waltz

≪8年前の私へ
 あなたはもう少ししたら、元いた時代に帰ることができます。でもその時、ここで過ごした事は全て忘れてしまいます。どうしたいかは、あなた次第です。
 8年後のあなたより≫

 8年後の私は一体何を考えているのだろう。
 帰宅してから部屋に閉じこもり、工藤新一君に預かって貰っていたらしい手紙を開いての感想はこれだった。たったそれだけの事しか書かれていない正方形の手紙を手に、綾は呆然としてしまった。綾が8年後の世界に来てしまっている事を知っている、恐らく唯一の人物からの手紙。過去の自分が体験したことなのだから、綾の今の状況を分かっているはずである。何故自分はここにいるのか。元の時代に戻れるのか。一体いつまでここにいられるのか。知りたい事はたくさんあるのに、8年後の私からの手紙の内容はなんだ。元の時代に戻る事はできるが、ここで過ごした記憶を忘れてしまう事しかハッキリとした事実を書いていない。しかもそれについて「どうしたいかはあなた次第」だなんて、投げやりにも程がある。そんなの、
「決まってるじゃない……」
 昨日の事を思い出し、皿洗いの途中に思わずぼやいてしまった。口に出して文句を言わないと気がすまなかったというべきか、何かに八つ当たりしたい気分である。
「どうかした?」
 不意に背後から声をかけられ、動揺してカチャリと皿を擦り合わせてしまった。どうやら先程の呟きを聞かれていたらしい。しまった、と思いつつ、夫がまだ家を出ていなかった事に驚く。二時間程前に一時帰宅した夫は、休んでからまた仕事に出かけるのだと言っていた。書斎で何やらゴソゴソしてはいたが、てっきりもう家を出たのかと思っていた。
「いえ、なんでもないで……」
 す、と続けようとして振り返った綾は、夫の普段と違う格好を認めて静止した。基本的にはスーツ姿で家を出て行く事の多い零さんは、今はスーツよりもカッチリとした服を身に纏っていた。普段愛用しているスーツのグレーよりも深い色味のジャケット、シャツやタイをグレー系統に統一し、落ち着いた清潔感のあるものにまとめている。しかし、そのスーツを着ている本人が派手なためか、地味すぎるということも無ければ、派手すぎる事もない。おまけに髪もセットしており、前髪を軽く後ろに流し額が露になっているのは新鮮だ。そして言うまでもなく、様になっている。
 ほう……と思わず見蕩れていると、そんな事はお見通しの零さんは「どうかな?」なんてニコリと笑う。どうかなんて自分でも良く分かっているのに、あえて聞く辺りが少し意地悪だ。しかし、綾はここで意地を張るタイプではない。
「凄くかっこいいです」
 思った事をストレートに口にすると、零さんは「ありがとう」と言った後、数秒してから口元に手を動かし、もう片方の手を腰に当てた。その体勢のままスンと黙ってしまった零さんを見上げ、首を傾げる。しかし、少しだけ耳が赤い事に気付いて、綾は「もしや」と口を開く。
「……照れてます?」
「……」
 どうやらじわじわときたらしい。
「零さん、こういう事言われ慣れてそうなのに意外ですね」
「いや、こうもストレートに言われるのは予想外だったというか……」
 急に恥ずかしくなった、と続けた零さんは、口元を隠していた手をどかして大きなため息をついた。きっと照れてしまった事が不覚だったのだろう。格好つかないな、なんてぼやいている。
「それにしても、どうしたんですかその格好」
「今日はこの後、仕事でちょっとしたパーティに出席しなきゃいけなくてね」
「へぇ……」
 パーティ、と聞いてから、綾は夫の服装を再度確認する。カッチリとした格好で、キラキラと整って見える零さんは、綾が昨日見た映画に出て来た主人公と重なる。映画の中で、スパイとして活動するストイックな主人公が、潜入先で開催されたパーティで、一般参加の女性に不覚にも一目惚れしてしまう話。そして自身と彼女の住む世界の違いを痛感し、彼女の前から消える前に、最後にダンスを申し込むのだ。そして彼女は彼にダンスを申し込まれ舞い上がる。それが二人の最後の思い出になるとも知らずに。その切なさといったらない。
