12・5.
( 三井視点 )

 彼女の涙はいつも違う。
 最初のときは感動だったらしい。オレの試合をみて気付いたら涙が止まらなかったと、そう言っていた。二回目は恐怖からの生理的なものだと思う。どれだけ怖かったろう。抱きしめると、ガタガタと震える体は驚くほど小さかった。
 それで、今だ。
 貪るように唇を食んだら、漏れる吐息がオレを急かす。まつげの先が涙で濡れていて、やわらかく閉じられた目尻を雫が伝う。その跡を親指で辿りながら、オレの下にいる彼女の表情をまじまじと眺めたら桃色に紅潮した頬があまりにも扇情的だった。ぱち、と開いたまぶたの奥、とろんとしたその瞳はゆらゆらと揺れている。浮かされたような表情で、何かを言いたげに口が動いた。

「っ、……みついくん、すき」

 ああ、どうすんだよもう。オレをどうしたいんだこの女は。

「なぁ名前、名前で、呼んでくれねえ……?」
「……あっう、ひ、ひさしくん……!」
「ああそれ、めっちゃクる……!」

 白く浮かび上がったむき出しの首筋にたまらず顔を埋めると、独特の甘い香りがした。香水とかボディーローションなどではない。むせ返るようなその香りと、目の前の光景に脳みそからドバドバと何かが溢れ出ている。

「ひさしくん、すき、だいすき」

 そのセリフはあまりにも直球で脳みそがクラクラした。せり上がってくるものを抑えたくて、やり過ごすように天井を仰ぐ。わざとやっているのか無意識なのか、するすると何かを求めるように彼女の脚がオレの腰に絡みつく。
 この時がずっと続けばいい。夢みたいで、どうしても現実だとは思えないからだ。
 ぱん、とはじけたようにのけぞった彼女の白い腹に触れる。このぬくもりも、オレの名前を呼ぶ声も、夢ならどうか醒めないでほしい。

***

「もしかして、ペンない?」

 あの時、おずおずとオレの顔を覗き込んできた彼女の表情はいまでもはっきりと思い出せる。
 どちらかというと目立たない感じの、でも穏やかな雰囲気のある女だなと思った。講義中は前を向いてはいるものの頬杖をついてぼーっとしているし、声をかけたときもぼんやりとした印象だった。でもそれを不愉快に感じたわけではなくて、特別なにかがあったというわけでもないが、今思えば最初から彼女への印象はわるくなかったのだと思う。

「またな」

 講義が終わり「じゃあお先に」と席を立った彼女に、オレはなぜかそう声をかけていた。他意はない。なかったはずだ、たぶん。いや、今となってはもしかしたらもう、その時にはもう興味があったのかもしれない。
 もらったボールペンは彼女の言うとおりそこらへんで売っているありふれた普通のものだったけれど、どうしても手放せなくてペンケースの中にしまって結構使った。

 そのあと何日か経って、なんとなく図書館をぶらついていた時に見覚えのある姿が視界に入った。声を掛けると、彼女はあの時と同じように驚いた表情で目をぱちくりとさせた。
 いつの間にかオレはボールペンの礼だとかなんとかと言って彼女のことを図書館から連れ出していた。カフェスペースで他愛もない会話をしていたら、時間なんてあっという間に過ぎてしまっていた。
 半ば強引に誘われた飲み会ではちあったのも偶然だった。
 その帰り道、よろめいた彼女の体を支えた時は少しだけ背筋がヒヤッとした。やはり送ることにして正解だったと思う。意識ははっきりしているようだったが、それとは反比例するように体のほうはヨロヨロだ。
 小さく「ごめんね」と真っ赤な顔で言われたときも、オレの出した腕に控えめに掴まってきたのも正直かなりグッときてしまっていて「ああこれはもうダメかもしんねえな」と無性に頭を掻きむしりたくなった。
 そして、彼女が足を止めて「ここなの」と指を指したその建物は、なんとオレの住むアパートだったのだ。こんなことありえんのかよ、と思考が追い付いて行かなかったが、まあ実際そうだったのだから仕方ない。 

 次の週、講義で顔を合わせた彼女はその時の礼がしたいと言った。
 別に礼を返してもらうほどでもない、結果的に帰路は全く同じだったわけだし、男として当たり前の行動をしただけだったからだ。でも、会話の中で彼女が普段から自炊していると聞いて思いついてしまった。

