15-0

「はぁ……」
 分厚い本を閉じながら、自身の口から溜息が漏れた。静かな図書館ではそれも思ったより大きく響き、綾は慌てて口元を手で覆う。そんなことをしても無意味だと分かっているが、反射のようなものなので仕方が無い。周りの様子を窺いつつも、綾は手の中にある本に視線を落とす。綾が持っているのは『記憶』に関する学術書である。本の内容についてはうっすらとは分かったが、小難しい言葉のオンパレードで正直頭が痛い。しかし、そうも言っていられないのが現実だ。
 先日、未来の自分からの手紙を確認した後の零さんとの一件で、綾は心に決めた事がある。未来の自分からの手紙には、綾が元の時代に戻る事はできるが、ここで過ごした記憶は無くなってしまうと書かれていた。どうしたいかはあなた次第……と投げやりなアドバイスもあった。手紙を読んですぐの頃は「どうすればいいんだ」と心の内で文句をたれていたが、零さんとのやりとりでストンと胸の中に落ちたものがあった。どうしたいか、なんて決まっている。零さんの事を忘れたく無い。過去に戻っても彼の事を覚えていて、彼にもう一度会いたい。今の生活を、ちゃんと順序通りに手に入れたい。彼に本当の意味で、愛されたい。だからこそ、そのための努力は惜しまない。そんな決意を胸に、綾は次の本を手に取る。
 どうしたいかあなた次第という事は、私の努力次第でどうにかなるのかもしれない。未来の自分が何故「努力しろ」と手紙に書かなかったのかは疑問だが、恐らく前向きに捕えてもいいのだろう。だからこそ綾はこうして、図書館に足を運び、所謂「記憶術」に関するものについて調べている。少しでも、頭に記憶が残る手段を模索しつつ、実践する所存だ。とりあえず手始めに、今日までの出来事を毎日書き取りでもしてみようかと思っている。学校に通っている者にはおなじみの、記憶し体に覚え込ませるためのありふれた手段だ。
 先程の本よりも薄い学術書をパラリと開きながら、綾は自身のカバンの中をチラリと見やる。そこには8年後の自分からの手紙と、お守りが丁寧に仕舞われている。なんとなくお守りだけを取り出し、くるくると回して色んな角度から観察する。
 手紙に気を取られてすっかりと忘れていたが、一緒に入っていた明らかに手製のお守りの意図も分からない。触ってみると中に固い何かが入っているようで、余計に疑問である。しかし、手紙と一緒に封筒に入っているくらいだから、きっと重要なものなのだろう。お守りの中身の感触を確かめるようにぐにぐにと指で押しつつ、お守りの巾着の口部分をじっと見る。手製というだけあって、紐で固定している部分が少し緩くなっており、解けば中に入っているのものが確認出来そうだ。中身を見るとバチがあたると言われるが、こんな状況で中身が気にならないはずがない。明らかに自作ということもあり、綾は好奇心に負けて、ゆっくりとお守りの紐を解いた。思いの外簡単に紐が解けたのには驚いたが、綾は早速その中を確認する。しかし予想外にも、そこには更に一回り小さいお守りと紙が入っていた。何故お守りの中にお守りがあるのか。当然の疑問を胸にそれを抜き出し、釣られて出て来た紙に視線を落とす。小さな折り紙を折り畳んだような紙には何かが書いてあるようで、綾は恐る恐る確認する。
『今、これ以上中身を見たら死ぬ。そしてこれを、肌身離さず持ち歩くように』
 死ぬ、というあまりにもシンプルで破壊力あるワードに綾は戦く。お守りの中身を見るのは一般的にタブーであり、それを犯してしまった自分を突きつけられた気がした。中身を見たからと言って死に至るとは思わないが、あまりにも気味が悪い。慌ててお守りを元の状態に戻し、綾は息をついた。先程の紙に書かれていた内容を確認したのは一瞬だったが、明らかに自分の筆跡で書かれたものだった。要は、このお守りの中身を『今は』見るな、そして肌身離さず持ち歩けという事らしい。
