私の働いている屋敷には何だかとても偉そうな主人と、そのペットのような香水臭い女が支配している混沌とした邪悪な空気が充満していた。
詳しくは知らない。知りたくないし、教えてもらえそうもない。私はただ運悪く職を失い、運悪く命を買われ、この屋敷の雑用として置かれた。最初の頃はトイレで寝ていたし、食事も忘れられがちだったが、最近では埃っぽく狭いが部屋を与えられ、他の最下の人間達と食事も取れるようになった。
しかも今日からなんと個別に仕事を与えられるらしい。溝の掃除でないなら何でも受け入れたい。

「ここだ、入れ」

私を仕事場に連れて来てくれた男はスーツで、身なりが綺麗に整えられていた。
連れて来られた場所は屋敷の地下で、木製の重たいドアの向こうだった。そのドアの前には制服を来た看守が二人立っていた。
ドアを進むとそこはどうやら牢屋のようだった。鉄柵と部屋が並び、左右に3つづつと正面に一つあった。投獄されているのは正面の一人だけで、左右の六つの部屋は空だった。

「お前の仕事はあの男を殺さない事、二十四時間ここにいて男の世話をしろ」

スーツの男は廊下の突き当たりにある正面の牢屋にいる男を指差し、私にそう言った。
男は両手を頭の上で手枷に繋がれ、パイプ椅子に座らされ、足元は片足ずつ鎖に繋がれていた。トランクスしか身に付けておらず、ほとんどの肌は露出していた。私が目をやると、うなだれたままの首を上げず、目だけで私を見ていた。

「わかりました」
「ほら牢と奴の枷の鍵だ、何かあればすぐ看守に報告をしろ」
「はい」

スーツの男は地下を出ていき、私の後ろで重たいドアが閉まる音がした。
地下に取り残された私と男は沈黙と息遣いだけをまとい、視線だけ合わせていた。裸足の私はペタペタとコンクリートの床を歩き、男の前にまで行った。鉄柵に手をかけると持っていた鍵が当たって地下中に金属音が響いた。

「こ、こんばんは」
「…」

なんて気まずいんだろう。
死なすなと言われても、それが何日間なのか。こっちがストレスで死なないように楽しくならないかと思っての挨拶だったが、男はずっと合わせていた視線を反らしてそれを無視した。

最初に男の声を聞いたのはそれから十時間ほど経ったあとで、夜が明けて二時間経っていた。天井近くにある窓と地下牢のドアの上にある時計でそれを確認していた。
私は男のいる牢の右手側にある牢を自分の部屋として寝ていた。寝心地は悪いし男が気になりほとんど寝ていなかった為に男の叫び声に驚いて起きる事はなかった。

「あああああッ!!」

低い叫びは獣の雄叫びのようで、骨にまで響くようだった。
私は跳ね起きて男の牢に駆け寄った。男は叫び続け腕と足の枷をガチャガチャといわせながら暴れていた。

「どうしたんですかっ!」
「ッ、…薬を持って来い!!」
「薬?どこか悪いのですか?」
「お前みたいな馬鹿と喋りたいわけじゃない、いいから持って来い!!」

ドラッグの事と気付くのにワンテンポ遅れた私は、まだ眠いのだろうか。あまり苦しそうに暴れる男を見て、死ぬのではないかと恐怖し、急いでドアに走った。看守は既に構えていてドアを開けた瞬間に目が合った。

「薬は与えなくとも死なん。男は薬物中毒の人間だ、禁断症状が出ている。男はかなり苦しい思いをするが死にはしない」

それを聞いた私はとりあえず安堵して地下牢に戻った。
男は叫ぶのを止めてうつむき、片足だけカタカタと揺らしていた。

「薬は、もらえませんでした」
「…だろうな」

クソッと男は呻いた後で顔を上げて目を閉じた。見るからに顔色が悪く、今にも吐きそうだった。呼吸は荒く、枷がすれて手足は血が滲んでいた。

「あの、大丈夫ですか?」
「そんなわけあるか、黙ってろ」
「水飲みますか」
「…」

男はゆっくりとうつむいて何も言わなかった。私はなんとなくそれをイエスと受け取る事にして、自分の牢に戻って給水ポットから水をマグカップに注ぎ、鍵を持って男の牢の前に戻った。
開けて、大丈夫だろうか。
何故この男が錠に繋がれ牢屋に入れられてるのか知らないが、安全な人間とは思わなかった。
しかしさっき暴れた時にガチャガチャいっても全く動じなかった枷を信じて、私は男の牢を開けて中に入った。私はドキドキしながら近寄り、男の息遣いが直接聞こえる真横に立った。

「…飲みますか?」

男は顔を上げて私を見た。そののち、目を閉じて換わりに口を開いた。
乾燥した唇はひび割れていて、いったいどのくらいの間、物を飲んでいなかったのだろうかと恐ろしくなった。
私はもう一歩近付き、男の口にマグカップを当てた。男は目を開けて中を確認しながら私が傾けるマグカップの水を飲んだ。うまく口に入らなかった水は男の顎を伝って何も着ていない胸に流れていった。

