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 電話の終わり際、零さんが思い出したというように「そうだ」と口を開いた。
 なんでも、明後日の夜に流星群が見られるらしい。数十年ぶりレベルの多くの流れ星が観測できると期待されているようで、折角なので一緒に観に行かないかと誘われた。これには綾も瞬時に頷き、明後日に帰って来る夫とデートの約束を取り付け、浮かれていた。
 それが、昨日の話。

『もう四年くらい前になりますかね。当時はそこまで話題になりませんでしたが、実はF氏の弟が爆破未遂を起こす事件があって……』
 テレビから聞こえる、先日亡くなった俳優にまつわる話を聞き流しながら、綾は洗いものを片付けていた。一人分の昼食に使う食器なんて知れているので、皿洗いも短時間で終わる。濡れた手を拭きつつ綾が何気なくテレビを見ると、画面端にF氏の弟の写真が小さく表示されていた。亡くなった俳優の特集のための話題になれば、なんでもテレビに取り上げるらしい。さして注視もせずにエプロンを脱ぎ、綾はリモコンを手に取る。何度か番組を変えると、丁度表示されたニュース番組が明日の流星群について触れていた。零さんの言っていたように、多くの流星観測ができる見込みがあるらしい。

 久しぶりのデートだし、これは気合いを入れなければ。そう意気込んでから、綾はさっさと自室に戻る。テーブルの上に置いたままになっていた書き取り用のノートに気付き、さっさと引き出しの裏に隠す。零さんは今日帰って来る予定ではないが念のためだ。
 元の時代に戻ってもここでの生活を思い出せるようにと、ノートにこれまでの出来事を書き始めた日の翌日、零さんは「何やってるの?」と唐突に綾に尋ねた事があった。綾の利き手の小指側の側面に薄い汚れがついている事、ぺんだこが赤くなり少し目立っている事、今までにそういう事は無かった事……等等、根拠を並べられ指摘された時はヒヤッとした。一瞬どうしようかと思ったが、苦し紛れに「実は趣味で小説を書いている」と言うと、零さんはすんなりと納得したようで、深くは追及してこなかった。しかも「もし良かったら、最初の読者にして欲しいな」と理解を示してくれる始末である。嘘をついてしまった反面罪悪感もあったが、その場ではとりあえず「完成したらね」と誤摩化して事なきを得た。しかし、最後に零さんが言った言葉が、妙にひっかかっている。
「いつか、教えてくれ」
 普通の人よりずっと頭の回転が早く、勘の鋭い人だとは思っていたが、ここまでくると末恐ろしい。彼に下手な隠し事は通用しないのだと痛感した事でもあった。だからこそ、隠し事は徹底的に行わなければいけない。
 ノートを隠した引き出しを丁寧に閉めてから、綾はぐるりと自室を見回し、妙な部分が無い事を確認する。そうして一息ついてから、改めてクローゼットを開いた。明日のデートには何を着ていこうか、気に入っている服を選び出してから広げていく。その最中、目についたウェディングドレスの向こう側に、何か服がかけられている事に気がついた。そういえば、ドレスを見つけた時にも、何がかかっているのか気になっていた。そしてあの後、なんだかんだあって結局何なのか確かめるのを忘れてしまっていた。純粋に疑問に思い、綾はクローゼットのドアを全開にしてから、ウエディングドレスを動かした。
 そこにはなんてことはない、一着のワンピースがあるだけだった。清楚でシンプルではあるが、可愛らしい形のものだ。なんとなく、8年後の自分が気に入っていたものではないのかと察した。普段着というよりは、外行き用のようである。もしかして、所謂勝負服というやつなのだろうか。
 明日のデート服の候補に良いかもしれない。軽い気持ちでワンピースのかかっているハンガーを手に取ろうとした時、不意にカサリという音がした。何だろうと思ったが、どうやら服に紙切れがひっかかっており、それが擦れ合った音らしかった。二回程折られているそれを何気なく手に取ると、うっすらと何かが書かれている事が確認出来た。なんだろう。疑問に思って広げた紙には、今年の西暦と今日の日付、そして見慣れた筆跡で『最後の日』と書かれていた。
