17.5

(三井視点)

 バスケ以外にうつつを抜かしている暇などない。少し前まで、それこそつい最近までそう思っていた。だけど、今は違う。応援してくれているあいつが、名前が傍に居てくれるだけでモチベーションが上がっていく。確かに時間の余裕なんかどこにもない。それでもあいつに割く時間ならいくらでも作れる。無理してでも作るに決まっている。

「三井くんがバスケやる邪魔になるんだとしたら、それはすごくいやなの」

 そうだ、最初から彼女はそんなことを言っていた。ずっと不安に思っていたのだろうに、オレが追い打ちをかけてしまう形になった。
 自転車を飛ばしながら、不愉快に頭の中をぐるぐると回っているのは後悔と自分への憤りだ。でも、あの時とは違う。絶対に手放さない。何があっても繋ぎ止めたい。もう嫌だって言われたとしても、離してやる気なんかさらさらない。
 周りにギャーギャー騒がれることなんかよりも、もっとずっと気にするべきことはあったのだ。悲しませることなんかしたくない。涙を流す姿も見たくない。本当は周りのやつらにオレの彼女だって自慢したくて堪らないし、今オレの気持ちがどんなに満たされているのか惚気てやりたくてたまらなかった。
 アパートにたどり着くと、勢いで乱暴に自転車を止めて階段を駆け上がる。

「名前!」

 ちょうど部屋の前で鍵を開けようとしていた彼女の姿を見つけて、咄嗟にオレは名前を呼ぶ。ビクリと大げさに肩を揺らした名前が、驚いた様子でこちらを振り向いた。
 普段はしていないアンバランスに大きい眼鏡を掛けた彼女は、目を大きく見開いてオレの姿をみとめてから、ゆらゆらと視線を地面へと下げる。

「話、してえから時間くれ」

 彼女が小さく息を飲む。困ったように下がった眉尻と、伏せられた視線が今度はななめ下へと泳ぐ。ゆらゆらとまつげが揺らぐ。よく見ると、少しまぶたが腫れているようだ。

「ええと……私の部屋でいい?」

 か細い声で発されたその言葉に「おう」と返事をする。どうぞと会釈されて何度も入ったことのある部屋へ入った。
 彼女の顔色は悪く、いつもは健康的な桃色をした頬がすっかり血色を失っている。それなのに「ごめんね、ちょっと散らかってて」と明らかに無理をした笑顔を見せながら、床に落ちている衣服を片付けつつマフラーを外すしている。
 こんな表情をさせているのは他ならぬオレ自身だ。そう自覚したら、ほぼ無意識に彼女の腕を引っ掴んでいた。それから強引にそのまま自分の方へと引き寄せる。驚いたような声をあげる彼女を無視して、その白い首筋に顔を埋める。自己満足で強引で、そしてどうしようもなく独りよがりだと思う。でもそうせずにはいられなかった。

「オレはおまえのことが、名前のことがすげえ好きだ。めちゃくちゃ大切なんだよ」
「え、三井くん……?」
「ホント悪かった、そりゃそう受け取るよな」

 取り繕う余裕なんてなかった。いや、むしろ今は取り繕う必要なんてない。どんなに稚拙でどんなに幼稚な言葉でも、たとえそれが一から十まで言い訳くさくても、今はただとにかく自分の気持ちを伝えたかった。伝えないといけなかった。
 オレがどれほど彼女のことを大切に思っているのか、それを言葉にして伝えるのは自分で思っていたよりも遥かに容易だった。なぜならば、情けなくてカッコわるいありのままを吐き出すだけでいいのだから。

「カノジョできたとかそういう話したら、やれどいつだの紹介しろだの始まって、名前が巻き込まれて困ると思ってたんだ。でも、そんな気ィ回すよりもっと気にすることあったよな」

 何よりも大事なおまえの気持ちを一番に考えないといけなかったのに、と続ける。抱き締めている彼女の体が、ふるふると小さく震える。

「う、うそぉ……」

 か細く震える声で彼女が言った。そうして、ずるずると力が抜けたようにへたり込む。オレは彼女を支えながら一緒に床に座る。

「あはは、腰ぬけちゃった……」

 床にぺたんと座り込み、ぽかんとしている彼女は自分の頬に触れながら呆けた様子でオロオロと視線をあちらこちらへと泳がせている。

「……私ね、この関係は終わりだよって言われるの覚悟してたの。そうじゃなきゃ私が言わないとって、バスケ頑張ってねって。でもこれからも応援だけはしてもいいですかって」

