5-3. 神室シアターの上階にある屋上庭園を後にした私たちは、杉浦さんの立てたデートプランを変更してぐるりと神室町を一周することになった。 というのも、神室シアターを出るとすぐに『目立つ通り、さらっと流してみよっか』という八神さんの指示がインカムに届いたからだった。 杉浦さんは「ん、オッケー」とそれに軽く返事をすると、じゃあ行こっか、とこちらを伺うように口角を上げて微笑む。それにこくんとひとつ頷いて同意を示しながら、相変わらず人の往来が止まない劇場前の様子を眺めたい気持ちをぐっと堪える。どこで見られているのかわからない中、なるべく不必要かつ不自然なアクションは起こさないようにしなければ。 細い路地やショートカットをすることはせず、敢えて人通りの多い道を選んで歩く。そして、盗撮犯が釣れたあとの最終目的地であるホテル街方面は避けるようにと八神さんから指示を受けた。 他愛もない会話をしながら中道通りを歩いていた時、無意識に八神探偵事務所へと続く路地へと視線が向いてしまった。 きちんとアポイントを取ってからリベンジとばかりに八神探偵事務所を訪れたあの時、海藤さんの大立ち回りを目撃したのはあの路地だった。そして、杉浦さんはあの時も海藤さんが投げ飛ばした男から身を挺して守ってくれた。 そこでふと思った。杉浦さんにとって私という人間は、危なっかしいトラブル引き寄せ女、みたいなイメージに違いない。なんとかそれを払拭したいけれど、そうするには私がこの街で起こる突飛なアクシデントに慣れたり、それを察知して回避したりする能力が必要になるだろう。しかし、それはとんでもなく長い道のりのように感じてしまう。 「なんか難しい顔してるけど、このぬいぐるみそんなに欲しいの?」 そう声を掛けられてはっとした。 いま私たちの目の前にあるのはいわゆるクレーンゲームである。そこでようやく自分が両手のひらを機械にぺったりとくっつけている状態であることに気づいた。 そのポージングは、機械の中に配置されている四角いネコのようなぬいぐるみに釘付けになっているようにしか見えなかっただろう。 なんとなく人の多そうな道を選んで街を練り歩いていた私たちは、ぐるっと一周したのち劇場前広場にあるクラブセガに入店していた。ゲームセンターに入るのなんていつぶりだろう。 慌てて「違うんです」の意味を込めて小刻みに首を振ってから、ふと気になってもう一度機械の中のぬいぐるみへと視線を戻す。 白や黒、水色にクリーム色、それにピンク色をした四角いネコのぬいぐるみたちは確か、八神探偵事務所のハンガーラック上に並べて置かれていたものと同じだ。 「このぬいぐるみ、八神さんの事務所に飾ってありませんでしたっけ?」 「言われてみれば見覚えあるかも。へえ、ゲーセンのプライズだったんだ」 探偵業が暇なときはこんなことしてるんだね、と独り言みたいに呟いた杉浦さんに対して、八神さんが『探偵事務所って場所から少しでも堅苦しさを拭おうとした結果だよ』と反論するように言う。 しかし、杉浦さんはその言葉に反応することもなく、何かを考えこむように配置されているぬいぐるみをじっと見つめている。 そのキャラクターがころにゃんという名称だということは、取り付けられているタグから知ることが出来た。側面にあるサイコロのような模様を見てその名前の由来を察する。どうしよう、見ているうちにかわいらしく思えてきてしまった。ブロックみたいに積んで部屋に飾ったら、なかなかの癒し効果が期待出来そうだ。 しばらくプライズであるころにゃんを眺めていた杉浦さんは、無言でズボンのポケットからコインケースを取り出すと、あっという間に硬貨を投入してしまった。彼はキョトンとしている私に向かって「まあ見ててよ」と笑ってみせる。 「一回じゃ取れないだろうけど、転がしてったら三回目くらいでいけるんじゃないかな……」 杉浦さんはそう言いながらアームを横にスライドさせるボタンを押し、次に横から機械の中を確認しつつ奥へと移動させるボタンを押した。 そのアームは黒いカラーリングのころにゃんの上ドンピシャに停止し、クレーンゲーム特有の音を出しながら下へと降りていく。開いていたアームが閉じ、見事に四角いぬいぐるみを抱え込む。 「あ、これ取れちゃったかも」 持ち上がったぬいぐるみは見事なまでの安定感で運ばれていき、開いたアームから取り出し口へと落下する。 