「ダンスでも踊るんですか?」
「え?」
 キョトンとした零さんを見上げ、綾はハッとする。パーティ=ダンスだなんて安易な連想ゲームだが、現実世界では早々似ない。自分が恥ずかしい事を言ったのを自覚し、綾は慌てる。
「すみません、昨日見た映画にダンスパーティのシーンがあったので!」
「成る程……」
 納得がいったらしく、零さんはふむと頷く。
「今回はダンスパーティじゃないかな、稀にあるけど」
「稀に……」
 稀にでもあるらしい。生まれてこの方、ダンスパーティというものに参加したことも無ければ見た事も無い綾は、少し興味を覚えた。
「あれできますか? 女性の手をこう……持ち上げてくるりと回る感じの」
 上手く言葉で説明できないが、綾は夫にジェスチャーを交えて説明する。男性が女性の手を取り高く持ち上げ、女性は持ち上げられた手を軸に、男性の腕の下でくるりと回ってみせるアレである。男女のダンスパーティと言えば有名なものだろうが、現代の日本でそれが当然として行われるかは綾の知るところではない。しかし、恐らく滅多にないだろう。ただの興味本位。少しだけやってみたいな……という綾の無言の期待に気付いてくれる夫は、時間をチラリと確認してから、手をそっと綾の方に差し出す。
「やってみる?」
 先程まで照れくさそうにしていた零さんはどこへやら、今の夫は紛れも無く大人の余裕ある男である。「お手を拝借、レディ」なんて文句まで添えてくれる親切さだ。おまけに眩しい。いいのだろうか……と戸惑いはしたが、ドキドキとしながら夫の差し出した手に自身のそれを乗せる。この時気付いたが、そういえば私は皿洗いの最中だった。そのため手は少し濡れているし、使い込んでいるエプロンをつけたままだ。まるでダンスパーティにはそぐわない格好をしていて気遅れしてしまうが、それでも目の前の夫は優しげに目を細めてくれる。
「俺の動きに合わせて、身を任せてくれればいい」
 ダンスのステップも流れも知らない綾に軽い説明をした後、零さんはそう締めくくり、綾の腰に腕を回す。もう片方の手は綾の手を攫い、二人で比較的広いリビングを位置取る。私から言い出しててあれだが、これから仕事のはずなのに、零さんはこんな事をしていていいのだろうか。見上げた先にいる零さんは、身なりや整え方が普段と随分違う。まるでこんなお遊びなんて似合わない大人っぽさを纏っているのに、これから行われるダンスパーティごっこに付き合ってくれるのだ。
「いくよ、せーの……」
 零さんの声を合図に、零さんに合わせて足を動かし、ステップを踏んでからリビングの真ん中に移動する。タンタンという控えめな足音だけがリビングに響き、そのすぐ後に綾を送り出すように零さんが手を持ち上げる。頭上に自身の手を持ち上げられ、綾は「今だ!」と勢い付いて一歩踏み出す。零さんが高く持ち上げている手を軸にくるりと回ってみせると、身につけていたエプロンが申し訳程度にふわりと揺れた。
「凄い、出来た……!」
 我ながら中々華麗に回れたのではないか。そんな自信を胸に零さんの方を見上げると、色っぽい夫は悪戯っぽくニヤリと笑う。何かを企んでいそうなその表情に首を傾げそうになったが、それよりも早く零さんが動く。再び綾の腰に腕を回し、手を取ってから綾を巻き込むように、中央で一緒にくるりと回ってみせる。もはや零さんに抱き抱えられるような状態に近く、腰を反らしすぎたせいで綾は一瞬息が詰まった。ちょっと待って零さん、苦しい。綾がそう口にしようとした瞬間、零さんは最後の仕上げとばかりに綾の手を引き上げ、腰に回した腕に力を入れた。先程の以上に腰を反らさざるを得ない体勢になり、心の内で悲鳴を上げそうになったが、不意に零さんの顔が至近距離に迫った。
