Time to say g∞dbye

 何故ここに零さんが。
 しんと静まり返った夫を見上げ、綾は呆然と立ち尽くした。今日のうちに会うことはできないかもしれない……なんて寂しく思っていた相手と思わぬ遭遇は嬉しいが、零さんの顔を見ると、とてもそんな風には思えなかった。まるで憂いているかのような表情でこちらを見下ろす夫は、静かに怒っているようだった。怒鳴りもしなければ嫌味も言わず、無言でこちらを見ている。それが余計に彼の心境が穏やかでない事を証明しており、綾はヒュッと息を飲んだ。零さんが何に対して怒っているのかなんて、愚問だった。
「……ここで話すのもなんだ、家に帰ろう」
 互いの間にある静寂を破ったのは夫だった。そして彼の気遣いに、綾はコクリと頷く事しかできなかった。


「さて、何から話して貰おうか」
 自宅のソファの上に居心地悪そうに座っている綾の前に、零さんはコーヒーを淹れて出してくれた。まぁ落ち着け、という気遣いなのかもしれないが、威圧感を隠しきれていない。何がなんでも吐かせるぞ、という意気込みすら感じられる。さながら、これから尋問を始める警察官のような振る舞いだ。……あながち、間違ってはいないのだろうけど。
「何から話していいか……」
「それじゃあ、俺から質問していいか?」
 普段の零さんとは少し違う、やや高圧的な態度である。綾の隣にドカリと座り、腕組みをしてじっと見ている事がなんとなく分かった。
「君はこれから死ぬつもりだったのか?」
「違います」
「なら、さっき図書館で『遺言の書き方』という本を手に取ろうとしていたのは? そして、君の部屋に落ちていたこの紙は何だ?」
 零さんがポケットから抜き出したのは、綾が今着ているワンピースに引っかかっていたメモだった。今日の日付と『最後の日』なんて書かれたそれを見て、零さんの言い分にも納得がいった。死にに行くのか? と尋ねられても不思議ではない品々である。
 しかし、綾が説明しようにも、零さんが信じてくれるのかという部分が問題だった。紛れも無い事実ではあるが、下手をしたら零さんに呆れられてしまうかもしれない内容である。この世界に来てから、それとなく自分が『8年前の世界から来た』とは言っていたが、零さんがそれに対してどう思っているのか正直分からない。話は聞いてくれるが実際には信じきれない……というのが夫の見解だろうと、綾は予想している。だって非現実的だ、綾だって簡単に信じられない。しかしこれが現実であることが、何より無情で真実だ。それに今日は最後の日なのだ。どう思われるか心配している場合ではない。
「……これから話す事は常識的ではないし、私がもし零さんの立場だったら、信じる事ができるか怪しいです。それでも、仮に今から話す事が『事実』だと思って、一度聞いて貰えませんか」
「……分かった」
 綾の意思が伝わったのか、零さんは黙って聞く体勢に入った。
 そして綾は、隠していた事も含めて全て話した。まずは自分が8年前の世界から来た事。そして零さんのある言葉をきっかけに、8年後の自分も昔、この世界に来たのだと知った事。未来の自分から何かメッセージなど無いか探した事。工藤新一が預かってくれていた、8年後の自分から8年前の自分への手紙を見つけた事ととの内容。そのために図書館に通っていた事、等等。話の中で零さんは、工藤新一に手紙が預けられていた事にひっかかりを覚えたらしかった。
「何故工藤君が……」
「分かりません。その辺りは私よりも……多分、工藤君の方が知っている気がします」
 預かっていた荷物を差し出した工藤君は、何やら綾に言いたげにしていた。あの時は動揺していた綾に気を遣って深く追及されなかったが、きっと思う事はいくつかあったのだろう。
「……成る程、この前の依頼は、君に手紙を渡す事も兼ねていたのか」
 工藤君からの依頼を受け、それを綾に伝えた本人である零さんは「やられた」と言いたげに舌打をした。
「道理で俺の都合のつかない日を狙っていたわけだ」
 そして零さんは、8年後の自分からの手紙を見せてくれと言った。証拠の確認をしたいのだろう。綾はスクリと立ち上がり、自室から未来の自分からの手紙を持って来た。その内容に目を通した零さんは、やはりというべきか眉間に皺を寄せた。
≪8年前の私へ
 あなたはもう少ししたら、元いた時代に帰ることができます。でもその時、ここで過ごした事は全て忘れてしまいます。どうしたいかは、あなた次第です。
 8年後のあなたより≫
