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 夢を見た。目の前には大人びた自分が立っており、穏やかに笑った彼女はゆっくりとこちらに手を差し伸べた。その手になんとなく手を置いた瞬間、視界がぐるりと回り、私の目の前に見慣れた自分が現れた。正面に立つ見慣れた自分は、私の知らない優し気な笑みを浮かべ、そっと掌に置いていた手を離した。

 ゆっくりと瞼を開け、綾はぼんやりと天井を見上げた。何か夢を見た気がするが、どんな夢だったか忘れてしまった。先程まで覚えていたのに不思議だと息をつき、なんとなく寝返りをうつ。そうして目の前に突如現れた零さんの顔を確認し、思わず肩をビクつかせた。
 夫婦の寝室には、いかにも高そうで広いダブルベッドが置かれている。夜中に起きだして仕事に行くこともあれば、急に仕事から帰ってくることのある零さんのため、綾はベッドの半分だけを使うよう心がけている。忙しい零さんができるだけ休みやすいように、と自身のスペースを守っていたはずである。しかし、目の前で眠っている零さんはベッドの半分のスペースをオーバーし、綾の方にかなり寄ってきていた。帰って来て着替えていないらしく、ワイシャツを着たまま眠っている零さんからは汗の匂いがする。シャワーを浴びる気も起きないくらいに疲れているのだろう。そして胸元のボタンを外したワイシャツの隙間から覗く肌に、大きな白い絆創膏が貼られている事に気付いた。
 どうやら怪我をしているらしい。仕事で何かあったのだと安易に想像がつき、綾は視線だけで他に怪我が無いか確認する。首元の怪我と、額のかすり傷だけは分かったが、ワイシャツの下がどうなっているのかは分からない。今なら確かめられるかも……などと思いながらシャツのボタンに手を伸ばそうとして、綾は自分がとんでもない事をしようとしている事に気付いた。慌てて手を引っ込め、零さんが目覚めていないかじっと確認してみたが、彼は穏やかな寝息をたてたままだった。
 安堵しつつ、綾はぐっとベッドに沈む。彼の睡眠の妨げにならなかったのは良かったが、この状況は少々心臓に悪い。彼と生活をはじめてそれなりになるが、ベッドで一緒に寝る事はできるようになったものの、こんなに距離を詰められると緊張せずにはいられない。
 時刻は午前四時。起きるにはまだ早いが、こんな状況では二度寝もできない。どうすることもできす、ぼんやりと眠る夫を眺めながら、綾は先日のデートの件を思い出した。デートと言っても途中から目的が変わり、零さんが仕事で追っている人間の追跡になってはしまったが、なかなか新鮮な体験だった。峠の頂上からの暗黙のカーチェイスが始まる前、零さんは「そんなに飛ばしはしないから心配するな」と言ったが、いざレースがはじまるとそれは一変した。綾の予想した「そんなに飛ばさない」と、零さんの中の「そんなに飛ばさない」にはかなりの認識の差があった。とても峠道を走るようなものではないスピードで道を下る零さんの運転に、綾は始終悲鳴をあげていた。あまりの恐怖で零さんの肩を掴んだりしてしまったが、本人はそんな事気にした様子もなく、得意げに舌なめずりをしてスピードを上げて行く。たった数分のできごとではあったが、綾には随分と長い時間恐怖体験をしたかのように感じられた。峠の下りレースは最終的に、零さんがアクセルを緩め後続の例の車をわざと先に行かせ、誘導した道の先に待機していた警察が検問と証し、例の車を捕まえた。驚いた事に、零さん達が追っていたのは、車の助手席に乗っていた女の人だった。連れて行かれる女性を見送り、運転手の男性は呆然としていた。女性を捕まえた後、私達の車も検問をうけた。恐らく前の車のドライバーに、零さんと警察の関係がばれないようにするためのフリだったのだろうが、そこではじめて綾は夫の部下に会った。助手席に綾が乗っているという事もあり、大した話はしていなかったが、零さんが「後は任せた」と言うと、姿勢を正して了解の意を表した。二人のやりとりを見て、本当に彼が警察官であるのだと実感した。オンモードとでも言うのか、家にいる時の零さんとは違う、静かで鋭い空気を纏った彼は、まるで別人のようだった。彼の新たな側面を見た気がしてゴクリと息を飲んだ綾をよそに、車を動かし始めた零さんは苦笑いを浮かべ、申し訳なさそうに「デート再開しようか」と口にした。