「え、」
 額と額が触れそうな程の距離。視線を交えた零さんの目は相変らず綺麗で、一瞬息をするのを忘れた。普段の髪型ならば、前髪が綾の額にきっと触れていた。
 一体何をするつもりだろう。そう考えた瞬間、真っ先に零さんの唇に視線を奪われて、綾はみるみる紅潮していく。まさか。まさか。期待と恐れがないまぜになった心境で、無意識に唇を引き締める。記憶がないとは言え、綾は零さんの妻だ。きっとそういう事をしたっておかしくない。コクリと息を飲みつつ、唇が異常に乾いていくのを感じながら、綾の心だけは彼に委ねられた。じっと視線を合わせたまま、零さんの顔がゆるりと動く。目をやや細める所作は、唇を重ねる行為の直前のそれである。こういう時、目を閉じるのが通例だろうが、綾にはまるでそんな余裕が無かった。
 そうして唇が触れそうになった瞬間、綾が肩に力を入れたタイミングで、零さんは顔の軌道を逸らした。そうして華麗な動作で唇の接触を避け、綾の耳元に頬を寄せてボソリと呟く。
「期待した? ハニー」
 文字にするとあまりに甘ったるい言葉ではあるが、零さんの声色は明らかにからかっているものだった。クスクスと楽しそうに笑っている彼の表情が目に浮かび、綾は数秒後、羞恥に襲われる。
「な……なんですか、急に!」
 彼の言葉通り、期待していた自分が恥ずかしい。背を反らし、夫の腕に身を委ねたまま噴火する勢いで抗議すると、零さんはゆっくりと顔を上げた。案の定、愉快そうな様子である。
「ははは、やっぱりなぁ」
「やっぱりって……何がですか?」
「君の反応だよ、前と全く同じだ」
「……前?」
「あぁ。以前にも、同じようなやり取りをした事がある」
 昔の私とのやり取りを思い出してか、零さんは懐かしむようにこちらを見つめる。彼の慈しむような視線を身に受け、嬉しくないはずがない。舞い上がらないはずがない。しかし、同時に綾の心を突き刺したのも事実だった。
 零さんはきっと、私の事を愛してくれている。しかしそれは、彼と先程のやりとりをした事のある自分で、8年前の世界からひょっこりやって来た自分では無いのだ。喉に熱いものがこみ上げてきそうになり、綾はぐっと口を引き締める。これ程までに、自分が記憶喪失だったら良かったと思わなかった事はない。記憶喪失だったなら、彼と共有した記憶を思い出せる可能性だってある。しかし、今の綾が思い出せるわけがない。そもそも、彼との思い出が無いのだ。それどころか、私はいつかここから居なくなる。零さんの事を、忘れてしまう。8年後の私からの手紙の内容を思い出し、綾はスッと目を伏せた。
「……やっぱりな」
 不意に、零さんが再度そう口にした。今の「やっぱり」は何に対してなのかは分からないが、零さんは視線を下げた綾の顎に手を添え、上向かせた。神妙な顔をしている綾とは反対に、零さんの表情は凪いでいる。
「覚えてなくても、君は君だよ」
 綾の葛藤なんて、全てお見通しなのかもしれない。まさに自身の悩みの種であるものを救い上げるような零さんの言葉に、綾は思わず泣きそうになった。どこまでも聡く、どこまでも優しい人だと思った。
「零さん、私……」
 貴方が好きです、と開きかけた口は音を紡ぐ事無く、消え入るように沈黙する。
零さんは少しだけ、綾の言葉の先を期待をしているようだった。綾の口から、自分への好意を示す言葉が溢れるのを待っている。そしてそれを綾が口にした瞬間、きっとこれまでの遠慮は無くなる。降谷零という、男になる。
「綾」
 さぁ白状しろと、零さんの手が背を滑った。

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