heartstrings

「……無いなぁ」
 零さんが出勤した後家事を済ませた綾は、自身の部屋を漁り回っていた。退院してこの家にはじめて入った時、零さんに「ここが君の部屋だ」と言われた時は適当に物色した程度だった。しかし今回は引き出しや棚、ベッドの下など、さながら大掃除をするかのようにひっくり返している。たくさん出てきたノートや本を一冊ずつチェックしただけでほぼ一日が終わってしまい、綾は一息つくため椅子に座った。
 8年後の私は、私が未来の世界に行く事を知っていた……いや、覚えていた。それなら、今の私がこの世界で何を思っているかなんて良く分かっているはずだ。ならば未来の私は、困惑している8年前の私に何か「メッセージ」のようなものを残すのではないか。未来の世界でどういうことがあり、どういう経緯で元の世界に帰る事ができたのか、ここで知る事ができれば私も安心できる。そう思って部屋中を探してみたが、それらしいものは何も見つからない。もしかして未来の私は、この奇妙な出来事に対してなんの対策もしていなかったのだろうか。そんな馬鹿な。
「……何か残しておいてよ、私」
 綾のぼやきは、室内にポツリ消えた。ここに来てもう随分と時間が経つ。夢にしてはあまりにも長過ぎるが、現実として受け止めるには少々難しい状況だ。しかし、順応というのは恐ろしい。ここでの生活にも慣れてしまい、居心地の良さすら感じている程である。そして、夫である零さんと過ごしているうちに、元の時代に戻りたく無いと思い始めている自分もいる。
 零さんは仕事が忙しく、家にいる時間は少ない。綾が家でひとり留守番をしている事が多く、寂しくはあるものの、自由に過ごす事ができる。そして仕事から帰って来た零さんを出迎え、そこからの夫婦の時間というのは、ひどく優しい。基本的に疲労感たっぷりで帰ってくる零さんは、帰宅して食事とお風呂を済ませると寝てしまう事がほとんどである。しかしその合間で、意外にも甘えてくる事が多い。甘えると言っても寄りかかってきたり、綾の頭をわしゃわしゃ撫でてみたりと、軽いスキンシップ程度である。それでも初めて会った頃に比べれば、随分と距離が縮まったように思う。零さんも、綾が記憶がないということで遠慮をしていたのだろうが、最近ではそれもだんだん少なくなってきている。夫婦なのに、まるで仲が進展していく恋人同士のようだ。
 ぼんやりと零さんの事を考えていると、自然と口元が緩む。確かに長い時間一緒にいることはできないが、彼のような素敵な人と結婚できて良かったと思う。家に帰ってきてから就寝するまでの数時間でも、彼と話をしていると心が温かくなる。存外喋る事が好きなようで、彼の口からは話題が尽きない。それに知識も豊富で、ニュース番組なんかを見て私が首を傾げていると、分かりやすく解説してくれるのだ。格好良くて、頭も良くて、話も面白くて、そしてたまに意地悪な彼の妻だなんて、勿体ない話だと心底思う。
 ここに来て初めて零さんに会った日、彼は「もう一度俺のことを好きになってくれ」と言った。すでにあの時、あの言葉を聞いた瞬間から傾いていたのに、今となっては傾くどころか沈みきっている。零さんが好きだ。彼と一緒にいるだけで、少し触れ合っただけでドキドキする。基本的に優しい彼も、たまに素の荒っぽさが垣間見える彼も愛しい。……なんて、何を考えているんだろう、私は。
 カァー……と赤くなりながら座っている椅子をガタガタ鳴らし、一人羞恥に悶える。何を改めて相手への好意を意識しているのだろう。仄かに熱くなった体を冷まそうと、綾は勢い良く椅子から立ち上がり、先程棚から引っぱり出した書籍を戻していく。一部確認していないものもあるが、そろそろ夕飯の準備をしなければいけない時間である。正確な時間は分からないが、零さんは今日帰って来ると言っていた。これだけ散らかし回っているところを見られたら、何をしているのか聞かれるに決まっている。まさか8年後の私からの手紙でもないか探していました、なんて言える訳も無い。ただ興味があったから漁っていました……と答えてもいいが、零さんは頭が切れる故に鋭い。綾の嘘なんて簡単に見透かしてしまうところがあり、油断ならないのだ。