 何か意味がある事だけは分かるが、それが何なのか全く分からないことが歯がゆい。未来の自分が何を意図しているのか掴めないまま、まるで誘導されているような状況だ。そのくせ重要な事は教えてくれないなんて、一体何を考えているのだろう。ハァ……と大きめのため息をつき、綾は手に持った手製のお守りに再び視線を落とす。持ち歩けと言うわりには、少し大きすぎやしないだろうか。その辺の配慮もして欲しかった……などと文句を言ったところで、未来の自分は何も教えてくれない。

   * * *

 図書館から早めに帰宅し、綾は持て余した時間を家の掃除に当てる。わりと頻繁に掃除をしているせいで散らかっているところは無いため、先日の雨で汚れてしまったガラス戸を重点的に拭くことにした。ベランダに立ち、キュッキュと音を鳴らしながら手を動かす。正直、家でもゆっくりと『人の記憶』について調べていたいが、勘の良い零さんに気付かれる恐れがあった。ただ単に『記憶喪失の綾』が失った記憶を取り戻す為に本を漁っているのはなんら不思議では無いが、綾は何度か零さんに『自分は過去の世界から来た』と言っている。零さんがそれについてどう思っているのかは分からないが、過去から来たと言った自分が『記憶を取り戻すため』の本を調べていたら、不審に思うだろう。取り戻す記憶が無いのに、何故そんなことを調べているのか。それを指摘されて、綾は上手く言い逃れ出来る自信が無い。そして、自分が過去の世界に戻り、ここでの記憶を無くしてしまうだなんて言う勇気はもっと無い。とりあえず調べものは図書館だけですることにして、家では普段通りでいようと決めた。
「よし」
 黙々と磨き上げたガラスは美しく、曇り一つ無い透明感だ。それに満足しながら眺めていると、不意に聞き覚えのあるエンジン音が耳に入った。ベランダから振り返って外を見ると、零さんの白いスポーツカーが戻って来ていた。今朝は早くから仕事に出ており、帰るのは翌日になるかもしれないと言っていたはずだ。その割に帰宅が早すぎる。不思議に思いながらも、綾は家に帰って来るだろう夫を迎えるため、リビングに戻った。
「おかえりなさい、今日は早いですね」
 帰ってきた夫を出迎えると、零さんは苦笑いを浮かべた。
「それが、まだ仕事中なんだ。ちょっと仮眠を取りに帰って来ただけ」
 肩を竦めた零さんから羽織っていたジャケットを受け取り、綾は「成る程」と納得する。耳には零さんが良く使っているヘッドセットがついたままで、まるで家に帰って来た人のようには思えない。目頭の辺りをマッサージしながら、零さんは早々にソファの上に転がった。
「三十分後に起こしてくれ」
「分かりました」
 ソファから落ちないでくださいね、なんてからかいの言葉をかけると、仮眠の体勢に入っていた零さんが唇を尖らせた。
「落ちないよ……」
 少しだけ拗ねているような口調の彼がなんだか可愛い。以前ソファから転がり落ちてしまった事がある零さんはその時のことを思い出したのか、若干気恥ずかしそうにソファに沈んだ。クスクスと笑いながらジャケットをハンガーにかけ、綾はキッチンに向かい、冷蔵庫を開く。時間は昼の三時、所謂おやつの時間だ。この後すぐに仕事に戻る零さんでも、サクッとつまめる食べ物はないだろうか。

 そして三十分後。リビングに戻ってきた綾よりも先に、零さんは既に起き出していた。
「もう起きてたんですか」
「あぁ」
 帰って来た時よりもスッキリとした様子の零さんは、ソファに腰掛けてフゥと息をついた。そんな零さんに、綾は冷凍庫の中から持って来たアイスを差し出す。バニラを基調とした小さいアイスには、ところどころ苺の果肉が確認出来る。
「うちで育てた苺の入ったアイスです」
「あぁ……ありがとう」
 合点がいったのか、零さんはアイスを受け取ってから、ベランダの方に視線を向ける。ベランダには零さんが世話している野菜達と一緒に、綾が育てている苺のプランターがある。そこで収穫した苺をつかった簡易なアイスではあるが、軽い食べ物としては丁度いいだろう。
「苺に少し甘さが足りなかったから、バニラで誤摩化してるんですけどね」
「成る程……でも、美味しいよ」