ポカンとしたままの私にニッコリと笑って見せた杉浦さんの表情はどこか得意げで、彼は今落としたばかりのぬいぐるみを取り出すと「はいどうぞ」と私に手渡してきた。 転がして取る、なんて言っていたのに、最初から思いっきり正攻法で取っちゃうなんて。 「え、うそ……すごすぎませんか!?」 「実は僕、こういうの得意なんだよね」 「クレーンゲームのこと全然わからないですけど、普通こんなにぺろっと取れるもんじゃないですよね!? プロですか!?」 「あはは、そこまで褒められると気分良くなっちゃうなー」 手渡されるがまま黒いころにゃんを抱きかかえている私を見ながら、杉浦さんは再びゲームを進めていく。 中腰になりながら、配置されているぬいぐるみに真剣な眼差しを向けている彼を眺めながら思う。お仕事なんだってことはちゃんとわかっているのに、いま私の頭の中を占めてしまっているのは間違いなく楽しさだった。 クレーンゲームをやっている男性をこの位置で眺めていて、さらにすでに獲得した景品を持たされてるって完全に彼女の立ち位置じゃん、なんてぼんやりと考えているうちに、杉浦さんは追加のゲームで更にもう一匹のころにゃんを獲得してしまった。 「言ったでしょ、得意なんだって」 私が抱えている黒いころにゃんの上に、今しがた獲得したばかりの白いころにゃんを積んだ杉浦さんは、パチンと音が鳴りそうなほど見事なウインクをして見せた。 その流れるような彼氏ムーブに思いっきり撃ち抜かれそうになりつつ、いやいやいやいやと己を律する。だからお仕事なんだって、なんでコロッとときめいちゃってるの私。 見てくれがいいって罪だ、と思いながら、流されるものかと抗うように杉浦さんをじーっと見つめていたら、彼は「この色じゃなくて他のが良かった?」と検討違いに首を傾げてみせた。 「名前さんもやってみなよ。500円入れちゃったからまだあと何回かできちゃうし。これなんかちょっと引っ掛けたらすぐ落ちるよ。僕が指示するから」 いや私はいいです、と断ろうとする暇も与えず、杉浦さんは半ば強引に私をクレーンゲームの前に立たせると「これは僕が持っててあげる」と私が抱えていたころにゃんを引き取ってしまう。 「取れるわけないですって……」 「いいからいいから。離して、って言われたら押してるボタン離すだけでいいんだから」 もう硬貨は投入されてしまっている上に、まだゲーム数も残っているのでやるしかない。意を決して言われた通りにボタンを押し、離す。そうすると、先ほどのようにアームが下へ降りてくる。 しかし、アームに引き上げられたぬいぐるみは途中でバランスを崩し、転がり落ちてしまった。 クレーンゲームにビギナーズラックは無いよね、と定位置に戻ったアームを見つめる。すると、杉浦さんは励ますように私の肩を軽く叩いた。 「大丈夫だって。それにほら、ちょっと取り出し口に近くなったでしょ」 つまり、杉浦さんの言葉を要約すると「もう一度頑張れ」という意味である。 アームで掴めたとき、もしかしたらいけちゃうかもって思ってしまった。やる気なんて微塵もなかったのに、いざこうして向き合ってしまうと取れなかった悔しさが沸々してきてしまったのも事実で。 杉浦さんに頷いて見せ「また指示ください」と言うと、彼はニヤリと笑んでから「もちろん」と親指を立てて見せた。 「1押して……離して。よし、じゃあ次2ね」 言われた通りにボタンを押し、離す。取り出し口のすぐそばで転がっているころにゃんは、配置されていた時とは違い横向きに倒れてしまっているが、降りて来たアームは見事にそれを抱え込む。 無意識に両手のひらを合わせて指を組みながら、持ち上げられていくピンク色のぬいぐるみの行く末を祈る様に追う。 すると、再びバランスを崩したぬいぐるみはアームから落下してしまう。ああ、と落胆の声をあげた瞬間、落下と同時にぬいぐるみが転がり、吸い込まれるように取り出し口へと落ちていった。 「へ……?」 その時の私の顔は、どうしようもなく間抜けなものだったに違いない。 二体のころにゃんを抱えている杉浦さんは「ほら、出してあげないと」と呆気に取られたままの私を促しながら取り出し口を指差す。 「う、うそ……! 私も取れました!」 「うん、よかったよかった。煽っといて取れなかったらどうしようって一瞬考えちゃったよ」 私は言われるがままボタンを押しただけだけど、まさか本当に取れちゃうなんて。 