It rains

 昼頃、買い物に出かけた時の事だった。女性の短い悲鳴が聞こえたと思ったら、正面からいかにも怪しげな男が走って来た。地味な身なりのわりに、手に持っているピンクのバッグだけが異質で、綾はすぐにピンときた。きっとひったくりだ。彼の後方で呆気に取られている女性を視界に入れ、そう結論を出したが、だからと言って上手く対応できるはずもない。咄嗟に体が動いてしまい、ひったくり犯の前に躍り出たはいいが、綾は悲しいかな無力だった。

「……どうしたんだ、その怪我」
 帰宅した零さんを出迎え「ただいま」の次に言われたのがこれだった。指摘されるだろうとは思っていた。
「良く行くスーパーの辺りでひったくりがあったんです。そこに丁度居合わせて、思わず犯人の腕を掴んだんですけど、そのまま振り払われて転んじゃって……」
 苦笑いを浮かべると、零さんはなんとも言えぬ顔をして綾の頬に貼られた絆創膏付近に触れた。痛むだろうという配慮か、傷口を避けた箇所にかする程度に指を滑らせる。
「……勇敢だとは思うが、気をつけてくれ。無理だと思ったら、身を引くのもまた勇気だ。頼れるなら、誰かを頼れ」
「はーい」
「軽いな……反省の色が見えない」
 グニと怪我をしていない方の頬を柔く摘まれる。「いひゃいれす」と正直に言うと、零さんは「だろうな」と軽く笑い、玄関を上がった。
「私に、零さんくらいの腕力があれば良かったんですけど」
「今からそんな力がつくかは分からないけど、そうだな……護身用にいくらか教えようか」
「えっ、本当ですか?」
 そういえば、零さんはボクシングをやっていたのだと教えて貰った事がある。ボクシングの技の中でも、私にできる簡単なものを教えてくれるのかもしれない。そう期待してなんとなく身構え、シュッシュとジャブをしてみせると、零さんは「うーん」と微妙な顔をした。
「そうだな、例えば……」
 リビングまで歩き、上着を脱いだ零さんからそれを受け取ってから、綾は「例えばなんですか?」と尋ねる。私にもできるような護身術はどんなものだろう、と期待を込めて見上げると、零さんは顎に指をあてて思案するた。そして数秒くらいで、妙案を思いついたと口端を上げる。
「じゃあ、これはどうだ?」
 ちょいちょい、と零さんが寝室に手招きする。何だと疑問符を浮かべながらも寝室に向かおうとするが、寝室のドアを開け、ベッドの前に立った零さんは手を上げ、綾に静止するよう促す。寝室の入り口の少し手前に立ったまま、綾が首を傾げると、零さんは腰に手をあてる。
「そのまま、俺に殴りかかってみて」
「えっ……は?」
「大丈夫だから」
