piece of cake

 用を済ませ、自由時間に日課である散歩に繰り出した綾は、前から気になっていた洋菓子店の前で足を止めた。この辺りでは有名で、特に女性客が多く集まる人気店である。しかし今日は珍しい事に、バルコニーに設置された席には数人の客がいるだけである。たまたま人が少ない時間帯なのだろうかと疑問に思いつつ、綾は肩にかけていたバッグをかけ直す。今夜は零さんも早く帰れると言っていたし、お土産に買って帰ろうか。そう思って店のガラス戸を押すと、来客を知らせるベルがチリリと鳴った。
 「いらっしゃいませ」という女性店員さんの落ち着いた声に迎えられ、綾は店内に置かれた手作りクッキーやマドレーヌなどの小さいお菓子を眺めてから、ケーキの並んだショーケースの前に立った。やはり今日はお客さんの入りが少ないのか、未だたくさんのケーキが並んだままだった。
 どれがいいだろう。顎に手を当て、果物がたくさん乗ったケーキやシンプルなチーズケーキなどを吟味していると、ショーケースの向こう側、厨房から一人のパティシエが出て来た。会計の前で待機していた女性店員に用があったようで、何やら話しかけた後厨房に戻ろうとして、ふと足を止めた。
「綾さん……?」
「……はい?」
 ショーケースの中のケーキを覗いていた綾は、不意にかけられた声に顔を上げた。綾の名前を呼んだのは、厨房から出て来たパティシエだった。短い黒髪の、穏やかそうな印象を抱く彼は、厨房に戻るのをやめ、スタスタとショーケースの方に寄って来た。
「お久しぶりです、僕の事覚えてますか?」
「あ……いや、その」
 彼の事が全く記憶にない。これは恐らく、この8年間の間で知り合った人なのだろう。必要以上に他言すべきではないと零さんに言われてはいるが、目の前に立つ穏やかそうな人からは悪意のようなものは感じられない。本当にただの知り合いなのだろうと判断し、綾はゆるりと口を開いた。
「ごめんなさい、実は私……ここ数年の事を覚えていないんです」
「……えっ」
 パティシエの彼が驚くのも無理は無い。久しぶりに会った知り合いに「記憶喪失なんです」なんて言われたら、綾だって驚く。経緯は良く分かっていないが記憶が無い、とだけ伝えると、彼は「はぁ……」と驚きに満ちた目で、じっと綾を見ていた。そんな彼と目を合わせる事数秒、彼は慌てて視線を逸らし、咳払いをした。彼は「はじめまして」と言い改め、名前を教えてくれた。神山さんと言うらしい。
「私と神山さんは知り合いなんですよね?」
「はい、以前に行きつけの喫茶店で何度もお話した事が……」
「そうなんですか? あの、良ければ貴方の事を教えて貰えませんか。私、何も分からなくて……」
「ええ、勿論! ……あ」
 ショーケースに腕を置き乗り出していた彼は、会計カウンターからの視線に気付いて固まった。女性店員からのもの言いたげな視線を受け、気まずそうに苦笑いをする。それを見て綾も、彼が仕事中である事を思い出した。
「ごめんなさい、お仕事中に」
「いえ、こちらこそ申し訳ない」
 女性店員の様子をコソコソと窺いつつ、神山さんはショーケースの上に置かれたチラシに気付いて、パッと表情を明るくした。そして何か思いついたとばかりにチラシを抜き出し、それを綾に差し出した。
「実は、来週の日曜日にちょっとしたイベントがあるんですよ。そこでならいろいろお話できるかもしれません。もし良ければ、いらしてください」
 渡されたチラシには、開店五周年記念と大きく見出しが書かれており、その下には季節の果物フェアと記載されている。今の時期に美味しい果物ばかりを集めたケーキ展といったところだろうか。チラシを眺めながら来週の日曜日に予定が入っていない事を確認し、綾は「行けそうです」と頷いた。折角誘って貰ったんだし、断る理由もない。良い返事を貰った神山さんは、控えめではあるものの嬉しそうに笑った。そうして「お待ちしております」と言い残し、神山さんは慌てて厨房の方に戻って行った。やはり仕事が詰まっていたようである。それを見送り、綾はチラシをカバンにしまってから再びケーキの吟味を始めた。来週もここのケーキを買って帰る事になりそうだから、気になるケーキをいくつか選択し、残りは来週の楽しみにとっておく事にした。

* * *


「……ケーキか」
「今日お店で見かけて、つい。零さんどれがいいですか?」
「そうだな……」
 今朝言った通り、早めの時間に帰宅した零さんは、夕食を済ませた後の風呂上がりに冷蔵庫を開けた。Tシャツにスウェットとラフな格好をしているが、元の素材がいいので様になって見える。見た目が良いって得だな……なんて考えながら、綾の手は泡のついたスポンジを握る。冷蔵庫を開けたまま、ケーキの箱の中身をじっと見ていた零さんは、数秒悩んでから答えを出した。
「苺にする」
「……ふふ」
「何だよ」
「だって……零さんの口から『苺にする』なんて……可愛い言葉が出るなんて思いませんでした」
「じゃあどう言えばいいんだ……」 
 ジトリとした目で綾を見つつ、零さんは冷蔵庫の中から冷やしていたビールを抜き出した。今日飲むという事は、明日の出勤には余裕があるようだ。
「そういえば、今日知り合いに会ったんですよ」
「知り合い?」
「ええ、私の記憶には無かったんですけど」
「……へぇ、誰?」
「神山さんって人です。以前何度か話した事があるらしくって」
「……神山?」
 ピタリと、一瞬零さんの動きが止まった。しかし、同時に缶ビールの蓋をプシッと開けたため、綾は声色の変化に気付かなかった。
「ケーキ屋さんで働いてる方なんですけど……」
 ご飯をよそっていたお茶碗に泡を纏わせながら、今日あった事、来週あるケーキ屋のイベントの事を話した。来週もケーキを買ってきてもいいかと、一応確認を取ろうと思っての事だったが、零さんは缶ビール片手に綾の隣に立ち、キッチンのシンクに背を預けた。
「その人って……」
「はい?」
「男?」
 ビールに口をつけながら、零さんは真直ぐ正面を向いたままそう言った。零さんの質問に対する答えはイエスである。しかし、綾はそれよりも別の事に気を取られ、思わず夫を凝視してしまった。
「……」
「……何?」
 もしかして、やきもちだろうか。この人がそんな可愛い感情を飼いならしているとは思えないが、神山という人物の性別を気にしているのは明らかだった。零さんは缶ビール持った右手を軽く振り、視線だけをこちらに向ける。
「零さん、私のケーキ半分いります?」
「は? ……いや、そんなに食べられないからいい」
 少しだけ嬉しかったので、零さんの腕に軽く肩をぶつけた。

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