腕の中にいるピンク色のぬいぐるみを見下ろしながら、思わず自分の口角が上がってしまっていることに気づく。 杉浦さんの指示が無ければ間違いなく獲得出来ていなかっただろうけれど、クレーンゲームにハマってしまう人の気持ちがなんとなくわかるような気がした。取れなかった時の悔しさと、取れた時の高揚とか達成感みたいなものは確かに病みつきになってしまうのかもしれない。 いつの間にかカウンターにいる店員から袋をもらって来ていたらしい杉浦さんが「ここに入れな」と袋を開けてくれている。先に獲得していた二体はすでにその袋の中に収まっており、私が抱えているピンク色のころにゃんもその中に追加された。 手渡された袋の中をじっと見つめると、三匹のぬいぐるみたちと目が合う。どうしよう、信じられないぐらいうれしいし、すっごく楽しかった。 ふと顔を上げるとこれ以上ないってぐらい優しい表情の杉浦さんが居て、私はなぜだか咄嗟に視線を逸らしてしまった。 「それじゃ、そろそろ出よっか」 「あ、はい!」 戦利品の袋をぶら下げながらゲームセンターを出て、また何となく並んで歩き始めた瞬間、インカムに届いたのは『杉浦と名前ちゃん、最高だよ』という八神さんの声だった。 「え?」 『バッチリ怪しい感じのやつ釣れてる』 っていうか実は最初の屋上庭園でもしかしたらって思ってたんだけどさ、と続けた八神さんの声を聞きながら、思わず辺りを確認してしまいそうになった。寸でのところで何とか己を律したものの、私たち二人を監視している人物がいるという情報を受け、背中に緊張を覚えてしまう。 「僕たちは歩き回った甲斐があったってわけだ」 『神室シアター出たとこじゃ確証なかったから少し歩いてみてもらったけど、ほぼ確定だろうね』 これ以降は間違っても後ろ振り向いたりしないように、と念を押すように言われ、思わずこくんと頷いてしまった。こういう挙動も気をつけなくてはいけない。 気にしすぎなくても大丈夫だよ、と軽く私の肩を叩いてくれた杉浦さんに頷きつつ、なるべく自然体を意識して歩くことに集中する。 いよいよ最終目的地であるホテルに向かい、今私たちの様子を伺っているらしい人物が盗撮犯であるならば現行犯逮捕、というわけだ。 そんな簡単に行くのだろうかと思っていたけれど、まさか初回で上手くいってしまうなんて。横を歩く杉浦さんの様子を控えめに確認すると、さすがとしか言いようが無いが動揺している様子は見受けられない。 私の視線に気づいた杉浦さんは「どうかした?」と伺うようにこちらへ顔を向ける。なんでもないです、の意味を込めて小さく首を振ってみせた。 「びっくりしたよ」 「え?」 「この作戦が一回で上手くいっちゃったこと」 八神さんから報告受けた時、思わずガッツポーズしそうになっちゃった、と言う杉浦さんの表情は確かにどこか嬉しそうで、そして少しだけ安堵しているように見えた。私のせいでこの人には多大なる心労を強いていたに違いない。 「杉浦さん、そういうの顔に出ないですよね」 「言ったじゃん、僕は名前さんの前じゃカッコつけてんの。それにしても、このまま上手くいっちゃったらデートするのもこれっきりだね」 杉浦さんは「ちょっと残念かも」と続けたが、果たしてそれが彼の本心なのかを推し量ることは出来ない。 なぜならば、彼はいつだってあまりにも自然にそんな言葉を口にしてしまうからだ。自身のことを猫被りで嘘つきだと揶揄していたことを思い出しながら、やっぱり読めない人だな、と改めて思う。 これは盗撮犯を釣るための作戦だったけれど、今日までの一週間で悩みに悩んでいたことや、待ち合わせ場所で合流するまでの緊張や不安、良くない意味でのドキドキなんかはいつの間にかすっかり無くなってしまっている。 かわりに、私の中には意図せず生まれた純粋に楽しかったという気持ちが残っている。 それにしても、ほとんど吹っ切れたつもりでいるとはいえ一応は恋愛がらみで失敗して、しばらくそういうのはいいや、なんて思っていたくせに、うっかり新天地で知り合った男性にときめいちゃってるなんて、私も大概チョロいと思う。 でも、ちょっと今日の杉浦さんはずるすぎる。最早何かの攻撃ではないかと思えてしまうほど手厚く彼女扱いをされてしまって、微塵もよろっとしない女子がいるものか。 「ん……? 杉浦じゃねえか」 脳内で葛藤しつつ、ぼんやりと杉浦さんの横を歩いていた私の耳に届いた声。