 アイスを食べながら、零さんはソファから立ち上がり、ベランダに向かう。ベランダとリビングを隔てるガラス戸をスッと開けてから、零さんは育てている野菜達や苺のプランターを眺める。
「日当りは良いはずだが……」
 何故苺の甘さが足りなかったのか考えているらしい。早々にアイスを食べ終え、ベランダで考え事をしている夫は、本当に向上心というものの塊だ。ガラス戸に寄り、思わずクスクスと笑うと、零さんは不思議そうに振り向いた。
「何?」
「いえ、零さんはいつも、何にでも前向きですよね」
 前向き、という言葉で片付けられるものでは無いだろうけれど。状況を打開するためにどうすべきか、解決のために向かう思考は彼の癖であり長所だ。それが例えば、警察の仕事であろうと、家で育てている苺に甘みが少し足りなかった事であろうと、遺憾なく発揮される。
「……褒めてるか?」
「褒めてます。零さんのそういうところ、私は好きですよ」
 何にでも全力で取り組む貴方の姿勢が好ましいと、特に深い意味も無く吐き出した言葉だった。しかし、すぐに綾は自身の「好き」という発言を脳内で反芻し「しまった!」と一人動揺する。零さんも思うところがあったのか、動揺して固まった綾を認めて、やや目を細める。
「……いい加減、白状してくれると嬉しいんだけどな」
 綾が何に動揺しているか気付いての発言だった。ぐっ……と息を飲みながら見上げると、零さんは少しムスリとした顔をしていた。先日、お遊びで行ったダンスの後、綾が零さんに「好き」と言いかけたものの、なんだかんだうやむやにしてしまった事を根に持っているらしい。えっと……などとモゴモゴしている綾には、上手い言い訳が思いつかない。そして痺れを切らし気味の零さんは、容赦なく切り込む。
「俺は君が好きだよ」
 あまりにもストレートに伝えられたものだから、綾はみるみる紅潮していく。対峙する零さんは真剣そのもの、視線だけで「何故素直にならない?」と雄弁に語っている。零さんは、綾が自分に思慕の情を寄せている事に気付いている。それは火を見るよりも明らかだ。しかし、綾がハッキリと言葉にしない事にひっかかりを覚えているのも確かだった。
 今にもこちらに一歩踏み出しそうな夫に危機感を覚え、綾は思わずベランダに繋がるガラス戸に手をかけ、パタンと閉じてからロックをかける。綾のこの行動は流石に予想外だったらしく、零さんはガラス戸の向こう側で「オイ」と慌てた。
 ベランダとリビングを繋ぐガラス戸をはさみ、二人して立ち尽くす。零さんは自分が踏み込みすぎたと思ったのか、少しだけ寂しそうに「すまない」と口にした。そういう顔をさせたい訳ではないが、綾にとっても非常に複雑なのだ。このまま零さんに抱きすくめられたりしたら、とても自分を抑える事なんてできない。だからこそガラスの壁を張って距離を取ったというのに、この一枚の隔たりが煩わしい。酷い矛盾だ。
「……今の私は、零さんの好きな私じゃないんです」
 零さんは目を見開き、じっと綾を見下ろす。私だって零さんの事が好きだ。しかし、零さんの好きな私は、果たして8年前から来た私であるのか、それがずっと足を引っ張るのも事実だった。最初のうちはそんな事気にもしていなかったのに、彼を好きになればなる程、そこが気になっていく。真に愛されたいと思ってしまう。なんて面倒で複雑なんだろうと、自嘲した。
「私は、零さんの好きな私になりたい。だから、それまで待ってくれませんか」
 ただの私の我が儘だ。私も零さんが好きで、零さんも私の事を好いてくれている。しかし、その好かれている私は私であって、私ではない。その辺りの整理が上手くつかず、素直に頷いていいものかと心のどこかで迷ってしまう。だからこそ踏ん切りがつくまで待って欲しい。
 きっと綾の言いたい事が分かっているだろう零さんは、理解を示したかのようにフッと口端を上げる。そして柔らかく、穏やかに笑った。
「嫌だ」
 あまりに甘い笑みをたたえているのに、その口から出た言葉はバッサリとしたものだった。ガラス一枚を挟み、呆気に取られている綾を見下ろし、零さんは右手を腰に当てた。
