2. 朝が来て仕入れをして、帰ってお風呂に入って眠るとあっという間に次の日がやってくる。というか、実際には勤務中に日付は変わってしまっているのだけど。 昨日はあんなことがあったせいでかなり気疲れしていた筈なのに、なぜだかやたらと寝つきが悪く、ほとんど寝た気がしないせいであくびが止まらない。夕方から二十一時過ぎまで入ってくれているアルバイトの女の子に店を任せ、今日はすこしだけ遅めに出勤させてもらうことにした。 「名前さん、なんか顔色悪いですけど……大丈夫ですか?」 「うん、ちょっと寝不足なだけ。ありがとね、お疲れさま!」 エプロンをつけながらそう言うと、彼女はやっぱりどこか心配そうな表情をしながらも「じゃあお先に失礼します」と勤務を終えて店を出た。 「須郷くんもありがとね」 十九時過ぎから勤務を始めた馴染みのバイトにそう声を掛けると、彼はいつものようにあまり表情を変えることもなく「稼ぎたいんで寧ろありがたいです」と頼もしいばかりの言葉をくれた。 「てか店長、昨日やっぱり何かあったんすか?」 「……ごめん、あんまり思い出したくないや」 すみません、と謝る彼に「ううん、気にしないで」と返事をしてそそくさと溜まりがちな事務処理に手を付ける。いつもの日常、いつもの夜、いつもの喧騒。この神室町には平日も休日も関係なくて、あるのは昼か夜か、それだけだ。 どうも、と言いながら店の入り口にその人が現れたのは、時刻が二十三時を回った頃だった。 「あ、西田さん! こんにちは」 西田さんは真島建設という建設会社にお勤めの従業員さんである。というか、実際は真島組という広域指定暴力団東城会系の組員らしいのだが、人当たりがよくて腰が低く、見た目も雰囲気もヤクザ感はほぼ皆無。 そして、真島組さんはどこか関わりのある店が開店したりする度にうちの花を利用してくださる太客のお得意様なのだ。 「いつものスタンド花、ご注文ですか?」 メモと宅配便の伝票を取り出しながらそう問うと、彼はあからさまに目を泳がせて私と須郷くんを交互に見ている。 「あー……いや、今日はその……申し訳ないんですが注文ではなく……」 モゴモゴ言いながら歯切れの悪い西田さんの様子に首を傾げる。なんだろう、注文するわけでもなく彼がこの店を訪れた理由の見当がつかない。 そんな西田さんの背後から、突如にゅっと飛び出てきた腕が彼の首根っこを掴み、かなり乱暴に背後へと引きずり倒した。 そして「うぎゃ!」と言いながら真後ろに倒れ、盛大に尻餅をついた西田さんが先ほどまで立っていた場所には、もう既に違う人物が立っていた。 綺麗に切り揃えられた黒髪、左目の眼帯、綺麗に整えられたヒゲ、素肌にパイソン柄のジャケット。極め付けは胸元から顔を覗かせている派手な和柄の刺青。一度見たら忘れることが出来ないそのインパクトと存在感。加えて惜しげも無く垂れ流しになっている威圧感。その姿は昨日の夜中、私が背負い投げを食らわせたヤクザに間違いなかった。 その男は「また会えたのう、ネェちゃん」とどこか楽しそうな笑みを浮かべている。うそでしょ、と私がうっかり声を漏らしてしまったけれど、そんなことは気にする様子すらない。 「これが運命っちゅうやつやな」 「いたた……運命って、親父が調べさせたんでしょうが……」 「あぁ……? なんか言うたか西田ァ!」 「い、いえ何も!」 剽軽な調子でゆらゆらと揺れながら店内を見回していた眼帯の男は、突然ドスの効いた低い声で西田さんを威圧する。そこまで大きな声だったわけではないのに、周りの空気さえビリビリと震わせるような圧。 というか、聞き間違いでなければ西田さんは今、この眼帯の男のことを「親父」と呼ばなかったか? 「ウチから花贈る時、この店に頼んでたんやな。そんなこまいことは下のモンに任せとるから知らんかったわ」 これからは俺がするんもええな、とか言いながら、眼帯の男はレザーの手袋を嵌めた指先でちょん、と切り花の入っているブリキの花桶をつつく。 