now on air

 また、妙な夢を見た。一生懸命に手紙を書く夢。メッセージを書いては消し、書いてはぐちゃぐちゃに丸めてゴミ箱に放る。しかしたまにゴミ箱の手紙を拾い、ぐちゃぐちゃの紙を広げて唸る。一体何をしているのだろう。自分がやっている事なのに、まるで他人事のように手が動く。そして何度も何度も手紙を書き直し、最終的に出来上がったのは、数行だけのシンプルなメッセージだった。

「……あれ」
 心地の良いリビングのソファの上、昼寝を決め込んでいた綾は、壁にかかっている時計を確認して声を漏らした。時刻は夕方六時。昼寝と言うにはあまり適切ではない時間である。飛び起きた綾は、ベランダに干しっぱなしになっていた洗濯物を慌ててしまい込み、エプロンを身につけて夕飯の支度をする。今日は零さんが数日ぶりに帰宅するとあって、少し豪勢な夕食にしようと思っていたのに、思わぬ失態である。普段なら昼寝をしてもこんな時間まで寝こける事はなかったのに。先程見た夢のせいだろうか。
 冷蔵庫から野菜を取り出してから、慌ててお風呂の準備も整える。お湯が浴槽に流れ込む光景を眺めながら、夢の内容を思い出そうとしたが、恐ろしい程に記憶がない。目覚めたばかりの時はぼんやりと覚えていたはずなのに、お風呂の湯を張りはじめた時には既に思い出せない。ただ、何だか変な夢だったという事だけは分かる。なぜ、夢というものをこんなにあっさりと忘れてしまうのだろう。たまに何年経っても覚えている夢もあるが、それもごく僅かだ。
 ふぅと息をつき、綾はさっさと切り替えるように風呂場を後にする。本来なら手の込んだ夕飯なんて作ろうと思っていたが、零さんの帰宅予定時刻が近い。携帯を確認すれば、予定より早くに帰宅するという旨のメッセージも入っていた。これは間に合わないな……なんて諦めながら、綾はキッチンの前に立つ。まな板の上には人参、じゃがいも、たまねぎ、何にでも使える野菜達のオンステージである。もう今夜は簡単にカレーにしよう。そう思って野菜を洗い、ピーラーで皮を剥こうとした時、不意に腰辺りで結んでいたエプロンの紐がハラリと解かれた。
「えっ」
 明らかに誰かの手によるものである。この家には綾しか居ないのにおかしい。そう思って反射的に振り向くと、そこには何食わぬ顔の零さんが立っていた。
「ただいま」
 いい顔でニコリと笑いかけられたが、急に背後に立たれたものだから肝が冷えた。思わず飛び上がり「うわっ」と間抜けな声を漏らしてしまった。
「もう……何やってるんですか、零さん」
「ははは」
 笑いながら、零さんは先程解いた綾のエプロンの紐を結び直した。本当に何をやっているのか、ただ驚かせたかっただけらしい零さんは、スーツの上着を脱ぎながら綾の隣に立つ。予定よりも早い帰宅である。しかし、一体いつの間に帰ってきたのか、ドアの開く音にさえ気付かなかった。
「おかえりなさい。帰ってきたの全然気付かなかったなぁ」
「だろうな、気配を消してたから」
 ちょっかいをかけるのも全力らしい。家に帰ってきて気配を消すなんてあるだろうか……なんて呆れながらも、存外可愛らしいところに口元が緩んだ。まるで悪戯をする子供のようだが、この人は立派な成人男性である。背の高さも体つきも綾とは違うし、ずっとたくましい。現に今零さんは、悠々と綾の頭上からまな板の上を覗き込む。
「夕飯はこれから?」
「ええ。ちょっと時間がかかりそうだから、先にお風呂入っててください」
「いや、手伝う」
 出張から数日振りに帰ってきて疲れているというのに、零さんは夕飯の準備を手伝ってくれるらしい。ネクタイを解き、腕まくりをした零さんはフフンと鼻を鳴らしてから、キッチンカウンターの上に置いていた紙袋を持ち上げた。
「実はいいものがあるんだ」
 言いながら、零さんは紙袋から箱のようなものとワインを取り出した。何だろうと箱に書かれた文字を覗くと、有名な高級肉の名前がパッケージに記載されている。
「どうしたんですか、これ……」
「出張先で貰ったんだ。今夜はこれを使ったディナーにしよう」
 なんでもそのために急いで帰って来たらしい。ついでにこの肉に添えるものをと思って、スーパーにも寄って何やらいろいろ買い込んでいた。ただスーパーの袋はガサガサと音が鳴るので玄関の方に置いてあるようで、零さんは取りに戻って行った。先程気配を消して綾を驚かせるためだけに背後に立っていた彼の周到さには、ある意味感心してしまう。一体どの段階で綾を驚かせようと思いついたのかは定かでないが、少なくとも玄関前に立った瞬間以降だとは分かった。ガサガサと音を鳴らしながら戻って来た零さんは、大きく膨らんだ買い物袋を一つ下げている。仕事帰りだというのに、そうとは思えないくらいに足取りが軽い。
「ご機嫌ですね」
「分かるか?」
「零さん見てたら分かりますよ。何か良い事ありました?」
「実は滞っていた案件が一気に片付いたんだ」
 しまっていたエプロンを取り出して渡すと、零さんは慣れたように首紐をひっかけ、腰に腕を回して紐を結ぶ。「これで一息つける」と肩の荷が下りた様子で、パカリと肉の箱を開けた。中には赤い肉の塊が入っており、綾は思わず「おお〜!」と歓声を上げる。高級なお肉なんて滅多に食べられないものだから、そわそわとしてしまう。