その声がした方向へ顔を向けると、タバコを咥えながらこちらに視線を向けている男性がいることに気がついた。 きっちりとセットされたオールバックの黒髪、うっすらと瞳が透けて見えるサングラス。グレーのスーツの中に着用している柄シャツの襟元は大きく開けられており、首から下げられたチェーンが鈍く光っている。目の前にいる男性の見てくれをまとめて簡潔に表現するならば、これ以上ないってぐらいのヤクザルックである。 その人の口ぶりから、どうやら杉浦さんの知り合いらしいことがわかる。ちらりと杉浦さんを見やると、彼は小声で「うっわ、マジか」なんて言いながら苦笑していた。 「この時間帯にこんなとこ歩いてんの珍しいな。……って、オイ」 杉浦さんに向いていたその人の視線が、私たちの組まれた腕へ移動して、それから思いっきり私へと向いたのをハッキリと感じた。なんだか、つい最近も似たような視線を向けられた覚えがある。 咄嗟にぺこりと頭を下げると、サングラスの男性も慌てた様子でこちらに向かって会釈を返してくる。 「その、横に連れてるお嬢さんは」 「あーはいはい、ごめん東さん言ってなかったね。こちら僕の彼女の名前さん。ちゃんと紹介したいところなんだけど、今急いでるからまた後日ゆっくりってことで」 後ろから盗撮犯らしき人物がこちらを伺っていると聞かされているのに「いま仕事中で逆追跡されてるからカップルのふりしてるだけです」なんて言えるわけがない。それに、そもそも何故そんなことをしているのかと話し始めれば長くなってしまう。 つまり、この場所で留まっている時間も無ければ理由も無い。さすがの私にもそれぐらいはわかっていた。 「あ、ちょ、なんで逃げんだ! おいコラ!」 杉浦さんは組んでいた私の手をガシッと掴むと、まだ何か言いたげなサングラスの男性の言葉を遮って「じゃあまた今度!」と駆け出した。 「ごめんね名前さん、後でちゃんと誤解解いておくから。それとあの人、海藤さんと同じであんな見てくれだけど怖くないから安心して」 「大丈夫です、わかってますから」 「あと八神さん、東さんへのフォローよろしくね」 『もちろん。ていうかアイツ、なんつータイミングだよ……』 神室町ヒルズの前を駆けながら、最初に出会った時のことを思い出す。あの時もこうして手を引かれながらこの街を走った。まあ、今よりも全然緊迫した状況だったけど。 ふと、いきなり掴まれて自然と繋いでしまっていた手を見てしまい、その事実に恥ずかしさが湧き上がってきてしまう。ただ手を引かれているだけ、それに恋人のフリしてるんだから普通のことなんだ。いちいち動揺なんかしてちゃダメ。もう本日何度目かもわからない胸の高鳴りをなんとかやり過ごす。 そしてゆっくりとスピードを緩め、ほんの少しだけ上がってしまった息を整えているうちに、いつの間にか最終目的地であるホテル街に到着していた。 「ごめん八神さん、ちょっと走っちゃったけど犯人ぽい人ちゃんとついてきてる?」 『ああ大丈夫、確認できてる。とりあえずどこでもいいから入ってほしい』 「はーい、りょーかい」 そう言うと、杉浦さんは顔ごとこちらに向けて「それじゃあホテル入るけど、ホントに大丈夫?」と改めて問うてきた。その表情は今まで見せてくれていたような柔和なものではなく、なんとなく抵抗のような、複雑なものを感じ取る。 実際にそのような行為に及ぶわけでもないし、私たちが部屋に入室してから犯行のやり口を確認した八神さんが盗撮犯を確保する、という流れは事前に聞かされている。 彼がこうして直前に確認をしてきた意味を理解できないまま、とりあえず頷いてみる。 「はい、大丈夫です」 「……ん、じゃあ入ろっか」 繋いだ手はそのままで、ちょうど立ち止まった場所にあったホテルのエントランスを潜る。 無人の受付横には、空いている部屋の内装だけが照らし出されているパネルが設置されている。その横にあるボタンを押して、先に料金を支払うシステムらしい。 短くため息を漏らした杉浦さんは、取り出した紙幣を自動精算機にねじ込む。それと交換に吐き出されたルームキーとなるカードを引っこ抜くと、私の手を引いたままエレベーターのボタンを押した。 エレベーターの中からランプが灯っている部屋に入室するまで、私たちは終始無言だった。なんだか杉浦さんの顔を見ることも出来ず、ただただ私の手を引いたまま前を歩く彼のスニーカーを目で追ってしまう。 