time and again

 全ては、彼の願いのための、私の意思である。

「綾、少し頼みたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
 仕事の合間で一時帰宅し、仮眠を取ろうとしていた零さんは、寝室に入る前に足を止めた。
「明日、どうしても君に話を聞きたいという人がいるんだ。俺の知り合いで、まだ若い探偵なんだけど、会ってくれないか?」
「探偵……?」
 探偵が私に話を聞きたいとはどういうことだろう。まるで心当たりがなく、綾が首を傾げると、零さんは簡単に説明してくれた。
「なんでも、彼の調査している事件にまつわる物品に、君が昔書いたレポートが関係しているらしい」
「えっ……レポートですか?」
「詳しくは俺も知らないが、君に会っていろいろ聞きたいことがあるらしい。協力してくれないか?」
「それは大丈夫ですけど……」
 探偵というワードを耳にして、なんとなく頭に思い浮かぶのは、かの有名な小説に登場するイギリスの名探偵である。映画やドラマになっていたりする事から主に殺人事件を解明するイメージがあるが、現実の探偵と言うものはわりと地味な仕事が多い。
「助かる。明日の昼二時に喫茶ポアロに行って貰えるか?」
「分かりました」
 零さんから待ち合わせについてのメモを受け取り、綾はそれに目を落とす。メモには、待ち合わせ場所と時間、そして探偵の名前がしなやかな筆跡で書かれていた。
「工藤新一という男で、以前の君も会った事がある顔見知りだ。若くて驚くかもしれないが、一流の探偵だよ」
 何でも人よりできる零さんがそう言うくらいなのだから、きっと相当優秀な人なのだろう。同時に信頼を置いているという事も分かり、綾は別の意味でもその探偵に興味を持った。彼が認める程の若い探偵とは、どんな人なのだろう。想像を膨らませつつ、綾は預かった夫のスーツをハンガーにかける。忙しく動き回ったのか、少し汗の臭いもするし、皺もうっすらとついている。一時間後には再び家を出て行く夫はこれを羽織っていくので、手入れをしようとブラシを手に取る。
「それじゃあ、一時間くらい寝るから」
「はーい、おやすみなさい」
 お疲れの夫をリビングから見送り、綾はスーツと対峙する。仕事柄、スーツをたくさん持っているからか、スーツの手入れ用品は家に豊富にある。まずはブラッシングをしようとスーツに触れてから、綾はふと気付く。そういえば、このスーツは8年後のこの世界に来てからはじめて会った零さんが着ていたものだ。あれからもう随分と時間が経ったように思うが、カレンダーを確認してみると二ヶ月も経過していなかった。しかし、もう随分前の話のように錯覚してしまう。そういえばあの時、フェンスの上から落ちそうになった私を、零さんが抱きとめて助けてくれたっけ。はじめて零さんに抱きしめられたんだよね……なんて浮ついた事を思い返し、なんとなくスーツにピタリと寄り添ってみる。あの時も抱きしめられてかなり動揺してしまったが、今同じ事をされたらある意味気絶してしまいそうだ。恋心というものは恐ろしい。その有無でこんなにも、考え方が変わってしまうのだから。
 数秒そうしていた後、己の行動の恥ずかしさに気付いて、綾はゆくりとスーツから身を剥がす。こんなところ見られでもしたら死んでしまう程の、まるで酔ったかのような行動である。あー恥ずかしい! なんて熱くなった頬を冷ますため、手でパタパタと顔に風を送る。気休めにしかならないのは分かっているが、こうでもしていないと羞恥でいたたまれない。そうして落ち着きが無くなり、なんとなく寝室の方に振り向くと、なんと入り口辺りに零さんが立っていた。一瞬見間違いかと思って二度見したが、そこにある景色は変わらない。仮眠を取っているはずじゃなかったのか。もしかしてさっきの奇行を見られたのかと、綾は噴火しそうな勢いで赤面し、硬直した。
「れ、いさん……なんで」
「いや……」
 顎に手を当て、零さんはこちらの眺めを楽しんでいるような顔でニコリと笑う。しかし彼の笑みの擬音は、どちらかと言うとニヤリのような気もした。
「可愛い事してる予感がしただけ、おやすみ」
 とんでもない勘の鋭さである。もはや勘という域を超越している何かではないだろうか。自身のスーツに身を寄せた後、見られていた事に気付いて真っ赤になっている綾を見て満足したのか、零さんは今度こそ寝室に引っ込んだ。零さんは予感がしたと言ったが、大概なんでも理詰めで分析し、先を導く人である。私の様子から、こんなことをしでかすと推理でもしていたのだろうか。いくら頭の回転が早いからと言って、こんなこと分かるものなのか。呆然としつつ、綾はぎゅっとブラシを握る。
 そういえば、映画で見たことのある名探偵も、頭がキレすぎて逆に不審に思ったことがある。推理したと言うより、そうなる未来が分かっていたのではないかと、綾が有りもしない事を疑ってしまう程に。