 とりあえず本の類いをしまい、綾はふと顔を上げる。視線の先には壁面収納型の大きなクローゼットがあり、まだ中を調べていないことを思い出した。一番に探し物をしていてもおかしくない大物なのに、何故これの存在を忘れていたのだろう。後で調べようと思っていたせいか、頭から綺麗に抜け落ちてしまっていた。夕飯を作らなければいけないが、零さんもいつ帰ってくるか分からない。少しくらい大丈夫だろうと、綾は大きなクローゼットを開けた。
 当然だが、中にはたくさんの服や小物類、所謂綾のファッション関連の品々が入っていた。半透明の引き出しも二個入れられており、外側には丁寧に「冬物」「夏物」などとと書かれたシールが貼られている。綾が普段着ない衣類関係は、どうやら全てここに収められているらしい。なんとなく服を触り、どんなものがあるのか確認する。ほとんどが綾の見覚えのないものではあったが、いくつか今の自分が良く知る服もあった。8年経っても着続けているらしい服達は、ほとんどお気に入りのものである。少し縒れていたりはするが、それでも八年後の私は大事にしているらしかった。
 他に何があるだろう。そう思って次々と自身の服を確認していく。服以外にもカバンや靴なども仕舞われており、試しに靴を履いて遊んでみる。自身の記憶にない小物なのに、これらが全て自分のものだというのだから不思議だ。季節毎に並んだ羽織りものを抜けた先、クローゼットの端の方には、よそ行きのキチンとしたワンピースがかけられていた。恐らく冠婚葬祭用のものだろう。普段着に比べ、品のいいそれらを眺めていると、その先に予想外のものを見つけた。
 他のドレスに比べてしっかりとしたカバーに入っている、大きなもの。クローゼットの下の方にまで伸びた純白のドレスを確認し、綾は動きを止めた。透明なカバー越しにも、中に入っているドレスが繊細なレースがあしらわれた、品の良いものだと分かる。数あるワンピースをかき分け、綾はクローゼットの中に入り込み、至近距離でドレスを確認する。これは所謂、ウェディングドレスというものではないだろうか。ほぅ、と息をついてから、綾はじっと白いドレスを凝視する。零さんと結婚した時に着たものだろう。ドレスをレンタルするのではなく、購入して仕舞っている事は予想外である。間近でウェディングドレスを見た事が無かったものだから、綾はそわそわとそれを眺める。これを着て零さんの隣に並んだのだろうか。という事は零さんだってタキシードなんかを着ていたのだろうか。何を着ても様になる人だが、タキシードなんてキッチリとした服なんてとても似合いそうだ。想像を巡らせ、一人勝手に盛り上がり始めた綾は、ウェディングドレスの奥にもう一着何かがある事に気付いた。なんだろう、と好奇心で足を踏み出した瞬間、足をクローゼットのドアにぶつけた。視界が悪かったせいで足の踏み場を上手く把握できなかったこともあるが、ぶつけた衝撃でクローゼットのドアが動き、上手い事閉まってしまった。途端暗闇に包まれ、綾は「あっ」と間抜けな声を漏らす。そしてタイミングの悪い事に、玄関の方から「ただいま」という声が聞こえた。
「……綾?」
 いつもはすぐに出迎える綾が現れなかったためか、零さんの確認するような声が聞こえる。夫の予想外に早い帰宅に慌て、なんとかクローゼットから脱出しようとした綾ではあったが、暗闇に目が慣れずに上手くいかない。ガタガタと物音を立ててドアを押すが、ドアを開けるために力を入れるべき場所が分からず脱出できない。どうしよう……と途方にくれていると、部屋の入り口辺りで足音が止まった。物音がして不審に思った零さんが、そこに居るのだろう。どうしてクローゼットの中に居るのか、と指摘されたら苦しいが、この状況ではそうも言ってはいられない。とりあえず助けを求めるようにトントンとクローゼットのドアを叩くと、部屋の入り口で止まっていた零さんが歩き出した。近づいてくる足音を聞いて安堵した綾ではあったが、この状況で零さんと対面するのかと思うと、いささか恥ずかしい。こんな間抜けな事になったのは自業自得ではあるが、どうにか緩和できないだろうか。零さんがこのクローゼットの前にやってくるまで数秒、そしてドアを開けるのはすぐだろう。そんな短時間で妙案が思い浮かぶわけがない……と早々に諦めた綾ではあったが、ふと普段の零さんの行いが脳裏に浮かんだ。