「八神さん、今部屋入ったよ」 『オッケー、それじゃあ待機でよろしく』 それから、八神さんからの通信が途切れる。 なんとも言えない沈黙の中、部屋に入ってすぐの壁に凭れ掛かりながら腕を組んでいる杉浦さんは、視線を斜め下に落としたまま一切の行動を停止してしまっている。 とりあえずベッドの上に腰を下ろすと、じんわりと足の裏が熱を持っているのがわかる。疲れていることを自覚すると、急激に体全体が動くことを拒否しているみたいに動けなくなってしまった。 残ったエネルギーをベッドに吸い取られているような感覚を覚えながら、お尻に根っこが生えた状態というのはまさしくこれのことだろうな、とこの状況下で呑気に考察する。 そんな無言の時間を過ごしながら、果たしてどれぐらいの時間が経っただろうか。 『二人とも、お疲れ様』 盗撮犯確保したよ、という八神さんの声が装着しっぱなしのインカムに届き、私と杉浦さんは同時にぱっと顔を上げて視線を通わせた。 「ん、じゃあ今から名前さんとそっち行くよ。このホテルの外だよね」 『ああ、裏口の方にいる……と、ほら暴れんなって!』 どうやら捕まえた犯人を拘束している状態らしい。了解、と短い返事を返した杉浦さんは、無言で退室を促す様に親指で扉を示した。もうすっかり休みたいモードになっていた体を無理やりに動かし、つい先ほど入ったばかりの部屋を出る。 「……仕事って言っても男とホテル入ってるわけだから、そこまで無警戒だとちょっと心配だよ」 乗り込んだエレベーターの中、ホテルに入ってからすっかり黙り込んでしまっていた杉浦さんが発した言葉に、私はほんの少しだけ思考を止めてしまった。 ええと、つまり杉浦さんが言ったセリフの意味は「襲われる可能性も考えろ」ということだろうか。しかし、私は彼がそのような行動に出るつもりなど毛頭無いことを知っている。 「杉浦さんがそういうことするわけないってわかってますから」 「……なんでそう思うの?」 「だって、そんなこと考えてたらまず忠告しないはずですもん。それに私、何度も助けてもらっちゃってるから」 杉浦さんのこと信じ切っちゃってるんです、と続けると、一瞬だけ目を丸くした杉浦さんは困ったように眉根を寄せ、微かに苦い笑みを含みながら下を向いてしまった。 恋人同士のフリなんかしなくてよくなった私たちの距離は普通の知り合い程度のものに戻っていて、もう腕を組む必要も無ければ手を引かれることだって無い。 そして、自分がその事に少しだけ寂しさを感じてしまっているなんていうのはきっと気のせいなのだと、なんとか意識を逸らす。 ルームキーを受付に返却して外に出ると、ちょうど店の前にパトカーが到着したところだった。 なんだなんだと群がる野次馬たちの中心で、八神さんの姿を見つける。人混みをかき分けて駆け寄っていくと、こちらに気づいた八神さんが「あ、お疲れさま」と歯を見せながら笑いかけてくれる。 「えっ、ていうか犯人女の人じゃん……」 そう言った杉浦さんの視線の先には、両脇を警官に固められながらパトカーに乗り込んでいくモッズコート姿の女性の姿があった。 それがさ、と話し始めた八神さん曰く、その女性は以前このホテル街に出没していたデバガメ判事の被害者だったらしい。 彼氏との行為を有罪としてネットの海へ放流され、それにより険悪になったことで別れることになってしまった。そこで、どうしようもない怒りを仲睦まじいカップルに向け、別れさせるためにこのような暴挙に出たのだという。 しかも、ここら辺ほぼすべてのホテルにバイトとして入り込み、各部屋にカメラを仕掛けていたようだ。たまたま私たちが入ったホテルのオーナーや、騒ぎが気になって出てきた他のホテルの従業員が彼女の顔を知っていたらしい。 去っていくパトカーをぼんやりと眺めていると、杉浦さんが「そんなガッツあるなら新しい彼氏を作る方に燃やせばよかったのに」と呆れた様子で至極真っ当な発言をする。 「それ、俺も言った。そしたら犯人の子、それだ! みたいな顔してたよ」 はあ、とため息をついた杉浦さんは、気が抜けた様に腰に手を当てて空を仰ぐ。私はというと、ここでお決まりのセリフを吐かずにはいられなくなっていた。 「神室町って、すごい街ですね……」 思わずこぼれ出たその言葉に、八神さんと杉浦さんが苦笑した。 [*前] | [次#] |