「お肉どうします?」
「ローストビーフにしようと思う。実は前から試してみたかった手法があるんだ、手伝ってくれるか?」
「もちろん」

 そうと決まれば話は早いと、二人でローストビーフと副菜達の調理に取りかかる。正直、料理の腕は綾よりも零さんの方が断然に上手い。家にずっといるという事で家事全般をこなしている綾ではあるが、自分が作った夕飯を食べる零さんを見ると少なからず緊張する。口に合わなかったらどうしよう……なんて最初のうちは怯えてすらいたが、零さんはパクパクと綾の作ったご飯を食べてくれる。そして「今日の煮物はよく味が沁みてておいしい」だとか「味噌汁の味付けが好み」などと言葉をくれるのだ。それがまたお世辞ではなく、本当に思った事を口にしていると分かるものだから、綾もたまらなくなる。料理は壊滅的に下手なわけではなく、人並みであるとは思っている。しかし、こうして零さんに褒めてもらえるのは舞い上がる程に嬉しい。そうして有頂天になった綾の感情の矛先は零さんに向き、その思いが手作りの料理にどんどん注ぎ込まれるのだ。「特にこれは美味しそうで勿体なくて食べられない」なんて笑いながら、ハートの形に切られた人参をつまみあげられた時は恥ずかしかったが、零さんも少しだけ照れ臭そうだった。
「俺の留守中、何か変わった事はあった?」
「いえ、特には……」
 零さんの指示のもと野菜を洗いながら、綾はふと今朝見た夢の事を思い出した。取るに足らない、ただの夢を見ただけのことではあるが、それでも綾の中ではずっと引っかかりを覚えている事だった。
「大した事ではないんですけど……変な夢を見るんです」
「夢?」
「内容はあまり覚えてないんですけど……私が必死に何かをしている夢」
 ボウルに張った水に写る自分が視界に入り、綾はやや目を細める。八年後の世界に来た当初、歳を取った自分の顔にはなかなか慣れなかった。自分だと認識していた顔から少し大人びて、前よりは綺麗になっていて嬉しくはあったが、まるで自分で無いようでもあった。
「……記憶障害に関係あるのかもしれないな。病院には?」
「定期検診で行きましたけど、特に何も」
「そうか……」
 零さんの声色は、微かに残念そうだった。零さんは口にしないが、私が記憶を取り戻す事を期待している。私が8年後の世界に来てから、数度だけ「過去から来た」と言った事があるが、やはり零さんは半信半疑らしい。話を聞いてもらえただけありがたいが、タイムスリップしましたなんて話を信じる方が無理がある。それは重々分かっているのに、受け入れて貰えないのは少しだけ辛い。
 私には、取り戻す記憶が無い。彼の期待には、どうあがいても応えられない。私は本当の意味で、零さんが好きになった『糸見綾』では無いのだ。零さんの妻という立場にあるのに、まるで片思いをしているみたいだ。
「綾」
 名前を呼ばれ、ハッと顔を上げると口元に何かが寄せられた。何かと思えば、先程開封したばかりの肉の切れ端を、零さんが箸で摘んで綾に食べるよう勧めていた。先程からじゅうじゅう、とフライパンを熱する音がするなと思っていたが、どうやらこの小さい肉片を焼いていたらしい。
「メインディッシュ完成まで時間がかかるから、ちょっとつまみ食い」
 ほら、と肉を更に口元に寄せられ、綾はおずおずとそれを口に入れた。焼きたてで少しだけ熱かったが、舌の上で溶けるようなその肉の味に、綾は思わず背筋を伸ばした。
「……おいしい」
「だろう?」
 これからもっと美味しくしていくから、と言いながら、降谷零先生によるお料理教室がはじまった。

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