 最後の日。それを見て一瞬何の事かと思ったが、心当たりがあり静止した。まさか、まさか、まさか。どくどくと心臓の音がうるさくなっていき、今にも吐き出してしまいそうだ。最後の日って、もしかして……。頭が真っ白になり、しばらくその場に固まっていた後、綾は細く長く息を吐き出す。とりあえず落ち着いて、これからどうするか考えよう……と手に持った服を元に戻し、テーブルの上に置いた携帯を握った。通話履歴から夫の名前を探し出し、どうやって訳を話すか考える間もなく電話をかける。
 仕事中なのに電話をかけるなんて、と普段は踏みとどまるところだが、それどころではない。しかし、どうやら通話中のようで繋がらない。時間を置いて何度か繰り返してみたが、取り込み中なのか零さんが電話に出る事は無かった。それでも諦めずに何度も電話をかけながら、綾は焦燥感に駆られる。そしてぼんやりと、8年後の自分からの手紙の内容を思い出した。
『あなたはもう少ししたら元の時代に戻る事ができる』
 まさに今日がその日なのかもしれない。予兆はいくつもあったが、いまいち実感が湧かなかった。情報量も少なく、むしろ理不尽だと思ったあのメッセージについて、何故もっと深刻に考えなかったのかと今更後悔した。確かに、元の時代に戻った時に記憶を取り戻せるように努力していたつもりだが、まさにその時を迎えそうになった今、それが充分だったか? と問われると否だ。本当にこれで大丈夫なのだろうか。『どうしたいかは貴女次第』と書いてあったが、私の『零さんの事を忘れたくない』という願いのための努力は、足りているのだろうか。考える事、やるべき事をいくつか今になって思い付くが、実行するには時間が足りない。
 呆然としながら、綾は半ば諦めたように立ち尽くした。ここに来たときだってそうだ。現実は飲み込めないのに、酷く容赦が無い。
 いつの間にか、外では雨が降り出していた。ばたばたと窓を叩く雨音を聞きながら、綾は今日という日をどう過ごすか冷静に考える。零さんはやはり忙しいのか、電話に応答しない。いつ電話に気付いて貰えるか分からないし、例え気付いても会えるか分からない。ならばどうすべきか自分を落ち着かせながら、綾は家の中をぐるぐると歩き回り始めた。玄関から廊下、リビング、キッチン、お風呂場、トイレ、寝室。自宅の部屋という部屋の中にかたっぱしから入り、その空間にあるものを確認していく。ここでの零さんとの生活を忘れないよう、ひとつひとつ丁寧に自分の中に覚えこませていく。元の時代に戻ったとして、なんでもいいから彼との出来事を思い出せるように。もはや、願掛けに近かった。
 何度も家の中を散策している最中、今まで勝手に入ったことの無い零さんの書斎にも足を運んだ。普段から整理整頓されている部屋の中を歩き回り、本棚に入っているファイルを適当に抜き出す。「書斎に置いている資料は見ないで欲しい。君を信用している」なんて零さんに釘を刺されてから、この部屋にある私物には極力触れないようにしていた。仕事関係の機密資料などがあるのだろうとは分かっていたし、何よりそんなものを見たとしても綾にはチンプンカンプンだ。特別興味があるわけでもないし、何より零さんがそう言うなら……と特に詮索もせずにいたこの部屋に、今日という日にはじめて手を出した。ファイリングされている資料をパラパラとめくってみるが、内容はスッと頭の中に入ってこない。その後何冊か手に取ってはみたが、分かった事は、零さんがやはり警察官であった事と、想像よりも大きな事件に対応してきた事だけだった。月の芽事件、と題のついていたファイルを閉じ、綾は本棚の詮索をやめ、次に零さんの机の引き出しを開けた。こんな事をしていいはずが無いが、そんな事を言っている余裕が無かった。一番上にある引き出しは想像よりも入ってるものが少なく、今度はその更に下の引き出しに手をかける。そこには何冊か手帳のようなものが入っていたが、手前に置かれたベルベットの小箱が気になった。なんだろう、と考えずとも中身は分かったが、綾はそれを手に取り蓋を開けた。中にはシンプルな指輪が二つ入っていた。大きいものとそれよりもいくらか小さいもの。シンプルな銀の輪にはこれといった装飾は無く、ただ中心辺りが捩じれたデザインになっている。綾はこれを左手の薬指につけている零さんを見た事がある。8年後の世界に来て初めて会った時、迫真の表情で追いかけてきた夫の指に、確かにこれがはまっていた。
