その後一瞬彼が真顔になった。その顔を見て、綾の脳裏に何かが過る。まるでノイズが走ったかのような違和感と同時に、彼をどこかで見た事があると不意に思い出した。どこだっただろう。綾が固まり、穴が空く程にその男を見ていたものだったからか、フルヤと名乗った彼は居心地悪そうに肩を竦めた。
「あの……なんでしょう……?」
「いえ、あの……私、貴方とどこかでお会いしましたっけ?」
 本当にそう思ったからそう口にしたが、後になってこれではまるでナンパだと気付いた。途端に恥ずかしくなって言い訳をしそうになったが、相手の男は特に疑問に思わなかったらしく真面目に記憶を辿っているようだった。
「初対面だと思いますけど……」
「ですよね、私の勘違いだったみたいです。すみません……」
 あぁ恥ずかしい。羞恥に襲われつつ、会話も締めに向かった所で、フルヤは「あぁ、でも」と口を開く。
「もしかしたら、僕の兄を見た事があるからなのかもしれません」
「え……?」
 どういう事だ? と首を傾げると、フルヤは指を唇に宛てて、内緒話をする姿勢を取る。
「ここだけの話なんですけど、僕の兄は俳優なんです。最近テレビに出ているし、僕も兄に似ているので、それで見覚えがあったんじゃないですか?」
「へぇ、そうなんですか……!」
 有名な俳優の弟。それを聞いた時、一瞬好奇心が湧き上がり驚きの声を漏らしてしまった。しかし、あまりにも態度を変えてしまった事に気付いて、綾は咳払いをして自身を宥める。まるで現金な綾の様子を見て、フルヤは不快どころか愉快そうにしていた。
「あっはっは。良くある事なんで気にしないでください」
「すみません……」
 昨日引っ越して来たばかりの隣人に謝ってばかりで、非常に申し訳ない。彼が気さくな人だったから良かったものの、不快に思われても不思議ではない気がする。
 そうして引っ越しの挨拶を終えてから、綾はのろのろと自室へ戻る。散らかっている部屋を見て、自分が先程まで引っ越しの準備をしていた事を思い出しつつ、先程貰ったお菓子の箱に視線を落とす。フルヤと名乗った彼は、有名な俳優の弟だと言っていた。一体誰なのだろう。興味が湧き、一旦荷造りを放り出してから、綾はパソコンを立ち上げ、ついでにテレビをつける。テレビによく出ていると言っていたから、もしかしたら映像に映っているかもしれない。そんなに興味があるわけでも無いが、何故だか妙に惹かれる話題だった。
 とは言っても、テレビの番組をころころ変えたところで件の俳優が見つかるはずもない。俳優というくらいなのだから、最近流行の映像作品から探した方が早いだろう。そう思って検索画面を開いた所で、綾の脳裏にフルヤという名前が過る。俳優でも、本名と芸名が同じ時がある。そう思って『ふるや』と打ち込み、漢字に変換しようとしてからふと止まる。
 偶然に偶然が重なっている気がする。綾がフルヤという名前にひっかかりを覚えた事も、隣にフルヤさんが引っ越して来た事も。
 まさかな……と思いつつ、綾は検索欄に打ち込んだ文字をわざわざ『降谷』と変換する。そして検索をかけてはみたが、件の俳優らしき人物は見つからない。それに何故か安堵し、綾が何気なくテレビを見た時だった。丁度お昼のニュース番組が流れており、スタジオでは先日起こった海外ロケットの爆発事故についての話題に触れていた。近々打ち上げを予定されていたロケットが不用意な事で爆発してしまった事故で、これが原因で技術者や関係者が亡くなったらしい。画面の隅には、この事故を引き起こす原因をつくった人物の顔写真が小さく表示されていた。見た事も無い外国人の男が真顔で映っている画像を見ながら、綾の脳裏にあるコメンテーターの発言が過る。