「すみません、こぼれてしまいました」

男はうつむいて唇を舐めた。

「言ってもらえたらいつでも持って来るので」

男はふっと笑って、ああ分かったと言った。
しばらくして看守が二人分の食事を運んで来た。朝ご飯だろう。座っているだけで食事が用意されるなんて、なんと待遇がいい職だろうと私は嬉々としてそれを受け取った。
看守がいなくなってから私は男に声をかけた。

「私とあなた、どちらが先に食べますか」
「…お前、最後の食事は何時間前だ…」
「15時間です…けど、それが」
「…ならお前が後のほうがいいな、俺が吐いているのを見て食べた物が出てくるぞ…今なら胃が空だろう」
「気分が悪いのですか」
「…食べたら悪くなるだろうな」

男の予想通り、男は食べた物をおそらくほぼ全てを吐き出した。
最初に吐いた物には間に合わなかったが、その後ずっと横にいてバケツを構えていたので受け止める事が出来た。
吐瀉物を便器に流していると男が笑いだした。

「なんだお前…人が吐くの見ても平気なのか」
「匂いは駄目ですけど、それほどでもないです」
「…俺は、駄目だ。流してくれ、これ」

男は最初に吐いて足にかかった吐瀉物を見て言った。私はバケツを洗い、それに注いだ水で男の足を洗った。
男を死なすなと言われたが、食べた物全てを吐く男にどうやって栄養補給をさせればいいのかわからなかった。

「…お前…いいやつだな」

唐突に男は言い、私は言葉無しに男の方を向いた。そういえば親切にし過ぎな気もするが、酷く当たる理由が私には無かったので当然である気がした。

「それで一つ、頼みがあるんだ…」
「何ですか」
「腕を下ろしてくれ、枷はしたままでいい…」
「出来ません、怖いです」
「頼む…痛いんだ」

嘘かもしれない。
男は下を向いたまま無表情に言っていた。腕を動かせるようにして襲われたらおしまいだ。殺されるかもしれない。鉄製の枷が凶器になる瞬間を想像し、私は男の願いを却下した。

食事は昼と夜も運ばれて来たが男がまともに食べれる事は無かった。フォークを男の口に運び、男も空腹は覚えているのか素直にそれを食べる。しかし数分すれば胃液に消化されきれていない吐瀉物が戻って来た。
男は生理的に涙を流し、青い顔に伝う冷や汗と共に輪郭を伝って滴らせた。
あまりにつらそうな姿に私は同情し、吐く男の背中を擦った。男の背中は冷たかった。

私は真夜中を過ぎてから男の牢屋を出て自分の牢屋に戻って薄い毛布にくるまって寝た。

目が覚めると天井近くの窓の向こうはまだ暗かった。自分の牢屋を出て時計を見ると早朝の五時過ぎだった。久しぶりに結構眠れたなと、私は嬉しくなった。
男を振り替えると男は目を瞑っているが、覚醒はしていた。どのくらい眠れたのだろうか。

「眠れましたか」
「…いや」

初めに挨拶した時に比べて男はずいぶん言葉を普通に返すようになっていた。
私は抵抗がなくなった男の牢屋への入室を躊躇う事なく済まして男の横に行った。そこでまず匂いに気付き、トランクスの染みから男が失禁している事に気付いた。

「起こしてくれれば…」
「…」

男は下を向いたまま閉じていた目を開けた。軽く首をひねって、気付かなかったと言った。

「可哀想にな…お前…下の世話までさせられて」
「上から出てくる物の世話ならもうしましたから、平気ですよ」
「はは、…お前は…」

男は口元で笑い、その先を言わなかった。
私はバケツで男の下半身を流した。男は何故か苦悶の表情を浮かべた。

「冷たかったですか」
「…いや、痛い」

その言葉に私は昨日言っていた腕を下ろして欲しいという願いを思い出した。逃げよう等という作戦ではなく、本当に頼みこむ程痛いのかもしれない。
しかし小心者の私は結局外してあげる事が出来なかった。

「あなた、どうして捕まっているんですか」
「…知らなくて…いい」

それは確かに。あまり聞きたくない気もする。

「あなたの名前は」
「…知ってどうする」
「呼びます」
「…呼ばれ、たくない…」

まあ、あなた、でも不便は別にないので構わないかと思った。
その後の時間、暇をもて余した私は苦しむ男を意識せずに質問攻撃した。最初の方は適当に流され、面倒になったのかキツくなったのかだんだん答えなくなり、会話というより私の独り言になっていた。
しかし男は一つだけ質問に答えた。好きな花は何かと殆ど冗談で聞いたら、水仙だと小さく答えた。その後の質問には何一つ答えず、食事になると食べては吐き、夜はついに食べる努力を諦めた。
私は男を死なせない為に唯一受け付ける水を飲ませた後、看守に頼んで飴を沢山調達してもらった。私は小さな黄色い飴を男の口に入れた。

「…どうですか」
「ああ…食べれる」

とりあえず、エネルギー源は確保でき、私は安堵した。
しかし結局何も食べずとも吐き気に襲われ、胃液だけが男の口から出てくるようになった。
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水仙と銃(1)



written by ois







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