 そういえば、あれ以降彼がこれをつけているのを見た事が無い。そんなことを考えながら指輪を一つ抜き出し、内側に刻まれた文字を見て静止した。結婚指輪の内側にはお決まりのイニシャルと、結婚記念日であろう日付を示す数字が書かれていた。西暦は一年前のものだが、数字が示す日付は丁度明日にあたる。明日が結婚記念日であると知った事に驚くと同時に、何故今まで記念日を尋ねなかったのかと自分を責めた。
 いつだったか、自分の結婚指輪はどこにあるのだろうと探した事があった。自室のアクセサリー入れにも無く、もしかして無くしたのか? と不安になって零さんに言い出せずにいたが、ずっと零さんが持っていてくれたらしい。何故あの時、正直に零さんに指輪の在処を尋ねなかったのか。もし聞いていたら……と考えてから、結局記念日を知っていても、前日の今日がここでの最後の日だということには変わりがないことに気付いた。むしろ知っていた方が辛かったかもしれない。そうして、そんな事を考えている言い訳がましい自分が嫌になった。
 零さんが明日、流星群を見に行こうと誘ってくれたのは、結婚記念日だからだ。多忙な彼の事だ、もしかしたらこの日のために仕事の休みを調整してくれていたかもしれない。そう思い至り、綾はぎゅっと唇を噛んでから、手に取った指輪を左手の薬指に嵌めた。傷一つない綺麗な銀色の輪は綾の指にぴったりだ。そうして薬指ごと指輪をそっと撫でてから、綾は外出の準備を始めた。
 こうやってグズグズとしている事が急に馬鹿らしくなった。相変らず零さんに連絡しても繋がらないが、連絡ができないなら会いに行けばいい話だ。自室に戻りカバンを掴んでから、綾は開けっ放しにしていたクローゼットに視線を向ける。ウェディングドレスの奥にかかっているワンピースも当然ながらそのままだ。少しだけ考えてから、綾は着ている服を脱いでからワンピースに着替えた。おそらく8年後の自分の一張羅であろうそれを纏い、準備万端と家を飛び出す。カバンの中には家の鍵と携帯電話、そして常に持ち歩けと自分からの手紙に書いてあったお守りのみだ。
 そうして大急ぎで、数日前に夫に着替えを届けた警察署にやって来た。しかし、そこの受付担当者は「そんな人間はここにいない」と言った。そんなはずは無いと何度か尋ねたが、やはり確認しても「降谷」という男はそこで働いていないらしい。ついには不審がられてしまい、綾は渋々その場を後にした。
 ぽつぽつとした雨が降る中、傘をさしてとぼとぼと歩く。携帯を確認しても零さんからの連絡はなく、綾はぼんやりと空を見上げた。天気予報では、雨が降るのは今日だけで、明日になればすっかりと快晴になるらしい。きっと流星群も綺麗に見られるだろう。……その時、8年後の自分がここにいるのかそうでないかは、分からないけれど。

 今日はもう、零さんには会えないかもしれない。その可能性が強くなり、綾は夫からの連絡があるまで、周辺の散歩をする事にした。一緒に買い物に行ったショッピングモール、ドライブの途中に寄ったコンビニ、デートで行ったレストラン等、一緒に出かけた場所や建物の外観を見て回る。最後にもう一度見ておこうと、まるでこれから死にに行く人のような心境だった。公共の交通機関を駆使して様々な場所をぐるぐると歩き回り、気がつけば夕方になっていた。
