downhill

「下り一緒にって……どういう意味ですか?」
 助手席に座ったまま綾が尋ねると、零さんは先程まで誰かと連絡を取っていた携帯をポケットにしまった。恐らく警察関係者と今後の打ち合わせでもしていたのだろう、先程まで車の外で携帯を耳に当てていた零さんは、特に変わった様子も無く綾の運転席に乗り込み、質問に答えた。
「そのままの意味だ。峠の下りを一緒に走ろうって事だよ」
「はぁ……」
「まぁ、要は競争しようって事なんだろうけど」
「えっ、そうなんですか?」
 ただ一緒に走るだけではないらしい。何故そうなるのかと聞こうとしたら、先に零さんが口を開いた。
「俺の車と、彼の車はちょっとした因縁があってね。それを知っている車好きなら言い出しそうな事だ。……まぁ、その方が助かるんだが」
 チャリと音を立ててキーを差し込み、エンジンをかけた零さんを確認してから、綾はシートベルトをカチャリと締めた。車同士での競争なんて、テレビのレース番組でしか見た事がない。サーキットのコースをぐるぐると回っているイメージがあるが、ここは一般の車も走る峠道だ。こんなところで競争なんてかなり危険なのではないだろうか。しかし、不安になっている綾をよそに、零さんの表情には迷いは無い。
「だから、少し飛ばす。しっかり捕まっていてくれ」
 競争の誘いに乗る気の夫を認めて、綾は腹をくくる他ない。恐らくあの車に乗っている零さんの探し人を、追い詰めるためでもあるのだろう。綾は気合いを入れるように細く長い息を吐き、再度シートベルトが締まっていることを確認してから、上部に取り付けられた取っ手を握った。そうして無意識に、右手でも何かを掴もうと辺りを探った時、サイドブレーキに手を伸ばしかけていた零さんの手に触れた。
 ただの一瞬。ほんのそれだけのことである。しかし反射的に「すみません!」と慌てて手を引っ込めてしまった綾は、すぐに自身の行動を後悔した。ちょっと手が触れただけで、この反応はあまりにも大袈裟過ぎないだろうか。恋愛関係における免疫の無さに気付かれたのでは……? と恐る恐る零さんの方を窺うと、案の定というべきか夫はキョトンとしていた。なんだか珍しいものを見るような表情の零さんは、サイドブレーキを下ろすのをやめ、じっと綾を見ている。何を考えているのかなんとなく予想はつくが、彼にまじまじと見られているのは居心地が悪い。
「……なんですか」
「君もなかなか慣れないな」
 手が軽く触れたくらいで動揺する綾に対して、不思議がっているようだった。しかし、綾としてはそうやって不思議がる事の方が不思議である。何度も言うが、彼のような綺麗な大人の男の人と視線を合わせるだけで、自然と緊張してしまうのだ。まるで自分と同じ世界に生きている人間とは思えず、夢の中の人と対面しているような、実感が湧かないような感覚。そこから未だに抜け出せずにいる綾は、零さんからの視線に耐えきれずに俯いた。こんな調子では、慣れるにはまだまだ時間がかかりそうだ。しかし、これに慣れたら慣れたで、ある意味恐ろしいとも思う。
 零さんくらいになれば、自分の魅力くらい把握していてもおかしくないだろうに。そんな事を考えながら俯き悶々としていると、不意に首裏を何かがかすめた。何だ? と反射的に顔を上げた綾は、至近距離に零さんの顔が迫っている事に気付いて息を詰めた。同時に左肩を抱き寄せられ、右肩が零さんの体に触れる。額同士が掠める程の距離で彼と目を合わせてしまった瞬間、顔にみるみる熱が集まっていくのが分かった。
「慣れるには経験が一番だ」
 少しだけ楽しそうな様子の零さんは、空いていた右腕を動かし、綾が膝の上に乗せていた手をそっと握った。握るというより、触れると表現した方が近いかもしれない。それくらいの柔らかさで綾の手を簡単に包み、撫でるように指を滑らせてから、綾の指の隙間にそれを差し入れた。指と一緒に何か大事なものを絡めとられた気がして、綾は悲鳴を上げそうになったが、実際には声にならなかった。いくら綾が慣れていないとは言え、これはあまりにも荒療治ではないだろうか。まさに不意打ち。まるで心に刃物でも刺されている気分である。彼は凶器か何かなのだろうか。そんな意味不明な事を考え現実逃避していると、握られている手の中に硬い何かの感触がある事に気付いた。
