1.


 いつの間にか日付を超えていたことにようやく気づいたのは深夜の二時過ぎ。
 夜が深くなれば深くなるほど強い光を放とうと躍起になるネオンと、一向に減らない人々。統一感なんてまるでない、ごちゃごちゃとして目に痛い町の色。いろんな音や声が混ざりに混ざった喧騒は最早ノイズだけど、私にとってはそれが当たり前の日常で、不思議と落ち着きさえする。それは、もう長いことこの町に腰を据えているからだろう。
 注文されていた花束を作り終え、フィルムとリボンでラッピングしてから店奥の冷蔵ショーケースにしまう。自画自賛だけど、我ながらいい感じにできたと思う。腰に手を当て感じる達成感、これを引き渡すのは明け方の予定だ。

「店長、そろそろ休憩いかなくて大丈夫スか?」

 店は俺が見てるんで大丈夫ですよ、と言ったのは黒いエプロン姿の学生アルバイト、須郷くんである。
 彼は都内の大学に通っており、コンビニで働くよりも変な人に絡まれないからとうちで働いてくれている。フラワーショップに男の子の店員がいるのは珍しがられるが、うちの店は客層が特殊だし、女手には難儀な力仕事も任せられるので助かっている。

「じゃあお言葉に甘えようかな」

 フラワーショップというのは、基本的に日が出ている間に店を開け、日が落ちたら店を閉めるのが通常である。しかし、ここは夜の町、歓楽街の神室町。昼過ぎに開店準備をし、十五時頃に店を開ける。土地柄、そのほうが需要があるのだ。
 お得意様はキャバクラやホストクラブの関係者、そこに通うお客さんたち。時には暴力団関係らしき人がスタンド花を注文しにくることもある。もちろん一般の方の利用がほとんどだが、利益に繋がるような大きな、いわゆる太客はそういう類の人たちである。
 そんなわけで、私の一日は神室町の街灯が燈り始める少し前に始まって、明け方に市場へ行って花を仕入れ、店に戻って荷ほどきをしたら終わる。すっかり夜型になってしまい、太陽よりも夜のネオンの方が仲良しだ。
 このフラワーショップがオープンしたのは約五十年も前。バブル真っ只中の景気が良い時も、それが弾けた時も、この町をずっと見てきた中々に歴史の深い店である。
 そして、私が祖父と祖母からこの店を継いでからもう少しで一年。両親がいない私にとっては祖父と祖母が育ての親で、この場所は家みたいなものだった。
 物心がついたぐらいの頃、車の追突事故で両親が亡くなった。私だけが助けられたけれど、当時の記憶はほとんどない。
 息子を失った祖父と祖母はもちろんとても悲しんでいたらしいが、それでも私を引き取って実の子どものように一生懸命育ててくれた。両親がいないことで寂しい気持ちになったこともあるけれど、注がれる愛情をちゃんと感じていたから、一応はこうしてまともに成長出来たと思う。
 祖父と祖母は私には自由に生きて欲しかったようで、自分たちが花屋の仕事を続けていくことが難しく感じ始めたとき、そのまま店を閉めるつもりだった。私を育ててくれたこの場所が無くなることが嫌で店を継ぐことを宣言したが、その時の祖父はあまり良い顔をしてくれなかった。そして、本当は嬉しかったのだと教えてくれたのはつい最近のこと。
 黒いエプロンを脱ぎ、履いていた長靴を私用のスニーカーに履き替えながら、須郷くんに「じゃあ小一時間任せるね」と軽く声をかけ、履いているジーンズのポケットに小銭入れと携帯電話をつっこんで店を出る。
 休憩室は店の裏にもあるけれど、私はこの時間帯の神室町を散歩するのが好きだ。
 うるさくてきたなくて目に優しくないけれど、そんな町でも私にとっては馴染みのある地元である。
 ふう、と無意識に吐き出したため息は煩雑な夜の闇に消えていく。スーツ姿の男性と腕を組んでいる派手な姿の女性。夜でも元気なキャッチのお兄さんたち。どうみても暴力団系だろうなって風貌の男の人。そんなカオスなこの町を当てもなく歩くことが気分転換になるのだ。
 ひとりでいても、そしてそれがたとえ休憩中であっても、考えてしまうのは引き継いだ店のこと。
 店には昔からのお得意様が多く、祖父や祖母にくっついていた幼い頃の私を知っている人も多い。それまでもずっと店を手伝っていたけれど、祖父や祖母がやっていたことをそのままそっくり引き継げるわけもなく、求められることにしっかりと応えられる自信が無くて最初の頃は凹んでばかりだった。
 というか、今だって自信があるわけではない。意地と根性と店への愛情、それに祖父と祖母へのリスペクトの気持ちでなんとか必死になって「店長」という肩書きを背負っているだけだ。
 でも、そんな個人的なモヤモヤを吐き出せる相手もいなければ、うまく発散する術も知らない。私に大切な店を任せてくれた二人に心配をかけるわけにはいかないし、結局いつも「がむしゃらに動き続けていることが一番いい」という結論に達する。
 いけない、こういうこと考えてるとすぐ下を向いてしまう。気分転換で深夜の散歩に出た筈なのに、思い詰めてしまっては元も子もない。
 私が真正面から何かに思いっきりぶつかったのは「よし!」と改めて気合いを入れ直した瞬間だった。強かに打ち付けてしまった顔を抑える。どうやら、私がぶつかったのは人だったらしい。

