rival in love

 日曜日。知り合いだと言う神山さんに貰ったイベントのチラシを片手に、綾は洋菓子店に赴いていた。休日のイベントという事もあり先週よりも客足が多く、店内にもバルコニーにも人の姿が多い。席につくまでそれなりに時間がかかってしまったが、綾もなんとか腰を落ち着ける事ができた。
 当初、零さんも時間が取れると言うので一緒に来る予定だったのだが、今朝どうしても外せない要件が入ってしまった。少しだけ神山さんの事を気にしていたようだったから、零さんもなんとも言えない顔をしたが、即決して仕事に向かって行った。零さんの様子を見てから、正直今日ここに来るのは悩んだが、零さんは「行って来たらいい」と口にした。恐らく、記憶のない綾が過去を知りたがっているという気持ちを汲んでくれたのだろう。「お土産よろしく」なんて言葉を付けたし、綾が気を遣わないようにフォローまでしてくれた。本当に、私には勿体ない素敵な旦那様だと心底思う。
 そうして背を押されるまま、綾は洋菓子店にやって来た次第である。ここで何かを食べて帰るつもりではあるが、それよりも先に零さんのお土産はどうしようかと悩み始める。どれも美味しそうだな……とイベント用のメニューを眺めていると、声をかけられた。
「いらっしゃいませ、綾さん」
 聞き覚えのある声に顔を上げれば、綾の席の傍に神山さんが立っていた。この前見た時は厨房でケーキを作っていたが、今日は接客をしているらしい。
「こんにちは、神山さん」
「ご来店ありがとうございます。今日は楽しんで行ってください」
 とりあえず飲み物はどうしますか? と尋ねられたので、綾はドリンクメニューに視線を落とし、紅茶を頼んだ。
「今日は厨房にいなくてもいいんですね」
「ええ。今日のようなイベントの時は作ってる側の人間があえて接客をして、お客様の意見を聞くようにしているんですよ。僕たちもこうして自由に歩けるので、ちょっとくらい話をしたって問題はありません」
「成る程……」
「それに、綾さんにおすすめを食べて貰いたかったので」
 そうして神山さんは、イベント用のメニューに書かれたケーキについて、ひとつひとつ簡単に説明してくれた。なんでも今回のイベントで食べられるケーキのサイズは小さくて多種多様。値段も手頃で、さまざまなケーキを堪能できるようである。なんでも全て新作らしく、一番人気のあったケーキを定番商品にするため、後でアンケートに答えて貰いたいとお願いされた。説明を聞きながら小さなケーキを何種か選びつつ、綾は雑談を交える。
「そういえば、私達って昔、喫茶店で良くお話ししてたんですよね?」
「えぇ」
 注文票から顔を上げた神山さんは、綾と出会った経緯を教えてくれた。数年前、近場にある喫茶店のケーキが美味しいという評判を耳にし、敵情視察を兼ねてその店に赴き、そこで綾に会ったのだという。お客さんがいっぱいで、やむを得ず相席になった時に雑談をしてから、仲良くなったらしい。
「綾さんはその喫茶店の常連だったみたいなので『このお店で何が一番好きですか?』って僕が聞いたんですよ。そうしたら……」
「?」
「その店で働いている、ある従業員が一番好き、って言ったんです」
 クスクスと笑う神山さんの言葉を聞き、綾は口につけていた紅茶を吹き出しそうになった。どんな話の流れなのか詳しく分からないが「喫茶店で何が一番好きか」と聞かれてそう答えるものだろうか。もしそれが事実でも、口に出して言う事ではない。本音を漏らすにしても大概だ。数年前……いや、数年後の自分の正気を疑いながら、綾は恥ずかしくなって咳払いをする。神山さんの生温かな眼差しが、余計に居心地の悪さを助長させる。
「本当ですか? それ……」
「ええ。確かに、その時期にとてもカッコイイ男性がバイトをしていたんですよ。女子高生達にも人気で、女性客も彼の影響で増えたのだと、他の従業員の女の子が言っていたくらいに」