『もう四年くらい前になりますかね。当時はそこまで話題になりませんでしたが、実はF氏の弟が爆破未遂を起こす事件があって……』

 いつだったか、ニュース番組で流れていた内容だった。確か有名な俳優が亡くなった事による特集で、スタジオにいた誰かがそう言っていた。その時にも、画面の端に爆破未遂を起こした容疑者であり、俳優の弟の写真が表示されていた。まるで何を考えているのか分からない俳優の弟の真顔の写真と、先程引っ越しの挨拶をしに来たフルヤが重なった瞬間、綾は静止した。
 ……これはいつの話だろう。
 頭に手を添えてみるが、綾の疑問に自身の頭は答えてくれない。少なくとも何年も前の話である事は断言出来るが、それが余計に問題だった。はっきりとそのニュースの内容を覚えているわけでは無いが、爆破未遂を起こしたF氏の弟とフルヤがあまりにも重なる。一瞬垣間見えた先程の無表情の一致もあるが、何より「有名な俳優の弟」という部分まで同じだ。しかもイニシャルはF。
 とても信じられない。未来予知、いやデジャヴというものなのだろうか。爆破未遂を起こした人間が、そんな数年で釈放されるものなのだろうか。そもそも、彼の兄は死んでいるのか。そう思い至ったら早く、フッと頭に舞い降りて来た俳優の名前を検索欄に打ち込むと、一致する人物の情報がヒットした。まだ存命である。綾が俳優Fの弟が爆破未遂を起こしたと知ったのは、彼の死後だ。しかし、彼は生きている。
 まるで頭が冴え渡っていくようだった。スルスルと今まで忘れていた事が思い出されるかのように、疑いは確信に変わっていく。とても信じられないような事だった。しかし、こんな不可思議な状況に、以前も陥った事がなかっただろうか。現実とは思えない状況に放り出され、それが現実だと思い知らされた事があった気がする。

 何年か前の話であり、何年か後の話である。

 酷い矛盾を抱えたこの事実に頭はいまいちついていかないが、しかし、脳裏に過ったことがある。もし仮に、綾の記憶が正しかったと仮定する。もしかしたら、まだあのフルヤという男はまだ件の「爆破未遂」を起こしていないのではないか。これから……起こすのではないか。一つの可能性が浮かび上がり、綾は思わず立ち上がった。爆破未遂という事は、大事になる前に事件は終息したのだろう。警察か誰かが止めてくれたに違いない。ならば自分は何もしなくてはいいのではないか……と一瞬考えたが、もしかしたら起きるかもしれない事件を知っているのは自分だけ、という可能性も捨てきれない。
 自分でも頭がおかしいのではないかと思う。しかし、もしもの事を考えると、このままじっとしていていいのだろうかとも思う。あの男が爆破未遂を起こすのはいつだろう。隣の部屋に住み、事実を知る私が引き止めればいいのだろうか。しかし、どうやって。こんな疑惑に近いもの今の段階で浴びせる事はできない。……警察に相談してみようか。しかし、「そんな気がする」という理由であの男の事を話したとしても、警察には取り合って貰えないだろう。
 どうしよう……と行き詰まったところでふと、先程見つけたお守りの存在を思い出した。中身を確認したら『今これを見たら死ぬ』と書かれた紙が出て来た物騒なそれである。よくよく思い返せばそのメッセージを以前に一度確認した事がなかっただろうか。あまりの物騒さに気味悪く感じ、お守りを元の状態にしたままにしていたはずだ。しかし、綾がこの奇妙なお守りを見つけたのは実に数年ぶりの今日である。その間にお守りの中身を確認した記憶はないのに、何故か内容を覚えている。辻褄が合わない。
 テーブルの上に転がしていたお守りを掴み、綾は再度お守りの中身を取り出す。そして気味が悪い事が書かれている紙を再度読み返し、ある言葉に目を止める。
『今、これ以上中身を見たら死ぬ。そしてこれを、肌身離さず持ち歩くように』
 今、とはいつだ。綾の『今』は、このメッセージの『今』に当てはまるのだろうか。そう思ったら早いが、綾は容赦無くお守りの口を緩めていく。マトリョーシカの如く、お守りの中に入っていたもう一つのお守りは、中に何かが入っているのか不自然な感触がする。そうして夢中になって開封していき、中身を取り出す。中にはなんてことはない、折り鶴と腕時計が入っているだけだった。腕時計は特に高級そうなものでもなく、その辺りの雑貨屋に売っていそうな品である。文字盤には、無限を意味する記号がワンポイントの飾りとしてついている。そしてもう一つ一緒に入っていた折り鶴を手に取った時、綾の頭の中で誰かが言った。
『……俺が君に教えたんだ。簡単な暗号の一種で、広げた時はただの紙だけど、折り鶴にすることでメッセージが浮き上がるものなんだ』
 酷く曖昧な記憶の中でそう言ったこの人は、誰だっただろうか。息を潜めながら、綾は完成している折り鶴を元の正方形の紙に戻していく。紙を破らないように、慎重に丁寧に折り目を伸ばし、皺の入っただけの紙になった折り紙をひっくり返す。そこには案の定、見慣れた筆跡でメッセージが書かれていた。