「オレは手料理に飢えている」

 ダメで元々、半分冗談。そんなつもりで提案をしたら、驚くほどスムーズに了承をもらってしまった。自分で言い出したくせに、あまりにもすぐ「いいよ」なんていうものだから思わず「ホントにいいのかよ」なんて確認してしまった。
 それを楽しみに練習に励んだ。練習が終わってクタクタになりながらシャワーを浴びていたら、横のブースにいた宮城に「三井さん、このあとメシどっスか?」と誘われたが「今日はムリ」とさっさと振りきってチャリをかっ飛ばした。
 すこしだけ緊張しながら部屋のインターホンを押したら、ぱたぱたと出てきた彼女はあろうことかオレの手を引っ掴んで中に招き入れた。いや、つーか普通にダメだろ、女が自分の部屋に男を招き入れるとか!
 もともとタッパーかなにかに入れたものをもらおうと思っていたオレは、全力で遠慮する姿勢を示したが、彼女の意志の方がオレのなんかよりもよっぽど固かった。根負けして部屋に上がると、ソワソワと落ち着かない様子を笑われてしまった。だってしょうがない、あの時は本当にどうしていいかわからなかったのだから。
 もしかして、男だと思われていないのだろうか。そんなことを考えて、ちょっとモヤモヤしながらも口に運んだ手料理は驚くほど美味かった。
 これが自分のわがままだっていうことも、彼女に迷惑をかけてるのもわかっていたが、ありがたいことにそれからたびたび一緒に夕飯を食べるようになった。たったそれだけなのに、めちゃくちゃに日常が潤っていく気がした。
 いい環境でバスケをやれている。今は学業の方もそれなりに頑張っているつもりだ。高校三年の夏前から今まで、過去を取り戻すようにがむしゃらに走り続けて来たせいか、それ以外の事や周りの様子に目をくれる余裕なんてなかった。
 自慢じゃないが、大学に入ってから女子から言い寄られたことは何度かあった。そういうつもりで寄って来ているんだろうということはすぐに分かった。でも、オレにとってはそんなことどうでもよかったし、バスケをしている方が何倍も何億倍も重要で、そもそも面倒くさいから自分には関係ないことだとさえ思っていたのに。
 オレ、おかしくなっちまったのかな。笑いがこみあげてくる。いつの間にかアイツのこと、めちゃくちゃ好きになっちまってるじゃねえか。
 隣でぼんやりとテレビをみつめる彼女を見ながら思う。オレがこんな風に思ってるなんて、こいつはちっとも気付いてねえんだろうな。

「……ん? どうしたの?」
「いーや、口半開きでアホみたいなツラしてんなと思ってよ」

 むっとした表情で目を細めた彼女は、不機嫌にふいと顔をそらした。こうやって穏やかな時間を共有しているだけで充分だった。
 頬杖をついたその頬がやわらかそうだとか、耳にかけた髪の向こうにみえた白い首筋がちょっと色っぽいだとか、そんなことを考えてしまって、オレは雑念を払うために軽く首を振った。しかし、そればかりは仕方ない。抗えない男の性、どうか許してほしい。
 そんな彼女が、予告もなく試合を観に来ていたときはめちゃくちゃに動揺した。加えてその姿を見つけた時に目を真っ赤にして泣いていたから余計にだ。

「……なあ、オレは、」

 おまえのことが好きなんだ。そう口走りそうになって、はっと我に返って口をつぐんだ。
 行き交う観客、ユニフォームのまま汗だくの自分。こんな落ち着かない場所で言うべきことではない。目を赤くして、鼻をすすりながらキョトンとしている彼女を見て冷静になる。
 彼女がオレのことを単なる同級生で、たまたま同じアパートに住んでいて、同じ講義を取っている学生としか思っていないとしても。それでも、この気持ちはいつかちゃんと落ち着いたところで伝えられたらいいと思った。
 玉砕したら、もう同じ時間を過ごせなくなるのかもしれない。
 自分が色んな物を失うことに過敏になりすぎていると度々感じていた。高校の時、怪我をしたことから自分の居場所が無くなったと思い込んだ。大切だった、オレのすべてだったものを投げ出して自暴自棄になった。
 それから、その場所に戻ってきた自分の体たらくにどれだけ失望して、どれだけ後悔しただろう。失った時間は戻らないし、あのときああしてればなんて、あとから後悔したって過ぎ去ったあとではすべてが遅い。
 行動しないでする後悔より、行動して後悔したほうがいい。オレは誰よりもそのことを知っているはずだ。

 彼女が暗がりに連れ込まれる姿を視界に捕らえた時は頭が真っ白になった。と同時に、やっぱり一人で暗い道を返すんじゃなかったという自分への憤りと、タイミングの悪さにやりようのない怒りが湧き上がってきた。
 逃げて行った男を追いかけて、とっ捕まえてボコボコにしてやりたかったが、奴を追いかけるよりも彼女の傍に駆け寄る方が何よりも優先すべき行動であるとちゃんとわかっていた。
 擦りむいたらしい膝はかすり傷だったが、手のひらの方が深く肉が抉れている。患部に脱脂綿を添えて消毒液をかけると、ビクリとあからさまに反応していた。
 ただただ心配だった。ぼんやりしていて危機感がなさそうなところも、素直すぎて人のことを疑わなさそうなところも。
 あんなことがあったあとで、男と一緒にいるなんて本当は嫌だろう。恐ろしいに決まっている。もしかしたら嫌われてしまうかもしれない。それでも、彼女がちゃんと無事で、そしてちゃんとここにいるということを感じたかった。
 突き放されてもいい。
 でももし許されるなら、受け入れてもらえるのなら。