 恥ずかしそうにしている綾にフォローを入れてくれたのだろうが、やはり落ち着かないのは変わりない。なんとか気を紛らわせようと、グラスを両手で無意味に握る。
「綾さんの発言にはちょっと驚きましたけど、素直な人なんだなと思って……。綾さんに聞いたら、いろいろな事を本音で教えてくれそうだなぁと思ったから、その店で好きなデザートとかを聞いたりして、店の参考にさせて貰ったりしていました」
「へぇ〜……」
 知りたかったような、知りたくなかったような、複雑な心境である。自分の記憶にない8年の間の出来事を、ほんの一部でも教えて貰えたらと思ってここに来た事もあったのだが、まさかそんな恥ずかしい情報を教えられるとは思わなかった。
「まぁ、その人気のあった彼も、途中で店を辞めてしまったんですけど。それから僕も海外に行っていて、つい一ヶ月前に日本に戻って来たんです。それで綾さんに会えたらいいな……と思って喫茶店に行こうと思ってたんですけど、まさか先にここで会えるとは思いませんでした」
 肩を竦めて優しく笑いかけてくれた神山さんは、そこでふと、少しだけ表情を変えた。
「あの……失礼な事をお聞きするんですけど、綾さんって、その……ご結婚は……?」
 神山さんの視線が、綾の左手に落ちる。机の上に置かれた綾の左手の指には、装飾品は何一つ無い。それを見ての質問なのだろう。彼が何故それを聞いてきたのかについては特に深く考えもしなかった綾ではあるが、こことでふと結婚指輪の所在について気になった。零さんが指輪をつけていたところを一度見たことがあるが、そういえば私の指輪はどこにあるのだろう。ここに来てから見た記憶がないなぁ……なんて考えながら、綾は席の傍に立っている神山さんを見上げた。
「去年、結婚したばかりなんです……と言っても、記憶には無かったんですけど」
「あ……そうですか……」
 去年結婚したのは事実だが、その時の事は全く記憶にない。情報として教えて貰った事を口にしただけなのだが、なんだか自分でも不思議な感じだ。ぼんやりと、自身の左手の薬指に視線を落とす。今の私はこの指に誓いの指輪を嵌めた事は無いが、少し前まではここに綺麗な輪が収まっていたのだろう。きっと零さんが身につけていたものと揃いのデザインの、シンプルな銀色だ。なんとなく脳内で指輪をイメージし、それを自身の薬指に収めてみてから、自然と口元が緩んだ。家に帰ったら探してみよう。きっと私の事だから、引き出しか何かに大事にしまっているはずだ。そんな事を考えながら、綾は先週、苺のケーキを黙々と食べていた夫の事も思い出した。食べながら、何故か悔しげに「美味しい」と正直な感想を漏らす零さんは、なんだか可笑しかった。
「この前、れ……主人と一緒にケーキを食べたんですけど、とても美味しかったです。主人も絶賛していました」
「それは良かった……ハハハ」
 急にぎこちなくなった神山さんをよそに、綾はお冷やに口をつけた。温かい店内にいるせいか、水の冷たさが喉から体に巡っていくようだ。
「あっ、長話をしてしまってすみません。すぐ紅茶とケーキ持ってきますね」
「いえ、話を振ったのは私なので……」
 我に返り、少しだけ慌てた様子の神山さんが店の奥に戻ろうとしたタイミングで、店のドアベルがチリリと鳴った。どうやらお客さんが来店したらしい。丁度人の入りが落ち着いたタイミングだった事から、カツリという靴音が妙に響いた。それに反応した神山さんは、明るい表情で「いらっしゃいませ」と言いかけ、固まった。
 なんだろう。そう思ってつられて顔を上げた綾も、入り口に立っている人物を認めて目を見開いた。
「あっ、安室さん!?」
「……お久しぶりです」
