13.

 ぱち、と目が覚めて枕元の時計に目をやると、時刻は朝の八時過ぎ。
 ぼんやりとする視界の中、もぞもぞと布団の中で体を動かすと暖かくてかたい何かに手が触れた。なにいまの、と確認するために目を擦りながら布団をめくってみたら、途端に私の頭は夢から現実に引き戻された。叫びそうになるのを抑えるために両手で自分の口を覆う。
 そう、三井寿その人が眠っていたからだ。
 その瞬間、全ての出来事が一気にフラッシュバックして何が何だかわからなくなる。昨日の出来事をもう一度順番に思い出してみよう。そうだ、私はこの人と。
 今すぐ部屋を飛び出して、全力疾走しながら絶叫したい衝動に駆られる。しかし、静かに眠る彼の姿を見て必死にそれを堪え、息を整えながらゆっくりと布団に潜り直した。
 まずは深呼吸。そして、確認するために布団から顔を出す。三井くんの寝息は意外にも静かで、布団の上に鍛えられた二の腕を出してすやすやとその胸を上下させていた。半開きの口と穏やかな表情。眠っている時はいつも眉間に寄っている神経質そうな皺が消えている。
 この人、寝てるときはこんな顔してるんだ。じーっと観察していると、ちょっぴり間抜けで年相応の男の子っぽい寝顔をかわいいなあと思ってしまう。意外にほっぺたが柔らかそうだ。つついたらきっと起きちゃうよね。ていうかもしかして昨日触ったりしたっけ。
 ここまで考えて私は再び昨夜のことを思い出し、恥ずかしさのあまり一人でジタバタ暴れそうになった。が、そうしたい気持ちを再び堪える。それこそ、気持ちよさそうに寝ているところを起こしてしまうに決まっているからだ。

「……だから見すぎだっての」
「うえっ!?」
「今度こそ見物料取るからな」

 以前聞いたようなセリフだ。いつの間にか目を開けていた三井くんは、柔らかい笑みをこちらに向けながら私の頬に触れ、穏やかな声音で「おはよう」と言った。
 ああだめだ、寝起きの笑顔が眩しい。眩しすぎて直視できない。昇っている朝日よりも、この朝一番の笑顔の方が眩しいんじゃないだろうか。きっとそうに違いない。

「あのよ、もう名前はオレの……ってことでいいんだよな」

 横になりながら、肘をついて頭を支えている三井くんがそうストレートに聞いてくる。オレの、という言葉に心臓が飛び出るんじゃないかというぐらい胸が高鳴った。なんという殺し文句だろう。
 すごくうれしい、そうなれたらいい。けれど、私はすぐに頷くことが出来なかった。唇をぎゅっと結びながら彼から視線を外す。
 昨日はあんなことがあって、ついうっかり想いを伝えてしまった。怖い目にあってブルブル震えてグスグス泣くばかりだった私を、三井くんは助けてくれただけじゃなく、落ち着かせて慰めてくれた。ずっと傍に居てくれた。そうなれたことは、例えその場の勢いだったとしてもうれしかったし、ここ何年かでいちばんだって言い切れるぐらいしあわせだった。
 それでも、彼は私なんかに構っていてはいけなくて、それよりも大事なことがあるということをちゃんと理解していた。だから気持ちを伝えないと決めたのだから。彼が目指すべき未来への道程の途中で、重荷になるようなことは絶対にいやだ。

「……私は、三井くんがバスケやる邪魔になっちゃうと思うし、そうなるのはいやなの」

 彼がとても優しい人であることを私はよく知っている。きっと、バスケをしながら私のこともしっかりと考えて大切にしてくれるに違いない。だから間違いなく負担になってしまうに決まっていた。
 続きを言う前に、三井くんが「なんでそうなんだっつーの」と不機嫌そうに言ったことで言葉が遮られてしまった。

「邪魔どころか、名前が応援してくれてるって思うとめちゃくちゃモチベーション上がってんだぜ」

 訝し気に目を細め、こちらをのぞき込んでくる三井くんと視線を合わせる事が出来ない。
 すごく、すごくすごくすごくうれしいことを言ってくれているのに、素直に受け止める事が出来ない。だって、この人の中で私がそんな存在になれているだなんてとても思えないからだ。

「私は、三井くんのお陰で毎日がすごく楽しい。けど、でも」

 言葉を紡ぐたびに、声を発するたびに喉の奥が詰まって苦しくなる。「けども、でもも、だっても知らねえよ」と三井くんは言った。

「そんなんお互い様だろ。邪魔なんかじゃねえ、むしろ真逆」

 好きだからそばにいて欲しいって思っちまうんだよ。そう言って、その意志の強い視線で私のことを見据えてくる。強引で乱暴で有無を言わない強さを感じるのに、その視線はどこまでも真っ直ぐで、どこまでも真剣だった。
 だめだ、わかっていたはずなのに。私は三井くんの真っ直ぐな言葉と瞳にとんでもなく弱いのだ。すぐ泣きそうになってしまう事が悔しい。なんとかならないかなあ、この緩すぎる涙腺。