<四年前の私へ
今はまだ、あの人に頼ることが出来ません。だからもし、何か困ったことがあれば、工藤新一という探偵を尋ねてみてください。きっと力になってくれるはず>

 四年前の私へ、という理解不能な宛名を見ても、不思議と驚きは無かった。不可解な状況の中にあるというのに、冷静に目の前の事実を飲み込んでいく自分を他人事のように不思議に思いながら、綾の視線は『工藤新一』という人物の名前に釘付けになる。手紙の主は、困っている事があればこの探偵を尋ねろと言う。探偵と言えば、かの有名なイギリスの探偵小説の主人公が思い浮かぶ。そのために殺人事件を暴いていくイメージが強いが、実際のところは浮気調査などの、わりと地味で現実的な仕事の方が多い。今現在、綾は非常に困っている。もしかしたら、これから爆破未遂を起こすかもしれない人物に対してどうすればいいのか分からず、一人で持て余している。そんな時に、このメッセージを見つけたのは偶然なのだろうか。「これ以上中身を見るな」と書かれた手紙に書かれていたお守りの中、ご丁寧に折り鶴の形にされて手紙だと気付きにくくされているそれを開いたのは、本当に偶然か。
 偶然と必然は紙一重と言う。ではこれは、どちら側だ。
 思い至ったが早いが、綾は荷造りを放り出し、財布等の必需品を掴んで家を出た。携帯で工藤新一という探偵について調べてみたが、なんと現役高校生でありながら数々の難事件を解決している男らしい。自身より年下の、それも高校生に頼るのはどうかとは思ったが、手紙の通りにすべきだと言う直感があった。何故だかは自分でも分からない。しかし、これは誰かが今日この日のために準備していた、必然のような気がする。

 直感に直感を重ね、件の探偵の家に向かう。そうして綾が電車やバスを使い、調べた情報や近所の人の話を頼りに工藤邸に辿り着いたのは、夕方近くの事だった。工藤新一の家はここでいいのだろうか。工藤という表札を確認しながらも、なんとなく不安になる。先程会った近所に住む人も「ここだ」と言っていたし、間違いはないはずだ。
 こんな突拍子もない話を聞いてもらえるかも分からない。しかし、ここまで来てしまったら何もせずに帰るわけにもいかない。自分はこんなに行動力のある人間だったんだな……と感心しつつ、綾は意を決する。
 そうして「よし!」と意気込んでインターホンを押そうとした時、不意に背後から「お姉さん」と声をかけられた。予想外な事だったためにビクリと大きく驚いてしまった。これではまるで不審者だ、と気恥ずかしくなりつつ振り返ると、そこにはスケボーを抱えた小学生の男の子が立っていた。
「この家に用があるの?」
「えぇ。……もしかして君、この家の子?」
「ううん、違うよ。でも、この家の人とは知り合いなんだ。どんな用事?」
 もしかしたら、取り次いでもらえるかもしれない。そう思い、綾は少年と同じ目線になるようにしゃがむ。
「工藤新一君に用事があるの。困っている事があって相談したいんだけど……」
「新一兄ちゃんは事件の捜査があって、今はこの家にいないんだ。でもボク新一兄ちゃんの連絡先知ってるから、相談してみるよ」
「本当?」
「うん!」
 だからお姉さん、困っている事を教えて!
 そう言って手を差し伸べてくれた少年は、江戸川コナンと名乗った。

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