 そう言おうと思ってたの、と彼女が言う。その声が徐々に震えてくる。
 彼女は腿の上に乗せていた怪我している方の手をぎゅっと握っている。オレはその手に触れながら言葉を待つ。おそらく、今にもしゃくりあげそうになるのを我慢しているのだろう。ふう、と呼吸を整えながら一生懸命に言葉を紡ごうとしているのがわかる。もう我慢せずに力いっぱい抱きしめてやりたい衝動に駆られたが抑えた。

「でも、三井くんのためだからって思えば思うほど大好きって思っちゃうし、それを自覚すればするほど辛いし、頭の中もぐちゃぐちゃで、もうどうしたらいいかわからなくて」

 心臓を鷲づかみにされる、という言葉がピッタリ当てはまる。これまた女々しい表現になってしまうが、きゅんとするというのはこういうことを言うのだろう。目の前で涙を堪えながら鼻の頭を真っ赤にして、必死になって言葉を伝えようとしている姿が愛おしくてたまらない。
 あえて言おう。オレはもうとっくに、後には戻れないぐらいこいつに夢中だったんだ。笑われてもいい、どうしようもないぐらいに好きだ。わかりやすい言葉を使うなら、そりゃあもうベタ惚れってやつだ。

「責めるわけじゃねえけど、オレは好きだってのも傍にいてほしいってのも、その、付き合おうってのも、ちゃんとこないだ伝えてたぞ」
「だ、だって私、自分に自信なんてないもん! 三井くんみたいにかっこよくて人気あって優しくて男らしい人が、なんで私を選んだのかなんてわからない!」

 思わずごくんと息を飲む。なるほどわかった、それならばもうオレがすべきことはひとつ。どうしてか自己評価が低すぎる彼女が安心できるまで、何度だってしつこいぐらいに伝えてやるのみである。

「だーもう! オレはな、おまえの中身も顔も体も声もぜんぶ好きなんだよ! そりゃもうどうしようもないぐらいにな!」

 彼女はかっと目を見開いて、今度はわなわなと唇を震わせた。目の下がじわりじわりと紅潮している。あんぐりと口をあけて、何か言いたげにその唇がゆれる。

「や、やだ、なに言ってるの……!?」
「わかるまで何度でも言ってやる、オレはおまえの、名前の全部が好きなんだよ! 好きで好きでたまんねえ!」
「まって、まって三井くん、ちょっとおちついて」
「もう待たねえぞ! 待ってやるかってんだ!」

 いつもより白い彼女の肌が瞬く間に朱に染まっていく。自分がどれだけ恥ずかしいことを言っているのかなんて、最早わからなかった。でも、知るかそんなもん。
 半ばヤケになりながら、それでもオレは彼女の肩を掴んでその目から視線を外すことはしない。わかったか頑固者。頼むからそろそろ受け止めてくれ。まるで喧嘩しているみたいに言葉を投げつけて、オレはいつの間にか肩で息をしていた。ひと呼吸おいてから続ける。

「オレは、名前から離れる気もねえし離す気もねえ。だから名前も離れんな」

 こんなしょうもないことで大事な存在を手放したくはない。これからも続いていくはずの毎日に彼女がいないだなんて、そんなことはもうとっくに考えられなくなっていた。
 困ったように眉根を寄せて、ぎゅっと口を結んだ彼女が控えめにこくんと頷く。その瞳にはビー玉みたいに涙が溜まっていたけれど、彼女はそれがこぼれないよう、必死に堪えている様子だった。もう泣かせねえって決めたけどこれは多分、悲しくてじゃないはずだからノーカンだよな、と誰に言うわけでもなく心の中で呟いてみる。

「もう不安にさせねえから」
「うん」
「だからおまえも自信持て、オレが好きになった女だぞ」
「……すごいセリフ。努力します」

 大丈夫だって言ってんのに、と思ったがそれはあえて口にしなかった。こいつが不安を感じたのなら、その時にまた伝えてやればいいだけだ。そんなことは全然苦ではない。まあ、こっ恥ずかしくはあるけれど。
 このあいだ怪我したはずの彼女の手のひらは、ずっと握りしめていたせいか大きめの絆創膏に少しだけ血がにじんでしまっている。

「そうだ。詫びとかじゃねえけど、なんかやりたいこととか行きたい所とかあれば言えよな」

 いくらでも時間空けるから。そう言うと、彼女は即座に「えっとね、実は」と声を発する。どうやらすぐに思いついたらしい。その後の言葉を促すように、彼女のことを覗き込んで頷いてみせる。

「ちょうど昨日ね、ぼんやりしながら大通り歩いてたらイルミネーションがすごく綺麗だったの。三井くんと一緒に見られたらいいなあって思ったんだけど、その時はまあその……気持ちが落ちてたので」