 私はまだ、彼のほんの一部分しか知らない。優しい彼も、少し意地悪な彼も、きっと彼の本心なのだろう。しかし鋭く静かで威圧的な彼もまた、彼自身なのだ。はじめて会った時、追い回された際の彼は非常に恐ろしかった。今思い出せば、それなりに高圧的であった気もする。しかし綾が記憶喪失だと診断されてから、綾の前でそんな雰囲気は形を潜めた。綾が異常な状態にあるから仕方がないとも思えるが、彼が今隠しているだろう本当の部分も知りたいと思った。いつか、零さんに全てを曝け出して貰えたらいいな。そんな事を考えながら、綾は性懲りも無く夫に手を伸ばす。
 サラリとした前髪が、彼の顔にかかっている。隙間から覗いている擦り傷らしきものを確認しようと前髪に触れようとした瞬間、パシリと手首を掴まれた。
「逮捕」
 色っぽさを孕んだあどけない寝顔のまま、薄く開いていた唇が弧を描く。そうしてゆるりと持ち上がった瞼の下から、零さんの綺麗な目が現れた。一体いつから起きていたのだろう。彼が「逮捕」なんて言葉を使うと洒落にならないのだが、ニヤリと笑っている口元から、これがからかいの言葉だとは分かる。
「まさか寝込みを襲われるとは」
「お、襲ってないですよ!」
 はは、と笑う夫を眺めながら、綾は気恥ずかしさで少しむっとする。しかし、零さんの「逮捕」という発言を聞き、ふと思い至る。ただの好奇心。刑事ドラマなんかを見ると、この言葉と一緒に警察官が取り出すアイテムを、零さんも持っているのだろうか。
「零さんって手錠持ってるんですか?」
「……興味があるのか?」
 ほぉ、と含みのある反応をされ、別の意味で取られたと気付いた綾は慌てて「違います!」と否定した。カァーと赤くなった綾を見て楽しんでいるのか、横になったままの零さんは「それは残念」と口端を上げる。本当に人を翻弄するのが好きな人だ。いちいち心臓に悪い。羞恥で口元をもにょりと引き締め、何も言えなくなった綾は、逃げるようにベッドから上半身を起こした。綾の体の上に乗っていた零さんの腕は綾の手首を握ったままなので、寝室から逃げられはしなかったが、寝転がっている零さんを見下ろすのはなんだか新鮮だった。彼の首もと、開いたワイシャツの隙間から絆創膏がチラリと見えて、綾は目を伏せる。
「……零さん、怪我してますよね」
「まぁ、ちょっと」
 首もとを怪我をするなんて、きっと大変な事があったのだろう。詳細を聞いたところで、彼がそれを話す事は無いと知っている。だからこそ何も言えない綾ではあるが、やはり気にならないと言えば嘘になる。零さんがこうして怪我をして帰って来るのはたまにある事だが、いつも胸に何かが刺さるような心境に陥る。慣れもしないし、慣れたくもない心配を飲み込み、綾は夫の頭に手を伸ばし、サラリとした髪を撫でた。
「いつもお疲れ様です」
「……あぁ、ありがとう」
 私は彼に何ができるのだろう、と最近たまに考える。彼と話をして、家事をして、仕事を終えた彼を出迎える事くらいしかできない。それでいいのだろうか……なんて考えたところで、結局その答えを知っているのは零さんだけなのだ。私はどうして零さんと結婚したのか、その経緯を知らない。それが分かれば、こうして思い悩む必要も無いのだろうが、零さんは「馴れ初め」という話題を避けている節がある。昔こういうところに出かけた、こういう事があった、とポツポツと教えてはくれるが、確信部分を尋ねるとはぐらかされるのだ。何かあるのだろうか、と不安になりはしたが、零さんはいつも「ちょっと恥ずかしいから、また今度」と照れくさそうに視線を逸らす。きっとそれも彼の本心なのだろう。だからこそ綾も、詳細を詳しく聞き出せずにいる。
「零さん、もう少し寝ますか?」
「あぁ……二時間くらい寝たら起きる」
「仕事ですか?」
「午後からな。本当は今シャワーを浴びたいんだが、それよりも寝たい」
 どうやら睡魔をある程度抑えてからシャワーを浴びるつもりらしい。頭を撫でる手の感触が心地よいのか、目を閉じた零さんは再び眠る体勢に入る。綾よりも背の高い、細身に見えるが鍛えている男が、綾の方に身を寄せて眠っている様は、なんというか母性本能をくすぐられる。こうして零さんに甘えられている事が、じわじわとこみ上げてくる程に嬉しい。
「怖いもの知らずだな、君は」
「……?」
 どういう意味だろう。目を閉じたままクスクスと笑っている零さんは「いや、こっちの話」と呟いた。
「本当に、もう一度君と出会ったみたいだ」
 何かを思い返しているのだろうか、静かな言葉の中には、しみじみとしたものが感じられた。綾の手首を握っていた零さんの手が、だんだんと緩んでいく。
「あながち、綾が過去から来たというのも間違いでは無いんだよな」
「そうですね……8年分、何も分からないから」
「……前に、君が言っていた。いつか昔の自分が俺の前にやって来る、って」
 だんだん小さくなっていく零さんの言葉を聞き、綾はゆるりと目を見開いた。彼は今、とても重要な事を零した。何故今まで気付かなかったのか、自分を問いつめたい程に単純な事だった。
「変な偶然だよな……」
 言いながら、零さんは再び眠ってしまった。静かな寝息を立てている彼を見下ろしながら、綾は静かに思考する。零さんの今の発言からするに、8年後の私は、今の私がここに来ることを知っていたようだ。それもそうだ、8年後の私にとっては、今の私は通り過ぎた過去の存在である。知っていて当然だ。一時期、もしかしたら私は本当に記憶喪失なのかもしれない……と不安を過らせたこともあったが、やはり自分は8年後の世界に来ているのだと確信した。
 8年後の私は、未来の世界に来た時にどうしたのだろう。未来に行った事を知っているという事は、私が今この状況を不思議に思っている事だって分かっているはずだ。ならば8年後の私は、何を考えるだろう。何をするだろう。
 研ぎ澄まされていく思考の端で、綾は手元にあった枕に手をついた。しかし、いつもは柔らかい枕の下に何か硬いものの感触を感じ取る。何だろう。反射的に綾はそこに手を入れた。そして枕の下に入り込んでいた何かを掴み、一思いに引っこ抜く。綾が掴んだものは、銀色でL字型をした、見覚えのある何かだった。ハリウッド映画などではおなじみの、引き金を引くと弾の飛び出る、日本という国では一般的に所持を許されていない、物騒なもの。妙に重さのあるそれを眺めて数秒、綾は夫が眠っている事を忘れ、素っ頓狂な声を上げた。
「うわぁ!」
「……あぁ、悪い。そこに隠してたんだ」
 眠ったばかりだったのに、再び目を覚ました零さんは、マイペースな様子で拳銃を別のところにしまった。銃からは、少しだけ火薬のような臭いがした。

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