* * *


 翌日。
 例の探偵との待ち合わせ場所は、以前零さんに連れて行って貰った事のある喫茶店である。零さんとはじめて会った場所でもあるらしく、綾は意外な偶然に少し驚いた。今日会う探偵も、この店の常連らしい。待ち合わせより少し早い時間に来店すると、ドアベルの音に反応して一人の青年が顔を上げた。随分と若い、学生くらいの人だった。きっと本当の私と同い年くらいだ。
「お久しぶりです、綾さん」
 綾の顔を見るなりおもむろに立ち上がった彼が、零さんの言っていた知り合いの探偵のようである。「久しぶり」と言われるということは、綾も彼に会った事があるようだが、今の綾の記憶には彼の詳細が存在しない。とりあえず事情を話さなければ、と口を開きかけた時、探偵の彼は思い出したかのように「あっ」と声を上げた。
「あぁそうか。すみません、オレの事分からないですよね。自己紹介が遅れました、工藤新一と言います」
 どうやら綾の事情を知っているようだ。きっと零さんが話してくれたのだろう。
「こんにちは、降谷綾です」
  はじめまして、と言いかけそうになるのをなんとか抑え、綾は今の自分の名前を名乗った。前程言い慣れないわけではないが、この名前を口にするのは未だにむず痒い。改めて、零さんと結婚しているのだと実感してしまう。
「私、以前あなたに会った事があるとは聞いたんですけど……」
「ええ。以前も何度か捜査協力して頂いたりして、お世話になっていました」
 申し訳なさそうに苦笑いを浮かべながら、工藤新一と名乗る青年は奥の方の席を指差す。「立ち話もなんですし……」とテーブル席に移動し、二人はそこに腰を落ち着ける。飲み物と軽いデザートを注文してから、早速本題に入る。
「実は綾さんに見て頂きたいものがあるんです」
 そう言って、工藤新一がカバンから取り出したのは、少し厚みのあるファイルだった。なんだろうと首を傾げた後、そのファイルの中から抜き出された白い紙束の表紙を確認し、目を見開く。
「これって……」
「綾さんが大学生時代、ある講義の課題で提出されたレポートです」
 レポートのタイトルにあまりにも既視感があり、綾は恐る恐る紙の束を手に取った。
 確か、8年後の世界に来る前に、書きかけていたレポートではなかったか。夜遅くまでレポートを作成し、あと少しでまとめられるな……という辺りで寝てしまい、次に目を覚ました時にはここにいた。8年前にいた最後の記憶を辿りながら、綾はレポートをペラペラとめくる。何故か三ページ目だけが無かったが、書きかけのはずのレポートはしっかりと完成していた。
「実はこのレポート……ダイイングメッセージに使用されたようなんです」
「ダイイングメッセージ!?」
 あまりに聞き慣れない言葉に、思わず大きめの声が出てしまった。慌てて口元を抑え、周りの様子を窺う。幸い店内には他に客がおらず、店長がカウンター奥で作業をしているだけで、こちらの発言に気付いた様子は無い。安堵し、綾はホッと息をつく。
「驚かれるのも無理はありません。実は今調査しているのは、殺人事件に関する事なんです」
「そんな、なんで私のレポートがそんなことに……」
「貴女の書いたレポートは、そこにあったからという理由で、本当にただ使われただけのようです。特に意図があったわけではないようなので、その辺りは安心してください」
 何故そうだと言い切れるのか、という事について、工藤君は簡単に説明してくれた。殺人事件の起きた場所の状況から、殺害された人の状況、容疑者に上がっている人達の事から、綾が事件自体に無関係であることを結論づけてくれた。事情の説明もあったのだとは思うが、彼は綾を不安にさせないようにと努めてくれた。少し話しただけだが、彼の『推理』という根拠を伴った話を聞き、零さんが彼を信用している理由がなんとなく分かった気がした。本当の私と同じくらいの歳のはずなのに、まるで同年代とは思えない程の頭の回転の速さと、知識量である。そうして綾が感心している間に、工藤君は次の話に移る。
「ここを見てください」
 言いながら、工藤君はレポートを指差す。綾が大学時代に書いたレポートの四ページ目、文章や図などが並ぶそのページに数カ所、小さな丸い跡が至る所についていた。
「恐らく、この前ページである三ページ目に書かれた文章のいくつかの文字に、被害者がボールペンで丸をつけたんだと思います。犯人はそれに気づき、三ページ目のレポートを処理した。犯人か犯行動機につながる、核心的な何かを示していたのでしょう」
 トントンと丸い跡のついたレポートを指で叩きつつ、顔を上げた工藤君の目は鋭くきらめいた。
「しかし、犯人はミスを犯した。その丸をつけられた次のページのレポートに、ボールペンの跡がついている事に気付かなかった。冷静に考えればきっと分かったことですが、焦っていたのでしょう」
「綾さん、このレポートのデータをまだお持ちではないですか? この四ページ目の跡と、三ページ目のレポートを重ね合わせれば、被害者が残したダイイングメッセージの内容が分かるはずなんです」