「あ、ご、ごめんなさい……!」

 とりあえず謝らなくちゃ、と慌てて視線を上げると、私の視界に入ってきたのは派手な刺青だった。条件反射的に上げてしまいそうになった声を寸でのところで堪える。
 いま私の目の前に立っている人の風貌は、みるからに極道のそれだったのだ。

「ええで、気にすなや。……けどなあ、ちゃーんと前見て歩かんと怖ぁい人に捕まってまうで」

 その人は「今ぶつかったんが俺のみたいなやさしーい人間でよかったのう」と歯を見せながら怪しい笑みを浮かべている。
 その見てくれでそれ言っちゃうの、と突っ込みたい気持ちをなんとか抑え、動揺を悟られないように愛想笑いを浮かべながら「失礼しました」ともう一度頭を下げる。
 癖の無い黒髪は綺麗に切りそろえられ、左目には眼帯をしている。素肌にそのまま羽織っているのは派手なパイソン柄のジャケット。その下の胸元には和柄の刺青が見える。黒レザーの手袋に合わせたみたいなレザーのパンツ。どうみても一般人の出で立ちではない。相手にそのつもりはないのかもしれないけれど、背が高いせいか余計に威圧感を感じる。
 とにかく、はやくこの場から立ち去らなきゃ。どうやら怒ってはいないみたいだし、ともう一度ぺこりと頭を下げてその横を抜けようとした時だった。

「……ところでネェちゃん、なーんかええにおいするなあ」

 え、と私が声を漏らすよりも早く私の肩をガシッと掴んだその人は、腰をかがめ、その鼻先を私の首筋にくっつけてきた。
 思わず「ふぇ!?」と普通に過ごしていたら出さないような間抜けな声を上げてしまったのは、勿論驚いたからというのもある。しかし、それ以上ににおいを嗅がれている恥ずかしさと、首筋にかかる吐息のくすぐったさがたまらなかった。

「え、な、なにして……!」
「香水とはちゃうな」
「やだ、離してください!」
「んー、なんちゅーかこれは……」

 私がジタバタと暴れても微塵も動揺する素振りを見せず、ほとんど密着に近い至近距離で独り言を言い続ける眼帯の男。くすぐったいし怖いし、それに何よりとんでもなく不快だ。どうして私は知らないヤクザに体を嗅がれているのだろう。
 だめだ、とにかくはやく逃げなくては、しかし相手は男性で、体も大きく力も強い。見た目からして荒事にも長けているに違いない。となると、もう私の中にある選択肢はひとつしかなかった。

「もう、離してって、言ってるでしょ!」

 顎に手を当て思案に耽っているその男の腕を両手で掴み抱き込む。自分の右肩を男の脇に潜り込ませ、左手で男のジャケットの袖をグッと握り締める。
 眼帯の男が「お?」と驚いたような声を上げたような気がしたけれど、そんなことは最早どうでもいい。この技は不意打ちとスピードが命、掴んだらもう投げるだけ。そのまま懐に潜り込むように体制を低くしながら、右足をぐっと踏み込んだ。
 梃子の原理を利用したその技で相手の体重を感じたのはほんの一瞬。ビタン! という音が弾けた次の瞬間、私の足元には眼帯の男が驚愕に目を見開きながら天を仰ぎ地に伏していた。
 学生時代、心配性の祖父から護身術代わりに習わされていた技がまさかこんなところで役に立つなんて。それにしても、未だ嘗て無いぐらいすっごい綺麗に決まっちゃった。
 眼帯の男は地面に寝そべったまま、ピクリとも動かずにこちらを見上げている。残念ながら見たところほとんどダメージは無さそうで、単に起きるつもりがないだけであることがわかる。

「なんや、めちゃくちゃやるやんけ……」

 私に投げ飛ばされた筈のその人は、どこか楽しそうにニイ、と口の端を上げ、目を爛々と輝かせながら静かにそう言った。
 あまりにも上手く技が決まりすぎてぼーっとしてしまっていたが、とにかくまずはこの場所から逃げ去ることが先決だ。
 肩で息をしながら踵を返し、賑わう人の群れに突撃するように紛れ込む。ちょっと遠回りになってしまうけれど、万が一あとをつけられても困るので店には大きく迂回して戻ることにしよう。
 っていうか全然休憩にならなかった、寧ろ疲れがどっと増した。あの人ぜったい極道とかそっち系の人だったし、あのままされるがままにじーっとしていたら何されたかわかったもんじゃない。逃げるのが正解だったに決まってる。
 少し時間を掛けて店に戻ると、ちょうど切り花の手入れをしていたらしい須郷くんが「店長早かったっすね、もう休憩いいんですか」と声を掛けてくる。

「ちょっといろいろあって……ごめん、裏でもう少し休んでてもいいかな?」
「そりゃもちろんいいですけど」

 ちょっとって何があったんですか? と悪気なく訪ねてくる彼には苦笑いで返事をし、店奥にある小さい休憩スペースへと入った。


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