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 目が覚めたら、自分の部屋の布団の中にいた。まぁまぁの肌触りのシーツにかけ布団、愛用しているぺちゃんこな敷き布団の馴染むような感触に、綾は居心地の良さを感じた。一体ここはどこだろう。そんな疑問を感じる必要のない布団の中でごぞごそと体勢を変えてから、アラームの鳴っていない目覚まし時計を手に取った。
 時刻は午前6時。起きるにはまだ余裕のある時間であることを確認してから、二度寝しようと再度目を閉じた。しかし、先程見た目覚まし時計の表示を思い返し、疑問に思いながらもう一度手に取った。表示されている日付は九月一日。日付に妙な違和感を感じつつ、綾は今日の予定を思い出す。今日は確か、友人と一緒に出かける約束をしている。昼前に駅前で待ち合わせて、ランチの後に映画を観る予定だ。その映画をずっと前から楽しみにしており、公開日の今日一緒に行こうと約束をしていた。
 ……本当に?
 脳内で誰かが言った。何か大事な事を忘れている気がする。何だったか思い出そうと考え込むが、自分でも分かる程にすっかりと忘れている。頭が妙に冴え渡っていくのを感じながら、ああこれは今思い出せないな……と諦め、布団に潜る。きっと時間が経てば、何だったか思い出すだろう。
 そうして再び睡魔に身を委ね、次に目覚めた時には、午前十時になっていた。
「寝坊した!」
 大慌てで飛び起き、顔を洗ってから身支度を整える。待ち合わせ時間を過ぎているわけではないというのは救いだったが、それでも予定よりずっと遅れての起床には焦る。幸いなのは、今日は気の知れた友人との外出で、少しくらい身なりが整わなくても大丈夫なくらいだ。これがもし彼氏とのデートなら死活問題になっていただろう。まぁ……彼氏はいないけれども。少しだけ寂しく思いつつ、綾は必要最低限の準備を整えていく。脱いだパジャマを洗濯機の中に入れようとして、ポケットの中に何かが入っている事に気付く。何だと思って中身を取り出せば、何故かお守りが入っていた。しかも明らかに手製である。心当たりのないお守りに首を傾げたが、現在の時刻を確認してから、それどころではなくなった。そろそろ家を出ないと待ち合わせ時間に間に合わないと、お守りを適当に机の上に放り投げた。カツンと固いものがぶつかるような音がしたが、慌てて靴に足を突っ込み、家を出た。ドアを開けた先の景色はいつもと変わりがないはずだが、何故だか一瞬懐かしく感じた。
 どうしてだろう……とひっかかりを覚えたが、連絡を知らせるように携帯が震え出し、綾の思考は逸れる。予想通りというか、今日一緒に映画を観に行く約束をしている友人からの着信だった。とりあえず電話に応答しつつ、綾は廊下を早足に歩く。
「もしもし?」
『おはよう綾、起きてる?』
「起きてる起きてる。でもごめん、着くのギリギリになるかも」
『オッケー。ところで、例のものは忘れてない?』
「例のもの……?」
 ピタリと歩くのを止め、綾は疑問符を浮かべる。例のものって何だ。綾が黙ってしまったことで状況をなんとなく把握したらしい友人は「やっぱり……」とため息をついた。
『指輪』
「……え?」
『ほら、私この前綾の家に泊まった時に指輪忘れちゃってたでしょ? それを今日持って来て欲しいって言ったじゃない』
「……あぁ、そっか!」
 思い出した、という振りをして頷いたが、綾はまるでその事を覚えていなかった。しかし、家の小物入れに友人の指輪を仕舞っている事だけは何故か覚えており、慌てて自室に引き返す。「持って行くから心配しないで!」と弁解すると、友人も『こっちこそ忘れちゃってごめんね』とそもそもの原因について謝罪した。
『でも良かった。綾、最近物忘れが多かったから心配だったんだけど、聞いて正解だった』
「そうだっけ?」
『ほらもう……忘れちゃってる。この前、最近物忘れが多いって綾も言ってたじゃない』
 友人の呆れたような声を聞きながら、綾は家のドアを解錠し、スタスタと中に入っていく。一番奥の部屋に置いてある小物入れから、透明なビニールに入った指輪を取り出し、それを財布の中に入れる。ここに入れておけば無くさないだろうと財布を丁寧にカバンに仕舞い、綾は再び家を出ようと玄関に向かう。
「指輪持った。これから待ち合わせ場所に行くね」
『分かった、ありがとう』
 助かるわ〜と言う友人は、明日彼氏とのデートを控えている。なんでも明日で付き合ってから二年の記念日で、その日のデートにこの指輪をどうしてもつけて行きたいらしい。彼氏からプレゼントされた指輪らしいので、それはそうだと綾も納得した。綾だって、好きな人に指輪なんて貰っていたら、絶対にデートにつけていく自信がある。なんとなく自身の左手を広げてみるが、薬指には当然ながら銀色の指輪は無い。
『他に忘れものはない?』
 念のためにとそう言う友人の声は、いつもと変わりない。
「忘れもの……」
 数秒考えてから、綾は一度自室を振り返る。そして、ひと呼吸置いてハッキリと答えた。
「ないない、大丈夫!」

 いつもと何ら変わり無い光景。家を出てバスに乗り、大きな公園の傍を通りながら、なんとなく近くにあった公衆電話のボックスを眺める。前の席の乗客が「今度あそこの峠に行ってみる? 車を走らせるのが好きな奴らが集まってて……」と、隣に座る彼女に話している。そしてそれに対する彼女は釣れない様子で「そういえばこの辺りに新しくケーキ屋ができたらしいよ」と言っている。二人の会話の噛み合なさに苦笑いをしながら、綾は通り過ぎて行く建物をぼんやりと見やる。大きなビルの外側に設置されているディスプレイには、今年話題映画の予告が流れている。ダンスをする男女のシーンが印象的だ。この電子広告が有るという事は、待ち合わせ場所の駅までもうすぐだ。
 なんとなく窓越しに空を見上げ、雲一つ無い晴天を確認して目を細める。
 今日はとても天気がいい。きっと星も綺麗に見えるだろう。

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