 雨は相変らず止まず、暗がりの続く空の下、配置されている電灯を辿るように一人で歩く。他に見ておくべきところは無いだろうか、と考えていると丁度視線の先に見覚えのある公園が映った。まだ二ヶ月くらいしか経過していないというのに、随分と懐かしく感じる場所だった。以前自分が使った公衆電話の傍を通り、歩道に出てから車道を走る車を眺める。8年後の世界に最初に来た日、 零さんの車がこの傍に止まった。そして「何をしている?」と最初に話しかけてくれたのがこの場所だ。この後、私は零さんをナンパだと勘違いして、細い路地に逃げたんだっけ。当時の出来事を辿るように路地に入り、そのまま真直ぐ歩き続け、突き当たりのフェンスまで辿り着く。ここで自分の運動能力を信じ、不意を打とうとフェンスに乗り上げたら零さんも悠々と後を追ってきて、かなり驚いたものだ。思えば、ここから始まったんだな……なんて考えながらフェンスの向こう側に目を凝らすと、予想外にも見覚えのある建物があった。最近かなり頻繁に通っている図書館である。普段はこの道を通らないから気付かなかったが、そういえばこの辺りにあったっけ。
 丁度いいとばかりに歩き出し、綾は閉館時間ギリギリの図書館の中に入った。ここにも随分通ったものだから、ある種思い出の場所である。最近入り浸っていたコーナーをうろつき、読んだものや気になっていた本のタイトルを眺める。どれも『記憶』にまつわる本で、零さんの事を忘れるものかと必死に読んだ。結局それらから得た情報を参考にしての自分の行動は、実を結ぶか分からない。しかし、やはりできることはやった。後は、その時を待つしかない。
 カバンから携帯を取り出し通知を確認するが、零さんからの連絡はない。いつもなら、すぐにではなくても電話やメッセージをくれてもいいくらいに時間が経過している。今相当に立て込んでいるのだろうか。零さんも暇ではないし当然か……と理解はしているが、今日という日が終わりかけるにつれて、本音が溢れてくる。
 最後くらい、零さんに会いたかった。明日一緒に流星群を見に行きたかった。こんなことって無いじゃないか。
 泣きそうになりながらふと視線を向けた本棚に『遺言の書き方』というタイトルの本があった。遺言、と聞いても普段ならそんなに意識はしないが、今の状況もあって興味を引かれた。私が元の時代に戻ったらどうなるのだろうと何度も考えたが、答えが分かるはずもない。もし元の時代に戻って零さんの事を忘れてしまったら、どうやって零さんを探せばいいのだろう。例え覚えていたとしても、零さんと再度出会える保証はない。こんなことなら、零さんが8年前何をしていたか聞き出しておけば良かった。今になって悔しく思いつつ、綾は本棚の高い位置にある『遺言の書き方』という本に手を伸ばす。
 もしこのまま元の時代に戻って、零さんの事を忘れてしまったら、彼と出会う事なく生涯を終える可能性もある。その場合、今この世界で零さんと一緒に過ごす日々も無くなってしまうのだろう。最悪、ここで零さんと一緒に過ごした事が最後になってしまう。会えないのならせめて、置き手紙をしていこうか。言いたい事がたくさんあってまとめられる気はしないが、せめてお礼だけでも伝えたい。だからこそこれはある種の、遺言になるのかもしれない。
 あぁでも、元の時代に戻って零さんと出会えなければ、今手紙を書いたって届きはしない。
 グスッと鼻をすすってから、綾は伸ばした腕を止めた。そして背伸びをして目的の本を取るのを諦め、踵を床につけたタイミングで、綾が取ろうとしていた本が宙に浮いた。正確には、後方に立つ何者かが目的の本を抜き出していった。余裕ありげに持っていかれる本に視線を奪われるように振り向くと、そこには予想外の人物が立っていた。見慣れたグレーのスーツ、明るい金色の髪、色黒の肌、綺麗な瞳。未だに見蕩れてしまうそれらの主は、手に取った本のタイトルを確認して眉間に皺を寄せた。
「……何をしている?」
 零さんに静かに怒りを向けられたのは、初めて出会った時以来だった。

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