「店長さんのあのエエにおいは花の香りだった、ちゅーことやな」 「あの……ウチから花を贈る時、って……?」 「なんや察しが悪いのう。真島組、いうたらわかるか?」 それは西田さんの所属しているお得意さまの組の名前だ。そこでピンと来てしまった。全てのつじつまが合う、だけど、つまりそれって。 「俺の名前は真島吾朗っちゅうねん、こう見えても一応組長や」 こう見えてもって、最初っからどこからどう見てもヤクザにしか見えなかったんですけど。 膝から崩れ落ちそうになるのを何とか堪えながら、目の前でニヤついてこちらを見下ろしているやたらと背の高いその人を見上げる。 お得意様である真島組の組長が、まさか昨日投げ飛ばしてしまったパーソナルスペースガン無視の変態ヤクザだったなんて。 「ちゅうわけでネェちゃん、名前教えてや」 はあ? と飛び出したあからさまに不機嫌な私の声なんか気にも留めず「名前くらいええやろ、な?」と大きな体を屈めながらこちらを覗き込んでくる眼帯男 ── もとい、真島組組長の真島さん。 ここは狭い花屋の店内。つまり、昨日と違って逃げ場はない。そしてきっと、名前を教えるだけで済むはずもない。 いつも冷静で動じない須郷くんでさえも、手入れのために洗っていた榊を手にしたまま固まってしまっている。 「なんで名前なんか……」 「なァそこのバイトくん、店長さんの下の名前ってなんや?」 「えと、名前さんです」 「ちょっと須郷くん!」 すると、真島さんは手を叩いて楽しそうに笑った。こっちは全然楽しくない、それどころかまさしく蛇に睨まれた蛙状態だっていうのに。 「君、エエやつやのお! そんで、名前っちゅうんやな……ほな名前ちゃん、これからよろしくな」 「よろしくって……」 「せやからこれからもこの店贔屓にさせてもらうで、っちゅう話やろ」 ここで私は自分がもしかしたら勘違いをしていたのではないか、という結論に至る。 てっきり、この真島さんという男は昨日投げ飛ばされた屈辱を晴らすべく、恐ろしい執念によって約二十四時間で私のことを探し出したのだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。 「それは……こちらこそよろしくお願いします」 「さっすが店長さんや! 話がわかる女は好きやで」 おまえエエとこに仕事頼んどったんやな、見直したわ、と西田さんの背中をバン! と叩いた真島さんは見るからに上機嫌だ。 しかし、叩かれた西田さんは「うっ」と呻き、苦痛に顔を歪めている。いま、かなりいい音がしていたし、そりゃ痛いに決まっているだろう。さっきだって引っ張られて思いっきり尻餅をついていたし、彼がとんでもなく不憫に思えてきてしまった。 「で、名前ちゃん。早速なんやけど」 「はい、なんでしょう? ご注文でしたら……」 「俺の女にならんか?」 一瞬、自分の中から「言葉を発する」という行動が抜け落ちてしまっていた。 人間は驚きすぎると言葉が出なくなるんですね、ひとつ勉強になりました。って、そんな現実逃避をしている場合ではない。 ええと、この人いまなんて? いや、もう一度言ってほしいってことじゃなくて、寧ろぜったい信じたくない、信じられないようなセリフを発した気がしたんだけど。 「昨日名前ちゃんに投げ飛ばされた時な、ハートにこう、ビビッと来たんや! 女に投げられるなんて四十年以上生きてきて初めてやったで!」 あれからもうずーっと名前ちゃんのことばっか考えてしもうてな、何故か自分が投げ飛ばされたことを嬉々として語り出した真島さんと、思いっきり眉根を顰めながら珍獣を見るような目でその男を見ている私。 それを交互に見ていた須郷くんが「え、店長この人投げたんスか……すっげえ」と空気も読まずに発言する。 「もう! 須郷くんは黙ってて!」 「そらもう華麗やったわ! で、どや? 一生大事にするで」 どうしよう、もうこの状況と寝不足とが相俟ってとんでもなく頭が痛い。 