「綾、何を……」
 クローゼットを開けた先に立っていた零さんは、予想通り呆れたような顔をしていた。そんな夫の表情を認め、綾は間髪入れずに飛び出した。
「おかえりなさい!」
「うおっ!」
 普段の彼の、ちょっとしたからかいの仕返しである。軽く床を蹴り、彼の首に腕を回して飛ぶように抱きつくと、予想外の衝撃を受けた零さんは後ろに一歩後退した。しかし流石大人の男、鍛えているだけあって飛びついた綾をしっかりと抱きとめる。我ながら大胆な行動だとは思うが、先程零さんに想いを馳せていたこと、ウェディングドレスを見た事が重なり、気分が高揚しているせいか、不思議と羞恥の気持ちは無かった。
「びっくりしました?」
 床に足をつけ、零さんの首に回していた腕を緩め、両肩の上に添える。普段私が零さんにからかわれ、翻弄されてばかりなので、いい不意打ちだったのではないか。流石の零さんも予想できなかったみたいだし、満足満足……なんて考えながら彼を見上げると、彼は虚を突かれたような表情で綾を見下ろしていた。ニコニコしている綾の腰に軽く手を添えたまま、瞬きを何度か繰り返した零さんではあったが、次の瞬間、もの言いたげな笑顔に変わった。
「何をしているのかな?」
「……あれ」
 にっこり、という擬音が聞こえた気がした。笑っているが、零さんの背後には怒気のようなものが揺らめいている気もする。怒らせるつもりは無かったのに何故。もしかしていきなり飛びついたのがまずかったのだろうか。急に顔を青ざめさせた綾を認め、零さんはすっと目を細める。まずい。頭の中で警報が鳴り、咄嗟に零さんの肩に置いていた手を滑らせるように退けようとしたが、それを許さないとばかりに零さんは一歩踏み込む。零さんに押され、一歩ずつ後退せざるを得なくなった綾は、そのままクローゼットの中に逆戻りすることになった。同時に零さんもクローゼットの中に入り込み、かかっている服をかき分け、綾を壁際に追いやる。ひやりとした壁を背に、夫の温かい体に閉じ込められ、綾の心臓は早鐘のように鳴る。そして追い打ちをかけるように、開いていたクローゼットのドアがパタリと閉まった。シン……と静まり返ったクローゼットの中で、二人の息づかいだけが音となる。
「れ、零さん……?」
「……心臓に悪い」
「え?」
「どうされたいんだ、君は」
 どうやら綾に文句を言いたいらしいが、耳元で囁くのはやめて欲しい。零さんがわざと綾の耳元に口を寄せているのは分かっているが、そのせいでゾクゾクと背筋に何かが走るのだ。それを見透かしているのか、零さんの大きな手が、綾の腰から背を撫で上げるように上昇する。
「夕飯は何?」
「いや……あの、まだ……」
 こんなことをしながら、今聞く事なのか。爆発しそうになりながらなんとか答えると、零さんは綾の肩口に顔を埋めた。首筋に零さんのサラリとした髪が掠めて、くすぐったい。
「……そうか、それじゃあ一緒に作るか」
 クローゼットの内側という暗闇の中、正面から寄りかかる温度に全神経を奪われる。恐る恐る零さんの背に手を添え、その広さにたまらなくなった。愛されている。漠然とそう実感してしまい、涙が出そうになった。
「……綾?」
 返事をしない綾を不思議に思ったのか、零さんは綾の肩口からやや顔を上げた。しかし、暗がりの中では綾がどんな顔をしているか分からなかったのか、ここでやっと体を開放してくれた。零さんは意図も簡単にクローゼットのドアを内側から開け、外から差し込んだ光で妻の様子を確認する。綾といえば、夫の反撃にやられ茹で上がっていた。
「おい、しっかりしろ」
 骨抜きにしたのは一体誰だと、文句を言いたくなった。

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