 最初に確認した時から、この手紙の内容は変わらない。当たり前の事を再度確認してから、夫の様子を窺う。手紙にじっと視線を落としていた零さんは暫く無言のままだったが、不意にくるりと手紙をひっくり返した。よく見てみると手紙の裏側に何やら短い線がポツポツと書かれていることに、今になって気付いた。零さんはメッセージの書かれていない手紙の外側に目を走らせ、何を思ったのかそれを三角形になるように二つ折りにした。突然の事に「えっ」と声を漏らした綾をよそに、零さんはそれをまた半分に折った。何度も折られ、畳まれていく紙を見ている途中で、折り紙をしている事に気がついた。確かに、このメッセージの書かれていた紙は正方形だった。しかし、何故それだけで折り紙をする必要があるのだろう。置いてけぼりにされながらも、零さんの手の中で完成に向かう立体物を見守る。そして、ものの二分程で完成したのは、なんの変哲もない折り鶴だった。しかし、その折り鶴の首、胴体、羽の付け根と尻尾にかけて、何か文字が書かれている事に気付いた。紙を折り鶴にしなければ確認できないそのメッセージは、非常にシンプルなものだった。
『ごめんね』
 その文章を見て、零さんはやや目を見開いて静止した。そしてどこか悟ったような表情で、やるせなさそうに笑った。
「……手紙の裏側に、妙に短い線がいくつか書かれていただろう? それを見てピンときた。これさ、俺が君に教えたんだ。簡単な暗号の一種で、広げた時はただの紙だけど、折り鶴にすることでメッセージが浮き上がるものなんだ」
「零さん、」
「君の言う8年後の綾が、俺に宛てたメッセージだ」
 零さんもまた、信じがたい事実を前に呆然としているようだった。いやでも現実を飲みこまされたばかりの夫に「信じてくれるんですね!」なんて言える空気では無かった。
「……何故、この事を黙ってた」
 今ここにいる綾に言った言葉だったが、同時に8年後の自分にも向けられたものでもあった。しかし、零さんのぶつけようのない感情の矛先は、8年前の綾しかない。
「その、」
「いや、分かってる。ごめん……そうだよな、言いにくいよな」
 折り鶴をテーブルに置き、零さんはゆるりと腕を伸ばし、綾をぐっと抱き寄せた。ここに来てから何度か抱擁をされた事はあったが、こんなに強く腕を回されたのは初めてだ。綾よりも一回り以上大きい体、服越しでも分かる筋肉の固さの感触にドキリとすると同時に、涙が出そうになった。私はこの後、この人を忘れてしまう。そしてこの人はまた、忘れられてしまう。
「君は、元の時代に戻るのか」
「……はい、多分」
 スゥー……と息を吐き出し、零さんは言い辛そうに口を開く。
「俺の事を忘れてしまうのか」
「……」
「……まぁ、ここにいるはずだった君が言うんだから、そうなんだろうな」
 実際、俺の事を忘れていたんだろう。そうボソリと呟いてから、零さんは綾の頭に頬を寄せた。
「下手をしたら……今ここでこうしていられるのも今日で最後になるのかもしれないという事か」
 綾が元の時代に戻れると知ってから、それなりに時間をかけて導いた可能性の一つに、零さんはすぐに行き当たったらしい。綾が元の時代に戻ったとして、果たして今と同じ未来になるのだろうか。勿論その逆も然りだが、もう一度同じように出会い、恋に落ち、生涯を共にできるのだろうかという一抹の不安があるのは事実だった。だからこそそうならないように綾は努力したつもりだ。8年後の自分は『どうしたいかはあなた次第』と手紙に書いていた。だからきっと、綾が『降谷零という人を忘れたくない』という願いは、頑張り次第で叶うのだ。
「正直、君の話はあまりにも現実離れしている。しかし、これまでの事を考えると恐ろしく辻褄が合うのも事実だ。……道理で、初めて君に会った時から違和感があるわけだ」
 最初に会った時、という言葉を聞き、綾はふとある事が気になった。
「……私と零さんの慣れそめって、どんなものだったんですか?」
 今聞くことか? とは思ったか、元の時代に戻ってからの何かの参考になるかもしれない。それに非常に興味がある。馴れ初めについて零さんに尋ねると、何故か零さんははぐらかすのだ。それも、少し気恥ずかしそうに。一度零さんから距離をとって詰め寄ると、零さんは何度か瞬きをした。
「馴れ初めか……」
 少し懐かしむように目を細めてから、零さんは「そうだな……」と口を開く。今までは話して貰えなかった事を、今日聞く事ができるようだ。自分たちの馴れ初めというものはどんなものだろう、とそわそわしている事に気付いてか、零さんは少しだけ笑った。