 入り口に立っていたのは、今仕事中のはずの零さんだった。何故ここにいるのだろう。当然の疑問を抱えつつ、綾は「安室さん」と口にした神山を見た。神山さんは、店内に入って来た零さんを見て相当驚いているようだった。そしてどうやら零さんと神山さんは顔見知りのようだが、神山さんは偽名を名乗っている相手らしい。深くは聞いていないし、詮索はしていないが、零さんが何か事情があって偽名を使っているのは教えて貰った。しかし、こうして偽名を使う相手に会うのは初めてである。普段以上に穏やかな様子の零さんはスタスタと歩き、綾の席の隣に立った。零さん、と零しそうになった綾ではあったが、彼が今「安室」という男である事をすぐに思い出し、彼の名前を呼ぼうとした。しかし、咄嗟に「安室」の下の名前が出て来ず、別の呼び名を口にした。
「アナタ、どうしてここに……」
「仕事が一旦片付いたんだ。それでここに来る時間が取れてね」
 ポカンとしている綾を見下ろし、フッと笑った零さんは、注文票を持って唖然としている神山さんに視線を向けた。
「このお店で働かれてたんですね、知りませんでした」
「……ええ」
 かなり驚いている様子の神山さんは、零さんを頭からつま先までじっくり確認した後、私の方に視線を向けた。そうして私達を呆然と見比べた後、神山さんは「呆れた」と言いたげな表情で苦笑いを浮かべ、零さんの方を見た。
「……なんだ、やっぱり安室さんもそうだったんじゃないですか」
 どういう意味だろう。綾が首を傾げているのをよそに、零さんは少しだけ困ったような雰囲気で、穏やかに笑った。それを見た神山さんは、ハァ〜……とため息をついた後、零さんに向かって「ご注文は?」と口にした。それに対して、ホットコーヒーを注文した零さんは、そのまま当たり前のように綾の対面の席に座った。注文を受けた神山さんは、そのまま店の奥の方に戻って行った。零さんと神山さん、二人がどういう関係かは分からないが、二人の意味深なやり取りの詳細が気にならないはずがない。そう思って口を開きかけた綾ではあったが、それよりも先に、別の事を聞く必要があった。
「あの……安室さんの下の名前って何でしたっけ」
 コソコソと話しかけると、少しだけ構えていたらしい零さんは静止した。綾の第一声がこんな内容だと予想していなかったようで、零さんは拍子抜けしたように「え?」と声を零した。
「……酷いな、夫の名前を忘れるなんて」
「ご、ごめんなさい……普段から呼び慣れていなくて……」
「いっそ、さっきみたいに『アナタ』でいいよ。以前の君も、そう呼んでたし」
「そうなんですか……?」
 確かに、アナタという呼び方にしておいた方が、咄嗟の時にはいいかもしれない。夫の名前を知らない妻なんて、不審なことこの上ない。それに8年後の私がそう呼んでいたというのなら、尚更だ。
「アナタ……」
 無意味に呼んでみると、零さんは少し驚いたような様子でこちらを見た。目をパチパチと瞬かせている零さんの違和感しか感じられない反応に、綾は珍しく勘付く。
「……本当に以前の私は『アナタ』って呼んでたんですか?」
 呼ばれ慣れているわりには、反応がおかしい。そう思ってじとりと見上げると、零さんは何の悪びれもなくテーブルに頬杖をついた。
「いや?」
「もう、やっぱり嘘じゃないですか……」
「ははは、ごめんって。なんだか新鮮でさ」
 カラカラと笑いながら、零さんはさり気なくメニューを確認する。何かケーキを食べるらしい。それなら先程神山さんに注文すれば良かったのに……と思いながら、綾はようやく気になる事を尋ねた。
「そういえば、神山さんと知り合いだったんですね」
「まぁね」
「どういうお知り合いなんですか?」
「……あぁ、まぁ」
 手元のメニューに視線を落とし、零さんはフッと息を抜くように笑った。
「ライバルかな」
「えっ」
「昔の話だけど」
 あの穏やかな神山さんと零さんがライバルとはどういう事なのだろう。一体何で争っていたのか尋ねると、零さんはクスクスと笑いながら「内緒」と唇に指を当てた。

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