 彼女は「もう三井くんと見たいなんてわがまま言えないし、叶わないしって思ってて」と続ける。ああ、もうなんだこれ。なんだこいつ。これ以上オレをどうしたいんだ。そんなの、今すぐ叶えてやるしかねえだろ。時間を無駄にして悔しい思いをするのは二度とごめんだ。

「駅前だったよな、今から行こうぜ」

 パチンと手を叩いてから立ち上がると、あっけに取られた様子の彼女が「え、えっ?」と何度も瞬きをしながら声を漏らす。ほら、と小さい子どもにやるように脇の下に手を入れて立ち上がらせ、先ほど脱いだコートを拾って着させた。 

「外、すげえさみーからな」

 されるがままになっている彼女に、わざと顔面を覆うようにぐるぐるとマフラーを巻きつけてやると「あそばないで!」と不満そうなもごもごとした声が聞こえてきたので少し笑ってしまった。マフラーに埋もれた彼女はそれをかきわけながらちょっとだけムスッとしていたが、オレの顔を見ると照れたようにはにかんでみせた。だから、そういうところだっつーの。

「……なんなんだよおまえ」
「っていうかそれ私のせりふなんだけど」

 これ、とマフラーを直している彼女は少しだけ口を尖らせている。
 いまこうしてじゃれあっていることが、そのしあわせが保たれたことに安心しながら、今回ばかりは気を利かせてくれた後輩に心の底から感謝する。もうラーメンでもなんでも奢ってやる。なんやかんやで心配してるだろうし、あとで連絡いれとかないとな。
 じゃあ行くぞと彼女の手を引っ掴み、指と指を絡ませる。恥ずかしそうに顔を伏せるその表情を見て、空いている方の拳を握ってちょっとだけガッツポーズをしたら駆け足気味に部屋を出た。


***


「うう、だめかも……」

 人通りの多い大通りをゆっくりと歩きながら、上を見上げた彼女がそう呟いた。吐く息は白く、冷たい空気が頬を撫でるたびピリピリと痛みにも似た感覚を覚える。それでもつないだ手だけは暖かいような気がする。

「どうした? マジで具合悪いのか?」
「ううん、違うの。えっと、横をみると三井くんがいて手をつないでくれてて、上をみるとイルミネーションがきれいで、周りもなんかキラキラしててその中にいると」

 彼女は「また泣きそう」と小さな声で漏らしながら、空いたほうの手で頬に触れている。

「なあ、オレずっと思ってたんだけど、名前マジで涙腺弱いよな」
「自覚あるから鍛えたいんだけど、涙腺ってどうやって鍛えたらいいんだろ。筋トレとかできるのかな」

 笑かそうとしているのかと思いきや、どうやら本気で言っているらしい。それなら感動する映画とかドラマとかひたすら見たりすりゃいいんじゃねえの、それ見て耐えるとか、と適当に思いついたことを提案してみたら、こいつは「その手があったか!」みたいな顔した。

「バーカ、そんなんで鍛えられっかよ」
「え、うそ! からかった!?」

 そんな感受性が豊かすぎるところも、人の言葉を鵜呑みにするところもいいなって思うポイントだが、とりあえずそのことはまだ言わないでおいていいかもしれない。
 彼女が並んで一緒に歩きたいと言っていたこの道はいつもと様変わりしている。普通の駅前商店街なのに、この時期だけ電飾でキラキラと輝く様は確かに心に訴えかけてくるものがあった。いままでどこかでイルミネーションを見たって心動かされることなんかなかったのに。
 こんな気持ちになったのはおそらく、いや間違いなく彼女と、名前と一緒に歩いているからだろう。絡ませた指に少しだけ力を入れてみたら、控えめに彼女が握り返してくる。

「今すぐ抱き締めてキスしてやりたいけどめっちゃ我慢してる」
「な、なに、ちょっと、三井くん、ちょっとおかしいよ……!?」
「別におかしくねーよ、帰ったら覚悟しろ」

 何を想像したのか、名前はマフラーで口元を隠しながらなにやらモゴモゴ言っている。外は寒いが心の中はぽかぽかしていて、こいつが横にいてくれるなら冬もいいもんだと思えてくる。またお鍋したいね、なんて笑う彼女の姿を見ながら、このしあわせがずっと続いたらいいなんて、柄にもなくそんなことを思った。
 クリスマスの足音に浮き足だつ街の中、溶け込んだオレたちの姿はきっとこの風景によくなじんでいるだろう。イルミネーションに負けないぐらい目をキラキラさせている彼女の表情を忘れないように、そしてこの手が離れていくことがないように、オレはもう一度強く彼女の手を握った。


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