 何だろう。綾が疑問に思うと同時に、指を絡められていた手がゆるりと開放され、硬い感触の何かが姿を現した。綾の手の中に落とされているものは、例の車を追いかけていた時に零さんが耳につけていたヘッドセットである。何故これを渡されたのだろう。疑問に思い、なんとか頑張って視線を合わせると、零さんはニコリと笑ってからチラリと左側に視線だけを動かした。体をこちらに向けている零さんの左側、車の後方にあたる場所には、朝から追いかけていた例の車が停まっている。
「後ろに気付かれないように、つけてくれないか」
 まるで甘い言葉を吐き出すように言う零さんの言葉を聞き、綾は後ろの車から今の自分達が見えているという事実に気付いた。こんなに二人でくっついているところを、第三者に見られている。そう思い至った瞬間、思わず振り向きそうになった綾を制するように、零さんは綾の肩に顔を埋めた。
「今は後ろを見るな」
「……あ、はい」
 確かに、今振り向けば後ろの車に気付かれてしまうかもしれない。慌てて右に動きかけた顔を正面に戻したものの、この状況が心臓に悪い事には変わりない。ガチガチに固まったまま肩を抱かれ、身を寄せ合った体勢のまま、綾は再びヘッドセットに視線を落とす。ドキドキと心臓が煩い。
「念には念を。相手は油断ならない人間だ。今なら俺の右耳は、後ろの車からは見えないだろう」
 成る程。零さんの言いたい事をやっと理解した綾は、手の中にあるヘッドセットを緩く握り込んだ。要は、零さんはこれを耳につけている所を、後ろの車の人間に見られたくないらしい。追っているというだけあって、今まで捕まえられずにいた人間だ。運転中にヘッドセットを耳につけるところを見られては、勘付かれるかもしれないと思っての事だろう。だからと言って、こんなにベタベタする必要があるのだろうかとも思ったが、意図を汲んだ綾は、この流れに乗じるしかない。
「……零さん、負けないでくださいね」
 綾は今、車同士で行われる競争を控えた夫を激励する妻である。恐る恐る両手を動かし、零さんの両方の耳を包み込む。そうして身を乗り出そうとした綾ではあったが、シートベルトをしていたせいで体が思うように動かず、一定の場所で引き止められた。シートベルトをしたままでは、上手く零さんの耳にヘッドセットをつけられない。そう思い至り、シートベルトのバックルに手を伸ばした瞬間、零さんの右手に触れた。「え?」と言葉を漏らす前に、微かに笑った零さんが綾のシートベルトのバックルに触れる。カチャリ。控えめな音を立てて外されたのはシートベルトのはずなのに、何か別のものを解かれた気がした。
 やられた。漠然とそう思った綾は、暫くそこから動けなかった。相変らず顔が熱く、零さんとの距離が近い。触れ合っている部分に神経が集中してピリピリとする。たったそれだけのことなのに、心臓がやけに煩く、逆上せてしまいそうだ。
「綾」
 先程から固まって動かない綾を急かすように、零さんは柔らかく名前を呼ぶ。綾が動揺しているのを分かっているような表情の夫を見上げ、綾は改めて腹を括った。こうなったら自棄である。シートベルトから開放された体をゆっくり動かし、零さんに身を寄せる。そうして再び両耳を手で包み、後ろの車からは死角で見えなくなっている右側、夫の少し長い髪を耳にかけた。先程渡されたヘッドセットを左手に隠し持ったまま、綾は身を乗り出し、夫の頬に激励のキスをするように見せかけて、耳にヘッドセットをひっかけた。そしてゆるりと零さんから離れ、今の自分たちの状況の恥ずかしさを改めて実感する。
「……あつあつ夫婦ですね」
「だろう?」
 こんな事してる俺が、まさか警察関係者だなんて、まず思わないだろ。そう続け、確信犯の零さんは楽しそうに口端を上げてから、綾の耳元に置き土産を残した。
「でも、本当にキスしてくれても良かったのに」
 それを聞いて爆発した綾を放置し、零さんはやっと車のエンジンをかけた。いよいよ車同士を走らせるようだが、今の綾はそれに身構える気力すらない。羞恥に襲われ、唸りながらシートに沈み、なんとなくミラーで後ろの車の様子を確認してしまった。そこには、先程話したドライバーと助手席に座る女性が、ポカンとこちらを見ている姿が写っていた。あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆っていると、先程までの甘い空気が嘘のように、切り替えの早い零さんは「シートベルトはしておけよ」と平然と言い放った。

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