 さぁ来い、と言わんばかりの零さんに動揺しつつ、綾はとりあえず拳を握ってみる。私のパンチが零さんに到底届くとは思えないが、正直戸惑いは隠せない。本当にいいのだろうか、と視線で再度確認するが、零さんの様子は変わらない。それなら……と時間をかけて決心し、綾は足を踏み込む。人を殴った事が無いので殴り方というものが分からないが、過去に見た洋画で見た動きをうろ覚えで真似てみる。ついでに「覚悟っ!」とかけ声を口にしてみると、零さんは不意をつかれたらしく、ブハッと吹き出した。そうして軽く助走をつけて走り、意味も分からぬまま零さんに突っ込むと、零さんは私の腕を軽く掴んだ。そして私の助走の勢いを殺さないよう受け流し、くるりと背を向ける。「何だ」と思った瞬間、足が宙に浮いた。綾が声を漏らす間もなく、空中に足が放り出され、一回転してボスンと勢い良くベッドの上に落ちる。ベッドの上に仰向けに転がったまま、何が起こったのか分からず放心していると、見上げた先にいる零さんが、天井をバックにニコリと笑う。
「どう?」
「……凄かったです」
 何と言えばいいのか分からず、まるで小学生のようなコメントをしてしまった。体感した側の人間なので良く分からなかったが、恐らく背負い投げのようなものをされたのだろう。綺麗に体が宙を舞ったが、特に痛いところもない。零さんの技量のおかげだろう。
「これを教えてくれるんですか?」
「いや」
「……えっ?」
「こんな大袈裟な事をしなくても、効果的で手軽な護身術はたくさんある。そっちを先に覚えた方がいい」
「……じゃあ、何で今これやったんですか?」
「目標があった方が頑張れるだろ?」
「……」
 成る程。手軽な護身術をマスターした後、最終的にこの大技を教えてくれるらしい。地味な練習に飽きてしまう子供に、最終的にはこんな大技ができるのだと言って子供の気を釣る先生のような手法だ。うっかりその術中にはまっている事に気付き、綾は微妙な顔をする。恥ずかしいが、零さんは私の事を良く分かっている。
「子供扱いしてますよね」
「まさか」
 うっすら拗ねている事に気付いてか、零さんは機嫌をとるようにしゃがみ、ベッドに肘をついてから綾の顔を覗き込む。
「ひとりの女性として意識してるに決まってるじゃないか、奥さん」
 ニコリと綺麗な笑みでそう言われた。あまりにストレートな事を言われたものだから、気恥ずかしくなったが、この表情の零さんはただからかっているだけである。臭い口説き文句すら様になるこの人の冗談は、まるで冗談に聞こえない。そう簡単に彼の掌の上で転がされてなるものか、と綾が表情を引き締めようとした瞬間、零さんが少しだけ目を細めた。その目の奥に何かが揺らめいた気がして、綾は表情筋に力を入れるのを忘れてしまった。そして結局、ほんのり赤くなっているだろう頬を、悔しげにベッドに押し付けるだけに終わる。
「……私も、零さんみたいに投げ飛ばせるようになれますか?」
「頑張ればね。でも、そういう事態が起こらないのが一番だな」
 そう言って、零さんは私の顔にかかっていた前髪を払った。

