remember

 聞き慣れた着信音が響いている。目覚めたばかりのぼんやりとした思考の中で携帯を手に取り、綾は画面を確認した。そこには見慣れた名前が表示されており、特に深く考えずに応答する。
「もしもし」
『ちょっと綾、起きてる?』
「……え?」
 友人の言葉を聞き、綾は時計を確認する。時刻は午前8時。何かあったっけ? と首を傾げている綾を察してか、友人は「もう……!」と文句を言った。
『今日、一限の前に集まるって言ったじゃない』
「あ……そうだった!」
 ガバリと飛び起きた綾は、友人の言っている事を思い出した。今日は一限の授業の前に、グループワークの打ち合わせをすることになっていたっけ。なんでこんな事を忘れていたのかと、綾は慌てて机の上に広がっているノートをカバンに突っ込む。昨日課題をしている途中で寝てしまったものだから、大学へ向かう準備なんてできていない。
『レポート忘れちゃだめだよ』
「レポート……あぁ、そっか」
 今日はレポートの提出日だった。机の上にあるレポートもファイルの中に入れようとして、綾の脳裏にふと疑問が過る。レポートは完成していたっけ。なんだか書いている途中で寝てしまった気がする。うっすら不安になりながら紙の束を確認すると、綾の記憶と違ってレポートはちゃんと完結していた。ただ、何故か三ページ目だけが欠如している。
「ない……」
『どうかした?』
「レポートが一ページだけ印刷できてなかったみたい……!」
 慌ててパソコンを立ち上げると、電話の向こうの友人が「大丈夫?」と心配の声をあげる。若干呆れているようではあったが、可笑しそうに笑っているようでもあった。ソフトを起動しレポートを確認すれば、抜けていた三ページ目はしっかりと文章が埋まっていた。逆に、このページだけ抜かして印刷する方が珍しい。ひっかかりを覚えつつ、綾はプリンターを起動する。ウォーミングアップをはじめた機械音を耳にしながら、やはり不思議に思って手元にあるレポートに目を落とす。途中までは内容に覚えがあるが、後半を書いた記憶がまるでない。しかし、何故か提出課題は完成している。むしろ、レポートが書き途中だという事の方が夢なのか。……そういえば、長い夢を見ていた気がする。しかし、内容が思い出せない。何だったっけ。
『他に忘れものはない?』
 友人の声がこの時だけ、何故か聞き覚えのある男の人の声に聞こえた気がした。
「忘れもの……」
 数秒考えてから、綾はハッキリと答えた。
「ないない、大丈夫!」

 音も無く目覚めた時、夢の内容を思い返して綾は戦慄した。見上げた先には、今や見慣れた天井。ここが『今』の現実だと分かり、綾は酷く安堵した。
 たまに妙な夢を見るようになった。夢の内容は目覚めた時には忘れてしまっているのだが、今日のは鮮明に記憶に残っていた。夢の中の自分は、8年前の本来の自分だった。8年後の世界に来た事なんてもなければ、降谷零という人の事を知らず、覚えてもいなかった。ただいつも通りの日常を送っていた。本来はそうあるべきなのに、恐ろしく思った。もし私が元の時代に帰ったら、こうなるのだろうか。そう考えずにはいられなかったが、綾の葛藤をよそにお腹はすく。ぐぅ……と胃が音を立てそうな気配に気付いて、綾はのそりとベッドから出た。
 零さんはここ数日、家に帰っていない。何やら帰宅できない程の重大な案件があるらしく、一昨日着替えを持って行った時に会ったきりだ。家を留守にしている事が多い夫だからこそ、数日会えない事には慣れたつもりだった。しかし、妙な夢を見たせいもあり、今は非常に心細い。
 綾自身、うっすらと感じ取っていた。もうすぐ自分は、ここからいなくなってしまうのかもしれない。そしてこの事実を零さんに伝えるか伝えまいか、ここ数日悩んでいた。
 朝食を軽く済ませ、綾は日課になっている書き取り作業に取りかかる。ここに来てからの出来事や思い出を、意地でも忘れるか! と何度も繰り返してノートに書き込む。何も知らない人が、ひたすら一定期間の出来事を繰り返し書いているノートを見たら、気が狂っていると思うだろう。現にこのノートを自分で見てもそう思うし、零さんに見つかりでもしたら引かれそうだ。とりあえず自分でできる記憶術をできる範囲で実行し、努力はしている。どうなるのか分からないこの先で、この努力がいつかきっと、実を結ぶと信じて。
 調べていて分かった事だが、記憶が無くなったとしても、体が覚えているということもあるらしい。その辺りも期待し、今度零さんが帰ってきたら、思い切ってお帰りのハグでもしてみようか。自分から零さんに積極的になることは少ないから驚かれるかもしれないが、妻なんだしスキンシップを図ったっていいだろう。抱きついて零さんの事を体にも刻み付けたい。そんな下心を胸に、綾はフンと鼻息をたてる。気合いを入れるところなのかは謎だが、こうでもして奮い立たせないと心が折れてしまいそうだ。何せ相手はあの零さんである。彼と一緒に生活を始めて一ヶ月以上にはなるが、未だあの人に対して免疫ができない。8年後の私は、零さんとどれくらい付き合って結婚に至ったのか分からないが、平気なのだろうか。あんなカッコイイ人、これまでの人生で出会ったことがない。悶々とそんな事を考えながら、綾は点滅している携帯を確認する。『明後日に戻る』と簡素なメッセージが、零さんから届いていた。
 帰ってくるのは明後日なのか。なんとなく随分先のような事に感じられ、思わずカレンダーに視線を向ける。たかだか二回寝るだけで会えるのに、それでも非常に待ち遠しい。
 せめて少し話しがしたいな。そんな事を思いながら、綾は自身の携帯を確認する。零さんは忙しいだろうし……と気が引けた。しかし、自分はもう長くここにいられないかもしれない。そう考えると、思い切って行動してみようと踏み切る事ができた。零さんからのメッセージに対して『今日少し話せませんか』と送ってみる。仕事中だし返事は遅くなるかと思ったが、零さんからの返信はすぐだった。
『今夜九時頃なら時間が取れる。またこちらから連絡する』
 必要最低限の要件だけが書かれたメッセージだったが、綾の気分が浮き上がるには充分だった。