絡まれたヤクザを投げ飛ばしたら好かれちゃいました、ってこれドラマか何かの世界の話でしょ。なんでただのフラワーショップ経営の私がこんなトンチキなことに巻き込まれてしまっているのか。 断ったらコンクリート漬けにされて海に捨てられちゃうかも、という想像が頭の中を過ぎったが、そんなことよりも脳直で「お断りします、当たり前でしょ」と若干イラついた口調で返事をしてしまっていた。 「おお、そう簡単に釣れんとこも堪らんな! 燃えてきたわ、俺は諦め悪いでぇ」 どうぞご勝手に燃えててください、と吐き捨ててしまえたらどんなに楽だろう。しかし、さすがにそこまで言う勇気も、気力すらない。そして、何故だか真島さんから私に対する悪意だとか、そういう負の感情を感じない。 投げ飛ばされたのに怒るわけでもなく、寧ろ執着するって私には理解が出来ない。やっぱりこの人、異様なのは見てくれだけではないらしい。 「せや、世話んなっとる花屋に顔出して帰るだけっちゅうのは良くないわな」 真島さんは大きく両手を広げると、その場でくるりと華麗にターンを決めて「悪くなりそうなやつ、全部買ったる」と手を叩いた。 「バイトくん、見繕ってくれや。なんぼになってもええで」 指名された須郷くんは「了解です」と静かに言うと、榊の手入れを中断して切り花を見繕い始める。 ぽかんと呆気にとられてしまっている私をニヤニヤ見つめている真島さんに気づいて、ハッとして視線を逸らしてしまった。なんだろうこの人、考えていることがわからなすぎて怖い以上に恐ろしい。 須郷くんと手分けをして花を見繕い、適当でいいと言われたので茎の根元を軽く括って紙を巻くのみで済ませる。 大量の切り花を車の助手席に担ぎ込む西田さんと須郷くん。レジに立つ私に「これで足りるか?」と紙幣差し出す真島さん。それを数えながら、未だに私は目の前で起こっている事象の数々が現実のことであるとは思えずにいる。 「ほな名前ちゃん、また来るでぇ!」 「あ……はい、ありがとうございました」 疲れるのでもう来なくていいです、という言葉をぐっと飲み込み、精一杯の笑顔で見送った。 去り際に西田さんが申し訳なさそうにこちらに会釈してきたけれど、ヤクザの世界じゃ子分が親分に逆らえない、というのが鉄の掟であることはその世界の事情に明るくない私でもなんとなくわかる。 気にしないでください、の意味を込めて会釈を返すと、店の前に停めた車の後部座席に座っている真島さんから「何しとんねん! 名前ちゃんの時間取らせなや!」という怒声が飛んでくる。 いや、時間取らせたのはあんたでしょうが、と思いつつも、かなり売り上げに貢献してくれたお客さまであることには変わりない。 「名前ちゃんもバイトくんも、仕事終わったらすぐ家帰ってちゃあんと寝るんやで!」 あざっす、と返事をした須郷くんは既にもう通常モード。肝が座っているというか、状況に対応するのがうまいというか。後部座席の窓を開けて大げさに手を振る真島さんに頭を下げ、走り出した車を見送る。 車が見えなくなって、思わず漏れ出てきてしまったため息の重さったらこれ以上はないというレベルだった。どうやら思っていた以上に緊張していたらしく、体の力が一気に抜けてその場で座り込みたい衝動に駆られる。 まだ閉店まで時間あるのに。ああもう、一刻も早く帰りたい。 「店長、すごい人に好かれちゃいましたね」 「いや、冗談言ってるだけでしょ、あの軽い感じは」 「そうッスかねえ、でも店長に投げ飛ばされてビビッときてわざわざ探したって言ってましたよ」 「うん、殺すためじゃなくてよかったよ……」 つーかあの見てくれの人に絡まれて背負い投げは普通しないスよ、と続ける須郷くんのご意見は確かに尤もである。 ふう、ともうひとつ息を吐き出してから店内に戻ると、約半分も引き取られてすっかり寂しくなった花桶たち。ショーケースの横に掲げられた時計を見やると、ようやく日付を超えたところだった。 [次#] |