「どうでしょう……探してみないと、なんとも」
 大学で出されたレポートのような課題は、綾はパソコンの中に保存しているだけである。バックアップを取った記憶はない。恐らく大学時代に使っていたパソコンが残っていればデータも存在するだろうが、何せ八年前の話である。綾が愛用していたパソコンは今生活している家には無い。となれば、最後の希望は、あのパソコンが実家に残っているかもしれない事である。
「もしかしたら実家の方にデータがあるかもしれません」
「本当ですか!」
「かなり怪しいですけど……急いで探してみます」
「ありがとうございます、助かります」
 もし何かあればここに連絡を、と名刺を貰い、綾は早速この後の予定を立てる。きっと早い方がいいだろうから、今日はこの後電車に乗って実家に帰ろう。パソコンなんていう電子機器をそう簡単に捨てているとは思えないので、きっと実家にあるはずだ。念のためこの後確認の電話をかけよう。
「今日にでも確認してみるので、何か分かれば連絡しますね」
「すみません、お願いします」
 安堵した様子の工藤君は、一息つくかのようにコーヒーを一口飲んだ。そういえば話に集中していて、注文していたものに口をつけていなかった。綾もつられて、コーヒーカップを持ち上げ、傾ける。
「……実は犯人の目星はついているんです。今回のこれは確実な証拠として提示したくて……」
 そうして工藤君は、彼の「今の所」の推理を話してくれた。犯人がある人物だと仮定した場合の今後の流れ、その人物がどういう行動を起こすか、ダイイングメッセージが確実に証拠隠滅できていない事に気付くかについて、私に話してもいいのかと思える程に詳しい内容だった。途中で自分が話し過ぎた事に気付いたのか、慌てて「今のは他言無用でお願いします」と口止めされ、微笑ましくて笑ってしまった。あまりにも頭がキレるものだから同い年とは思えなかったが、こういうところは年相応のようだ。
「凄いね、工藤君……まるで未来を知ってるみたい」
 彼の推理から導き出される先の展開には、確かな説得力があった。まるで分かっていると言わんばかりの話を聞き、何気なくそう呟いただけの言葉だったが、工藤君は少し驚いたような表情で顔を上げた。
「……それは、綾さんの方じゃないですか?」
 ケーキにフォークを入れようとして、思わず工藤君と視線を合わせる。彼の目は真直ぐで、まるで冗談を言っているようには見えなかった。
「オレ、綾さんは未来から来たんだと思ってました」
「……え」
 どういう意味だろう。綾が困惑気味に静止すると、工藤君は再びカバンの中に手を入れ、何かを抜き出した。
「実は今日、綾さんにもう一つ要件があるんです。……お渡ししたいものがあります」
 そう言って、工藤君が差し出したのは、大きめの茶封筒だった。中に厚みのあるものが入っているのか、真ん中辺りが少しだけふくれている。一体何なのだろう、と尋ねるように工藤君の方を見ると、彼もなんとも言えない顔をしていた。
「貴女から依頼を受けて預かっていたものです」
「……え?」
「数ヶ月前に、これを一定期間預かってくれと貴女に頼まれました。そして期間が過ぎたら貴女に必ず届けて欲しいとも言われました。例え貴女に何があっても……その上での依頼だと」
 私がこの世界に来てから、工藤新一に会うのははじめてである。彼にそんな依頼をした記憶も当然ない。ということは、彼にこの封筒を預けたのは、8年後の私である。ドクリドクリと自身の鼓動がうるさくなっていくのを感じながら、綾は茶封筒の感触を確かめるように握る。
「……不思議ですね。数ヶ月前の貴女は、記憶を無くす今の状況が分かっていたようだ」
 工藤君も何やら言いたげな様子ではあったが、綾が動揺している事を配慮してか、深くは詮索してこなかった。

 工藤君と別れた後、綾は実家に電話をかけた。応答してくれた母に、大学時代に使っていたあのパソコンはどこにあるのか知っているかと尋ねると、あっさりと「家で今も使っている」という答えが返ってきた。それに安堵しつつ、これから実家に行く旨を伝えてから、近場の駅で電車に乗り込む。次の下車は二十分後であると確認し、綾は一息をつく。そうして心を落ち着けてから、先程工藤君から渡された茶封筒を取り出した。ここで開けるのはどうかと思ったが、確認しなければという意思が急く。一体中に何が入っているのだろう。確認するのが少しだけ恐ろしくもあったが、綾はなんとか茶封筒の口を開けた。
 中には一回り小さい封筒が二つ入っていた。そのうちの一つである茶色い膨らんだ封筒には、少し大きめのお守りが入っていた。少し不格好なそれは明らかに手製で、更に中に固い何かが入っているような感触がする。何が入っているのか気になったが、とりあえずお守りは後回しにした。次に白く薄い封筒を取り出した瞬間、綾は目を見開いた。
 封筒の中央。宛名の部分には『8年前の私へ』と書かれていた。

back  next