   * * *

『何かあった?』
 午後九時丁度に、零さんから電話がかかってきた。仕事で疲れているはずなのに、それを感じさせない普段通りの声だった。
「いえ。こう言ってはあれなんですけど、零さんの声が聞きたかっただけなんです」
 電話の向こうの零さんは少しだけ驚いたようだった。しかし、なんとなく口端を上げているだろう事が息遣いで分かった。
『……素直だな、この前のが効いたかな』
 この前の。一瞬何の事かと思ったが、一番最近零さんと話したのは着替えを持って行った時、そしてそれより前は、窓越しにキスをしてしまった時くらいだ。そして夫の言い草から、暗に後者の事を言っているのだと察した。途端に気恥ずかしくなってぐっと黙ると、零さんはフッと笑った。きっとこちらの様子がなんとなく分かったのだろう。
『何も遠慮する事じゃないのに。夫婦なんだから』
「……」
『でも今度は、ガラスは無くていいかな』
 流れるようにそんな事を宣うものだから、綾は何と返せばいいのか分からない。
「……う、ぐ……」
『嫌なのか?』
「……嫌じゃないです」
 嫌ではない、それが問題なのだ。零さんの事は好きだし、キスだってしてみたい。しかしこの人をいざ目の前にすると、緊張するなというのが無理な話なのだ。一つの悩みから脱したというのに、今度は別の問題が発生している。しかも予想外で、酷く幸せな悩みだ。
『ふっきれたんだろう?』
 次に続いた零さんの言葉も、予想外だった。
「……何で分かるんですか?」
『分かるさ。君にこういう我が儘を言われたのは初めてだ』
 あまりに核心をついてくる夫に、一種の恐ろしさすら感じた。しかし、先日まで、零さんとの触れ合いに戸惑っていたこともあったから、気付くのも無理はないのかもしれない。
 零さんが好きなのは8年後の私であって、8年前から来た私ではない。零さんを好きになっていく度にその事で悩んでいたが、先日の『根気勝負』であっさりと負けてしまった。たった一点先制されただけなのに、それがこの勝負の全てだったような気がする。もうそんなことはいいのだ。私は零さんが好きで、零さんも私を好きだと言ってくれた。それが真実だ。
「ちょっとだけ聞きたい事があるんですけど」
『何?』
 少しだけ聞くのに勇気が要ったが、綾はなんとか口を開いた。
「私が記憶を無くした時、どう思いましたか」
 電話の向こう側にいる零さんは、流石にこの言葉には黙った。頭の回る零さんが口を閉ざすということは早々無い。ということは、これは答えにくい質問なのだ。
「ずっと思ってたんです。私は零さんと出会ってからこれまでの間の記憶がない。それって……零さんが好きになってくれた私なのか、って」
 彼の与えてくれる優しさに甘えたい。しかし脳裏で、どうしてもそれが掠めてしまい、板挟みになっていた。
「だから、素直にその……キスとかしてもいいのか少しだけ悩んでいました」
『……あぁ』
 綾がなかなか自分に身を委ねなかった理由に、やはり零さんはうっすらと気付いていたらしい。特に驚いた風でもなく、噛み締めるように頷いた後、零さんは少しだけ黙った。そして、ゆっくりと口を開く。
『……さっきの質問の答えだが、君が記憶を無くしたと聞いた時、正直ショックだった。俺と君の間にはいろいろあったんだ。それを乗り越えて、今がある。それが全部無かった事になったのは辛いものがあった。君とどう接したらいいのかとも悩んだ』
 はじめて聞く零さんの本音だった。綾もこの話題には触れたく無かったからこそ、今まで聞く機会なんて無かったから当然だった。きっと零さんも避けていた話題だ。しかし、こうして正直に話してもらえたことは嬉しかった。内容が辛かったとしても、嘘をつかれるよりはずっといい。
『君は君なのに、俺の知る君じゃなかった』
 やはり零さんも、そう思っていたのか。いざそれを聞くと胸に刺さるものがあり、綾は無言で頷く事しかできなかった。今までずっと綾に優しく、甘く、たまに意地悪な振る舞いをしていた彼は、やはり心のどこかでひっかかりを覚えていたのか。彼が好きなのは私ではない。それを思い知らされ、綾は俯く。
『だけど……理屈じゃないんだ』
 電話の向こう側で、零さんが穏やかに笑った気がした。
『例えば俺が、君との記憶を無くしてしまったとして、君は俺を好きじゃなくなるのか?』
 全て分かった上での言葉だった。彼の言葉は恐ろしい。こうも簡単に綾を掬い上げてしまう。そして何より恐れるべきは、彼の言葉が本音であることだった。そして彼の質問に対する綾の答えは明白で、夫もそれを分かっていた。
『一緒さ』

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