「少しだけこうさせといてくれ」

 ただただ抱きしめたかった。それは彼女の震えを止める為だけではない。どうしようもなく自己満足に、ただ自分が満たされたいが為にそこにいるぬくもりを感じたかった。
 しばらく微動だにしなかった彼女の腕がオレの背中に回る。

「だいすき」

 今、なんつった?
 オレの脳みそは間抜けにもその言葉の意味を理解できなかった。
 抱きしめていた彼女の体をゆっくりと離して、肩をつかんだままその顔をじっと見つめる。
 彼女はいつもようにちょっとぽやっとした表情で「ん?」と首を傾げ、不思議そうな顔をしていたが、途端に目を見開いてわなわなと震え始めた。見る見るうちに顔を青く、そして白くさせたかと思うと、瞬く間に耳まで赤面してしまった。
 つまりこれは、そういうことだって受け取ってしまってもいいのだろうか?
 うれしくて信じられなくて、心の中でガッツポーズをしてしまう。「よっしゃー!」と叫びたくなる気持ちは寸でのところで抑えられても、緩む口元と上がる口角を抑えることは出来なかった。
 オレの方がきっと、先に好きになっている。最初から惹かれる予感はしていたのだから。今のが本心なら、言葉なんてなくてもいい、ただ頷いてくれるだけでいい。

「めちゃくちゃ好きだ」

 そう伝えると、みるみるうちに彼女の瞳に涙が溜まっていくのが見える。そんなにぼろぼろ泣いていたら脱水になってしまうんじゃないだろうか。オレはその涙が伝う頬に触れた。
 彼女はこくんと頷いて、その濡れた瞳のままオレの目を真っ直ぐに見つめ返してくる。
 ずっとその唇に触れたかった。柔らかさを知りたかった。彼女の力が抜けていく。触れた唇が離れる瞬間、息が漏れる。また触れて、柔らかく重なって、それから塞ぐ。それを何度繰り返しただろう。

「名前」

 ずっと呼びたかった。
 噛みしめるように彼女の名前を呼びながら、沈み込んだベッドの上、そこからはもう止まれなかった。

 ***

「いやー、よかった」

 横でうつ伏せになって静かに目を閉じていた彼女がばっと体を起こし「おじさんくさい!」とオレの額を叩いた。思ったよりも強めにぴしゃりと叩かれて、痛む額を抑えながら「ちげーって!」っと言い返す。

「あーなんだその……そっちはもちろん最高だったんだけど、ってうわ暴れんなよ」
「ああああ! なんてデリカシーがないの! もうしらない!」

 手をぶんぶんと振り回す彼女の手首を引っ掴み、どうどうと窘める。顔を真っ赤にして怒る姿にはこれまた嗜虐心をあおられるものがあったが、ここは一旦抑えることにする。

「名前と同じ気持ちだったってことがさ、よかったなって思ったんだよ」

 伝えられた好意の言葉が頭のなかで反芻する。
 それはおそらく、彼女が口に出そうと思って出てきたものではなかったのだろう。とっさに零れてしまった本心。だからこそ、オレは余計に浮かれてしまっていた。
 最中に彼女の緩んだ口から漏れたその言葉のせいでさっさと気をやってしまいそうになったのを何度耐えただろう。しかし、その言葉はオレの方から伝えたいと思っていたので悔しい気持ちが多少なりともあったわけで。
 とにもかくにも、やはり順番というものはある。止められなかったし、止まらなくて勢いで進んでしまったが、男としてしっかり真正面から向き合いたい。ノリで及んだ事ではないとしっかり伝えておきたかった。

「順番おかしくなっちまったけど、オレと付き合ってほしい」

 しばらく待ってみたけれど返事がない。どうしたのだろうと横にいる彼女の方を伺うと、いつの間にか柔らかく目を閉じ、すやすやと静かな寝息を立てて眠ってしまっていた。
 いや、いやいやいやいや、ちょっと待て。今オレめちゃくちゃ大事な事言ったぞ。おやすみ五秒って小学生かよ。
 呆れる気持ちと、無理をさせてしまったのだろうかという罪悪感を感じながら、穏やかに眠る彼女の頬をつつく。彼女らしいといえば彼女らしいかもしれない。警戒心もなにもない、子どもみたいに小さくなって眠る姿は少し幼く見える。

「……今の、もっかい言うのか?」

 小さくぼやきながらひとつ息を吐く。
 彼女の規則正しい寝息は、オレのことを眠りの世界へ誘おうとしているようだ。満たされた気持ちと比例する心地いい疲労感のせいか、くあっと大きなあくびが出る。
 なあ、神様ってもんがいるなら聞いてくれ。いい夢なんて見せてくれなくたっていい。ただ、目が覚めたときにこれが夢でしたーってのだけはどうかナシでお願いします。
 ガラにもなくそんなことを願いながら、オレもゆっくりと目を閉じた。


[*前] | [次#]

- ナノ -