* * *


 数日後。
 零さんと二人で買い出しに出かけた際に、雨に見舞われた。しとしとと降る程度のものだったが、店の出入り口で二人は足を止めた。
「来た時は降ってなかったのに……」
「確かに、ニュースで雨が降るとは言っていたな」
 ふむ、と頷いてから、零さんは買い物袋を持ち直した。財布の入ったカバンのみを持っていた綾も、駐車場に停めてある車まで走るのだと察した。カバンの口に手を置き、零さんと息を合わせて一緒に走る。雨に打たれながら小走りで駆ける途中、綾はふと視界の端に入ったものに気を取られた。薄暗い曇り空の下、駐車場に停めてある車の間を縫いながら歩く女性の背後に、傘もささずに歩いている男がいた。黒やグレーを基調とした地味な格好、パーカーのフードを被り、口元にはマスクと怪しい事この上ない。そしてその立ち姿にどこか見覚えがあり、綾は徐々に足を止める。
「綾?」
 異変に気付いた零さんも、綾から少し離れた場所で立ち止まる。
「あの人……この前ぶつかったひったくりと、同じ人かもしれない」
 綾がそう言えば、零さんはやや眉間に皺を寄せ、少し先を歩いている男女に視線を向ける。傘をさした女性の後をついて歩いている男の不審さに同意したのか、零さんは買い物袋を一旦綾に預ける。
「先に車に戻っていてくれ」
 さり気なく車のキーも綾に握らせ、零さんは二人が歩いているところへ向かって行く。もしかしたら私の勘違いかもしれない、間違っていたらどうしよう……なんてその場で綾が不安になった瞬間、不審な男は急に走り出し、傘をさしている女の人のカバンを奪った。言った傍の犯行である。地味な男が走り去り、その背に向かって「泥棒!」と女性が叫ぶ前に、零さんは走り出した。以前、零さんに追いかけられた事があるが、彼は本当に足が速い。雨の中だというのに、長い足を悠々と動かし、ひったくりとの距離を詰める。正直、あんな風に追いかけられたら恐ろしいと思う。しかし、これは零さんが呆気なく彼を捕まえてしまいそうだ。そうして妙な安心感を抱きつつ、車に戻る事を忘れてその場で様子を窺っていると、事態は予想外の方向に転んだ。まさに言葉通りと言うべきか、ひったくり犯が零さんに気付いた瞬間、水たまりで足を滑らせて華麗に転んだ。丁度その男を捕まえる瞬間だった零さんは、視界から目標が消えたものだから流石に驚いていた。走っていた勢いがあったせいで、転んだひったくりを追い越してしまった零さんも、咄嗟にブレーキをかける。しかし、このひったくり犯は悪運が強いというべきか、転んだはずが上手い具合に体勢を立て直し、零さんを振り切って別方向に逃走する。それを見た零さんの目つきは険しいもので、聞こえないはずの舌打が耳に届いた気がした。そうして走って来るひったくり犯は、今度は綾が立っている方へと向かって来る。何故こっちに。女と言えど、人間のいる方へ向かって来る理由が分からず固まった綾ではあるが、ここでハッと数日前の事を思い出す。
 そういえばこの前、零さんに簡単な護身術を教えて貰ったばかりだ。これはもしや、零さんに教えて貰った護身術を披露する時では無いか。そう思い至り、綾は買い物袋を一時的に地面に置き、身構える。相変らずひったくり犯はこちらに走って来ており、綾はゴクリと息を飲んで、夫の言っていた内容を思い出す。そんなに力を入れなくても良い、ただタイミングを合わせるだけで効果は絶大だ。そう言いながら手取り足取り指導してもらった技を、今ここでやらずにどうする。
 そうして気合いを入れた瞬間、数メートル先まで迫っていたひったくり犯が、ぐんと仰け反った。
「えっ」
 綾が思わず声を漏らすと同時に、ひったくり犯の背後に零さんの姿が確認できた。思い切りひったくりの服の首元を掴み、後方に引きずったかと思えば、そのまま無造作に地面に転がした。そのあまりの力技、そして雑さに絶句したが、鋭い眼差しを向ける零さんの気迫に何も言えず、構えた拳は行き場を失う。そして零さんは、すぐさまひったくり犯の腕をまとめあげる。
「くそ、なんだお前、この……!」
「先日は妻がお世話になったようで」
「いだだだだだ、ちょ、まっ……!」
 犯人の背辺りで腕を捻り上げる零さんの顔は一切笑っておらず、真顔でそれが一層迫力が増した。ヒッと悲鳴を上げたひったくりはそのまま抵抗するのをやめ、水浸しになっている駐車場のコンクリートに突っ伏し、大人しくなった。慌てて駆け寄ってはみたが、先程から降り続いた雨のせいで、零さんの髪は濡れ、長めの前髪が目元を隠している。
「……零さん?」
 彼は今どんな顔をしているのだろうかと、少しだけ怖くなった。
「言っただろ、頼れるなら頼れって」
 しかし、ハァとため息をついて顔をあげた零さんは、綾の良く知る彼だった。呆れた、と言わんばかりの表情を浮かべてはいるが、口調は優しい。
「危うく君に手を出させるところだった」
 護身術を教えてくれた当人が、使わせる気がないらしい。少しだけ呆気に取られた綾ではあったが、こういうところから彼の人柄を感じ取り、心の内で「あぁ」と息をつく。私に護身術を教えてくれたのは「万が一」や「非常事態」を想定した時のもので、その他では披露する必要がないのだ。……零さんが、守ってくれるから。
「……ずるいなぁ」
「何?」
 ポケットから携帯を取り出し、警察に連絡をしている夫は、雨に濡れても格好良い。彼の名前である『零』という字を現すがごとく、雨は未だ静かに降り続いている。
「助けてくれてありがとう、零さん」
「……当然だろ」
 おこがましくも、私も彼のために何かをしたいと思った。

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