■ 08.休戦の理由

「うーん、38度もある……」
「完全に風邪引いたね、七瀬」
「うん、だるいもん」

 今日の朝から頭がぼーっとしてなんだか気だるい感じはしていた。嫌な予感を覚えつつも、そのまま学校には行ったけれど案の定熱が出ていて、帰ってきてすぐにベッドに向かった。テレーゼに体温計を借りて熱を測ってみるとこの有様。
 新しい学校生活に慣れたと言えども、やっぱりどこか負担に感じる部分がそれなりにあったのだろう、とうとう熱を出してしまった。


「そんな柔に出来てないから、まあ明日には治ってると思うんだけど……」
「君が風邪を引くとは思ってなかったよ。馬鹿は風邪引かないって、あれ嘘だったんだね」
「私が馬鹿だって言いたいの?言っとくけど、私、そこそこ勉強出来るんだからね。日本の学校の留学組の中でだって、トップクラスだったんだから」
「そういうところが馬鹿だって言ってるんだよ」

 七瀬のベッドに腰かけて、リドルはふっと笑った。なんとも失礼だ。

「もう、どっかいってよ。あんたのせいで熱が上がっちゃいそう」

 リドルの相手をしていると、どうも声を荒げてしまう。

「まあ、大人しくしてるんだね」

 そう言うと、リドルはキザな手つきで私の前髪を撫でて部屋を出ていった。


 い、今のは何だったんだ。

 思わず自分で前髪を整え直してしまった。こういうことを平気でするあたり、海外のセンスについていけない、といつも惑ってしまう。
 少し骨張った、長く綺麗な指が目の前に見えた。人らしい感触は無かったけれど、リドルの指先を感じた。変に意識してしまったからか、おでこが余計熱くなったような気がした。

 あんなふうなことをされて、何も思わないわけがない。

 リドルは、私のことをどう思ってるんだろう。

 今まであまりリドルのことは考えないようにしてきた。悪い夢か何かだと思い込んで、彼のいる現実から目を逸らしてやってきた。

 けれど、いつのまにかリドルの居る生活に慣れてしまった。

 帰れば、おかえり、とリドルが出迎える。ふらっと本屋に立ち寄れば、リドルが好みそうな本を探してしまう。

「はあ……」

 こんなはずじゃなかったのになあ。

 最初の頃は、リドルの日記帳をこっそりその辺に捨ててやろうとか、頻繁にあの本屋があった場所に足を運んだものだった。

  彼のことは面倒で厄介だとは思うけれど、どこか嫌いにはなれない、情が移ったとでもいうのだろうか、私は自分でもわからないこの気持ちに、大きくため息を吐いた。人でもないし、そもそも生きてすらいない。他の人には見えないリドル。これからリドルとどうやって向き合っていけばいいかはやっぱり分からなかった。

 ただ、1人きりで暮らすにはもったいないこの大きさの家には彼のような存在があっても良いんじゃないかとは思い始めていた。イギリスという知らない土地で、1人暮らし、正直心細かった。おばさんが居ても、どこか心の中では孤独を感じることになっただろうと思う。

 それが、リドルのおかげでずいぶんと楽しく暮らしている。

 軽口を叩きながら彼とお喋りすることは、なんだかんだ言っても楽しいし、すんなりとイギリスに馴染むとっかかりにはなった。

 あんまり深く考えすぎないように努めてきたけれど、今ばかりは何故か悶々と私とリドルについて思考を巡らせてしまった。

 こう熱を出している時に、あまりあれこれ悩むのはよくない。少し頭も痛くなってきたようだった。


 目をつむり、ぼんやりとし始めた意識の中で、この家に1人ではなくて良かった、誰かが居てくれる、という気持ちだけで少し安心した。



「七瀬、起きてる?」

 どこか遠くの方でドアがノックされる音がした。

「うーん……」

 今は何時だろう、窓は遮光カーテンが開けっ放しになっており、部屋全体が明るい。きっと朝になってしまったんだろう。

「起きたー……」

 ドアの外でリドル待ってるだろうと一応返事をしておく。

「入るね」

 寝起きの顔を見られるのはさすがに恥ずかしいし、なんとなく負けてしまったような気がするので、ドア側からは背を向けるようにして掛け布団を被った。
 窓から差し込む光がいつもよりやけに眩しい。ずきずき痛む頭にはあまり良くない気がした。

「昨日はよく寝られた?」

 リドルが人を気遣うようなことを言うなんて珍しい。

「まあ、そこそこ」
「今日は学校、どうするの?」
「うーん、休もうかな……」

 一日くらい休んだって構わないだろう。
 まるで母親と会話しているようで少し可笑しくなった。いつものリドルなら嫌味のひとつやふたつぽんぽんと交えて話しかけてくるのに。

「ねえ、今は何時?」
「8時くらいだよ」

 とにかく、連絡だけは入れておこうと重い体を無理やり起こした。急に起きたのがいけなかったのか、ふらっと立ちくらみのような眩暈がした。目の前がちかちかする。

「ちょっと、大丈夫なの?」
「でも、連絡しなくちゃ」
「いつも七瀬が持ってるケータイでいい?持ってきてあげるから、今は寝ときなよ」

 ヘッドボードにもたれかかり、リビングへ向かうリドルの方を見た。
「今日はなんか優しいね。いつもと違って、そういうのちょっと気持ち悪い」
 私の針のある言葉を特に気にするふうもなく、リドルはこちらをちらっと見てから

「僕だって、ただで置いてもらってて、恩を感じてるんだよ、七瀬」

 と全く悪意のこもっていない言葉で返されてしまって、こんなときにも素直にお礼を言えない自分が逆に恥ずかしくなってしまった。

「いっそ嫌味よ……」

 顔はすこぶる良いけど、性格がひねくれてて全然ダメ、天は二物を与えないのね、と自分の中で整理をつけていたのに、今日のリドルは私の知ってる嫌なやつじゃない。
 なんだか無性に悔しくって、この熱で溶けてしまいたくなった。

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