「改めて言うぞ、オレと付き合ってほしい」

 胸がぎゅーっとして、もうしんじゃうんじゃないかと思うほど苦しくなる。だけどそれは痛みでも不愉快な気持ちでもなく、苦しいはずなのに幸福感でたまらなくなった。
 気づいたら、私はこくこくと必死に頷いていた。
 こんなにしあわせなことがあるだろうか。そもそもこれは夢なのかもしれない。そう、まだきっと夢の中なんだ。昨日はいろいろあったからすごく疲れていたし、だからこんな夢を見ているんだ。しあわせの絶頂で目が覚めて、願望が夢に出てきちゃったって絶望するに違いない。
 目の前にいる三井くんが「めっちゃ照れるな」と笑いながら私の頭をぽんぽんと強めになでてくる。あたたかい手のひら。私を助けてくれた優しい人のぬくもり。彼の体温がこの瞬間を夢ではないと教えてくれる。
 ほんとうのことだって、夢じゃなくて現実だって、信じちゃってもいいのかな。

「……ほんものだ」
「ほんもの?」
「あのね、しあわせすぎていつ目が覚めちゃうんだろうってこわくて、これも、いまこの時もぜんぶ夢なんじゃないかなって」

 私の方をじっと見て話を聞いてくれていた三井くんがはぁ、と盛大にため息をついた。

「………もう勘弁してくれよ」

 そう言うと、三井くんはむくりと起き上がり、間髪入れずに私の腕をグイッと引き寄せた。驚いて声を上げる間などなく、キスで否応無く口を塞がれる。混乱して頭の中がぐちゃぐちゃになった。
 思いのほか長いキスは私の体の力を抜くのには充分で、酸欠で朦朧とする頭と、角度を変えた時に漏れた三井くんの色っぽい吐息でもうどうにかなってしまいそうだった。
 やっと解放されたとき、私の目の前はチカチカと星が飛ぶ有り様。逆に三井くんはぎゅっと眉間にしわを寄せたいつもの不機嫌そうな表情だった。ただ耳が真っ赤なことを除けば、だが。

「……これでも夢だって思うか?」

 現実でした、ごめんなさい。
 そんでもって、なんなんだこの人は!
 昨日のこわい出来事も、そのあとのやりとりも、あの時のキスも、そしてその後のことも、ぜんぶぜんぶ現実で。このしあわせは夢じゃない。私が大好きな目の前のこの人も、間違いなく私と同じ気持ちなのだ。

「……三井くん、耳真っ赤」
「そっちも顔真っ赤だからな」

 こつんと額を小突かれるが、それが彼の照れ隠しだとわかる。先ほどの強引な口づけにもかなり照れがあったことが伺える。でも、私は彼のこういうところがとてつもなく好きで好きで仕方がない。

「つーわけで、その三井くんて呼び方止めね?」
「え、名前でってこと? いきなりは無理だよ……」
「無理じゃねえだろ、昨日は呼んでくれたのに」
「……ねえちょっと、なんでそんなこと覚えてるの」
「忘れられるわきゃねえだろ、健全な男子大学生だぞオレは」
「な、なにいって」
「あー、キスしたり思い出したらなんか……痛ってえ!」

 私は三井くんが言うであろうその後の言葉を聞きたくなくて、思わず傍にあったクッションを渾身の力で彼の顔面に向かって投げつけた。

「はやくシャワー浴びてきて! 午後から練習あるんでしょ!」
「はいはい、わーった、わかりましたっと」

 頭をボリボリかきながらズルズルと緩慢な動きでベッドから抜け出た三井くんはくあっと大きくあくびをした。彼の姿はボクサーパンツを履いただけで上半身は裸である。明るい所で改めてこうして見てみると、普段から鍛えているだけあって筋肉がしっかりと付いた男らしい体だ。遠慮なくまじまじと見つめていたら途端にとんでもなく恥ずかしくなってきた。何を考えているんだ私は!
 布団を被り、勝手にわたわたしている私を不思議そうに見つめていた三井くんは「シャワー借りんぞ」と脱衣所に入っていった。
 シャワーの音が聞こえてきたのを確認すると「うわー!」と再び叫び出したくなる気持ちを我慢して、ベットにうつ伏せになりながら足をばたつかせる。暴れないとやっていられないほど、頭の中が様々なもので飽和状態だった。こうしてジタバタして発散させないと、きっと爆発してしまうに違いない。
 だいすきな人が私とおんなじ気持ちだった。そして昨日気持ちが通じた。さっき改めて思いを確認し合った。決していいきっかけとは言えないけれど、今のこのしあわせは夢じゃない。うつ伏せのままぐっと右手を握る。
 そろそろ起きて、お腹が空いているであろう彼のために朝食を用意しよう。脱衣所にバスタオルも置いておいてあげよう。
 私は適当なパーカーを手に取りそれをキャミソールの上から羽織ると、火照る顔をぱたぱたと手で仰ぎながらベッドを出た。


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