「4年前に君が、喫茶ポアロに来た時に初めて会った。そこから君が店に良く来るようになって、たくさん話もした。君は明らかに俺に好意を持っていたんだけど、正直……その時の俺はそれどころじゃなくて、諦めて貰おうと君を袖にしていた。それに君には妙なところがあって、不審にも思っていた。君の本性を暴く為に、酷い事をして傷つけた事もある。……君を好きになってしまった後も、あまり素直になれなかった。俺達の馴れ初めって言うのは……甘くて優しい平和なものでは無かったと思う」
 そこで一度口を止めてから、零さんは綾の様子をチラリと窺う。どういう反応をしているのか気になったのだろうが、好奇心に溢れた綾の目を見て、夫は安堵したようだった。
「……いろいろあったが、こうして君と一緒になれて良かったと思う。君が家で俺を待っていてくれる。君がいるおかげで、頑張ろうと思える。死ぬわけにはいかないと……思えるんだ。君と出会えて、幸せだった」
 こちらを見る零さんは、どこまでも真直ぐで真摯だ。
「これは俺の我が儘だけど、聞いてくれるか」
「もし過去に戻ったとして……君が過去の俺と会えたとして」
「辛い事もあるだろうけど、もし君が許してくれるなら……俺の事を諦めないでほしい」
「もう一度、俺の事を好きになってくれ」
 そうしたら、またきっと逢える。
 零さんの言葉についに涙が出て、鼻をすすりながら再び抱きついた。
「はい……!」
 決意を胸に大きく返事をしたが、涙声になってしまい濁音まじりなものになってしまった。それが若干気恥ずかしかったが、零さんは落ち着かせるようにトントンと背中を叩いてくれた。
「……綾」
「……はい」
「忘れられない事をしようか」
「……?」
 忘れられない事って何だ……と純粋に疑問に思ったが、内容には非常に興味がある。この短時間で忘れる事ができないことを思いつくなんて、流石零さんだ。己の未来の夫に再度惚れ直したところで、綾は詳細を尋ねる。すると零さんはニヤッと笑って、綾の背を丁寧に撫で上げてから、頬に手を滑らせた。そして不意を打つように距離を詰め、唇を重ねた。一瞬何をされたのか理解できなかった綾だったが、一度距離をとった零さんの不敵な表情を見て、やっと状況を把握した。
「こういう事」
 ぶわりと熱が一気に顔に集中し、綾は思わず自身の唇を手で覆った。夫婦なのだから当たり前の行為だと思っている零さんに対し、はじめて好きな人とキスをした綾はまるで余裕がなく、噴火してしまいそうな勢いである。わなわなと綾が震えている事なんて分かっているくせに、零さんは綾の着ているワンピースの背にあるチャックにさり気なく触れ、流れるような動作で丁寧に下ろした。背中辺りの風通りが良くなったところで、綾は夫の言う「こういう事」が何なのか理解した。所謂、体で覚えるというやつである。
 そんな急に無茶な! と慌てる綾に容赦はなく、夫は綾をソファに組み伏せようと身を乗り出す。
「ちょ、待ってください零さん、心の準備が!」
 綾がそう言って、自身の前に両手を出して壁を作ると、零さんはピタリと静止した。綾の懇願に耳を傾けてくれたのかと思ったが、夫は綾の左手を凝視して、片眉を上げた。
「……何でそれを持っているんだ?」
「え?」
 それ、と言って零さんは綾の左手の薬指にある指輪を撫でた。その存在を今になって思いだし、綾は「しまった」と黙る。
「俺の部屋に勝手に入ったのか」
 いけない子だ、と柔く咎めながら、零さんは綾の指から指輪を抜き取った。まさか取り上げられるとは思わず、綾が「あっ」と声を漏らすと、零さんは「そうじゃない」と宥めた。そうして夫は綾の薬指に嵌っていた指輪を持ち直し、優雅に左掌を差し出した。暗にここに手を乗せろと言われている事に気付いて、綾は慌てて自身の左手を持ち上げた。そっと零さんの掌の上に手を乗せると、夫は満足そうに頷いた。
「実は、君がここに来た日に完成したものなんだ、この指輪。籍を入れたのは一年前だけど、俺の仕事が落ち着くまで結婚指輪を待って貰っていた。本当は完成したその日に君に渡そうと思ってたんだけど……その時の君は、俺の事を知らなかったから」
 いろいろあって渡す機会を無くしてしまった、と眉を下げた夫を見て、綾はぎゅっと口元を引き結んだ。綾がこの世界に来たその日に、これをプレゼントしてくれるつもりだったらしい。その時の零さんの心境を思うと胸が苦しくなったが、目の前の人はそれでも穏やかに微笑んでいる。あぁ、なんて人だろう。私には勿体ないくらいに、本当に素敵な人だ。
「……零さんのような人と結婚出来て、私は幸せです」

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