「でも、君の気持ちも汲みたい。だからこれは、お互いの根気勝負だ」
 トントン、と零さんはガラスを指で叩く。丁度綾の視線の先くらいの高さ、ある一カ所で止まった零さんの人指し指に視線を奪われていると、そこに急に零さんの顔が現れた。彼が身を屈めたのだという事は分かったが、急に至近距離で目が合い、綾はビクリと肩を震わせた。整っている彼と視線を合わせ続けるのは心臓に悪く、自分の顔に熱が集まっていくのが良く分かる。ゴクリと息を飲む隙すら与えられぬまま、零さんはガラスを叩いた指で、今度は自分の唇に触れてみせた。まるで誘導されるように、零さんの形の良い薄い唇を視界で捕えてしまい、綾は夫が何をしようとしているのか察した。
 根気勝負は、既に始まっていた。
「綾」
 零さんの柔らかな声色に目眩がする。私の理性なんて、所詮このガラス一枚くらい薄く、危ういものなのかもしれない。至近距離に迫る零さんがゆるりと目を閉じたタイミングで、綾も惹かれるように瞼を下ろし、ガラス戸に身を寄せるように手をついてから、ぐっと背伸びをした。
 そうして初めて、零さんとキスをした。ガラス越しではあったが、気持ちは間違いなく重なった瞬間だった。唇に触れたガラスの感触は固く冷たい。しかし、自身の身体は酷く熱い。きっと本当の唇と触れたら、柔らかくて、熱くて溶けてしまうんじゃないか。そんな事をぼんやりと考えながら、うっすらと目を開くと、再び零さんと目が合った。もしかしてずっとこちらを見ていたのかと、気恥ずかしくなる。そんな綾を認めて、零さんはすっと目を細めてから、ガラス戸越しに重ねていた手を動かす。ゆるりと手が動いた先には、ガラス戸のロックがある。零さんのいるベランダからは解錠することはできないそれを、ガラス越しにトントンと叩く。どうやら「開けろ」という事らしいが、これを今の状況で開けてしまったら、どうなるかなんて明らかだ。どうしよう……なんて考えながら、綾の手は無意識にガラスを這う。そして零さんが動かした手と同じ軌跡を辿り、戸のロックに到着する。開けたい。正直な欲望が己の中を支配し、綾は再度目を閉じてからガラスに唇を寄せる。
 零さんに少し待ってほしいと言っておきながらこんな事をして、まるで説得力が無い。しかしきっと、零さんも綾の理性の隙を突いている。理屈で踏みとどまっている私に、理屈を捨てさせようとしている。とてもズルい人だ。好き。
 カチャリと、綾の手がガラス戸のロックを解錠する。それに気付いて、零さんはゆるりとガラス戸を開けていく。パタン、とドアが開ききった音が静かなリビングに響いた。これからどうなってしまうのだろう、なんてドキドキとしながら顔を上げると、零さんの右手が頬に滑り込んできた。見上げた先にある夫の表情は、少し悩ましそうであったが、それでも真直ぐこちらを射抜いた。そして何かを口にしようとしたタイミングで、夫の眉間に皺が入る。途端に険悪な顔になった零さんに物怖じすると、夫は耳に付けていたヘッドセットに手を当てた。
「状況は」
 すっかり忘れていたが、零さんは仕事の最中、休憩がてら家に戻って来ただけだった。恐らく部下から仕事にまつわる何かの報告が入ったのだろう。零さんはヘッドセットの方に視線を逸らしたまま、何度か「あぁ」と相槌を打った。
「……分かった、直ぐに向かう」
 そう言って通話を終えた零さんは、ふぅと息をついてから綾を見下ろす。
「……すまない」
 恐らく至急仕事に向かわなければならなくなったのだろう。先程のムードは抜け落ち、零さんが続きを再開する気配は無かった。それが残念なような安心したような、複雑な心境にかられながらも綾はコクリと頷く。ここまで来てお預けをくらうと辛いものだと思いながら、自分もそれを零さんに強いていると気付いた。しかし、目の前の夫は不敵に笑い、綾の頬を撫でた。
「いつか、続きをしよう」
 宣戦布告のような言葉を残し、零さんはジャケットを手に取り、仕事に向かって行った。

back  next