11-4.


 賑やかな神室町を抜け、人気のない通りにあるコインパーキングに停められていたバンの鍵を開けた杉浦さんは「どうぞ、あんまり綺麗じゃないけど」と助手席を示した。
 杉浦さんぐらいの年齢で私用車がバンなんて渋いなあ、なんてぼんやり考えながら促されるまま助手席に乗り込む。いつの間にか後部座席から救急箱らしきものを引っ張り出してきたらしい杉浦さんは、私の視線がそれに向かっている事に気がつくと「八神探偵事務所と組んでると必要になる事多くてさ」と苦笑しながら言った。
 確かこの間、八神探偵事務所のソファーで寝落ちてしまっていた杉浦さんを見ながら八神さんと海藤さんが「張り込みで車を出してもらった」と言っていた気がする。舞い込んできた依頼はほぼ断らないらしい彼らには、荒事が絡んでくることも多いと聞く。それに付き合う杉浦さんの車に救急箱が常備されている理由を察し、つい釣られるように苦笑いを浮かべてしまった。
 怪我をしている私の右手を、杉浦さんが確認するように自分の左手へと乗せる。つい先ほどまであんな状況にあったというのに、彼の手に再び触れられるだけでうっかりドキドキしてしまう。
 そんな自分に呆れていると、消毒液を染み込ませた脱脂綿を手に持った杉浦さんがこちらを覗き込んでいることに気がついた。

「染みると思うけど、ちょっとだけ我慢してね」

 こくんと頷いてみせたものの、脱脂綿が患部に触れた瞬間、ピリ、と走った痛みに思わず手を引っ込めそうになってしまった。寸でのところでそれを堪え、ぎゅっと口を結ぶ。

「他には怪我させられてない?」
「はい、壁に押し付けられたぐらいで特には。……あ」

 そこで思い出したのは強引にされてしまったキスのこと。そのあとの怒涛の展開のお陰か、つい先ほどまでほとんど薄れ掛けていた思い出したくもない記憶が蘇ってきて思わず言葉を詰まらせ、眉を顰めてしまう。

「どうかした? どっか痛い?」
「違うんです、ええとその、キス……されて」

 すごく気持ちわるかったこと思い出しちゃって、と続けると、杉浦さんは処置を行っていた手をピタリと止める。
 絆されるどころか鳥肌が立つほどの不快感で身体中が支配された事を思い出し、ぎゅっと目を閉じて振り払うように小さく首を振る。
 もう自分の気持ちがこれっぽっちもあの人に向いていないことはわかっていたけれど、もしかしたらほんの少しだけ残っていたのかもしれない情すらあの瞬間に綺麗さっぱり消え去った。
 杉浦さんは「ふーん、そっか……」と静かな口調で呟くように言ってから、止まっていた手を再び動かし始める。

「もっとボコボコにしとけばよかったね」
「ふふ、もう充分効いてたと思いますよ」
「……何でもっと早く助けに来なかったんだろう」

 ごめんね、と続けられた言葉に「そんなことないです!」と必死に否定をして大げさに首を振ってみせると、彼は一瞬きょとんと目を丸くしてから眉尻を下げ、心なしか不器用に笑う。
 思いのほか広範囲に抉れてしまっていた傷口は絆創膏では覆うことが難しかったらしく、杉浦さんは丁寧に軟膏を塗ってからガーゼを被せ、それを包帯で保護してくれた。綺麗に処置された右手に感動を覚えながら「ありがとうございます」と言うと、彼はいえいえと柔らかく目を細める。

「それにしてもこれ、どうしたのって聞かれたらなんて答えるか考えなきゃだね」

 私の右手はまさしく「思っ切り怪我しました」状態である。源田法律事務所の面々はそういうことにすぐ気がつく人ばかりであるが、罪悪感は感じつつも正直に話すことは避けたい。
 転んだことにでもしておこうと思ったが、怪我をしているのは拳を握ると突出する部分なので違和感を指摘されてしまうかもしれない。

「……あの人、私に執着なんて全然無いと思ってたのに」

 口からこぼれた言葉はただのひとりごとだった。
 まさか探しにくるなんて、と思ったのは本当で、更に八神探偵事務所を張って、私の職場が源田法律事務所であると突き止めるほど執念を燃やしているだなんて思ってもみなかった。
 そして、あの人から感じたのは愛情なんかじゃなくて、執着とか執念とかそういうものに違いなかった。躍起になって私を従わせようとしたのも、未だに私のことが好きだから、とかそんな理由では無く、飼い犬に手を噛まれてプライドが傷ついたとか、きっとそんなニュアンスのものだろう。

「そこにあるのが当たり前だったものがなくなって、やっと大切さに気付くって割とよくあるもんだよ」

 杉浦さんが発したその言葉は私に対してのレスポンスではなく、どことなく寂しさを纏ったそれはまるで空に投げかけられたように感じた。

「失ってから気づいて、それでやっと後悔して。……ほんとバカだよね」

 どこか自嘲気味なそのセリフはあの人に対してのものなのか、それとも違うのか。
 それを私が推し量ることは難しく、二の句を継げずにいる間に不自然なほどいつもの調子に戻っている杉浦さんが「それじゃあ出発するよ」とゆっくりアクセルを踏んだ。

「いつもいつもすみません」
「言ったでしょ、僕が勝手にやってるだけ」

 ただの自己満足なお節介だよ、と杉浦さんはハンドルを握りながら言うが、感謝の言葉を伝えても、気付けばまた感謝すべきことが増えていっている。まるで終わりのない追いかけっこのようだと思う。
 最早それが自己満足なお節介の範疇を超えている事にはとっくに気づいていた。いつも上手く煙に巻かれてしまうが「杉浦さんは、どうしてそこまでしてくれるんですか?」となんの気無しに、そして単刀直入に問うことが出来たらどんなに楽だろう。
 私が私の気持ちに気づいていなければ、とそこまで考えてから、すっかり大きくなってしまった彼に対する想いにふと小さく息を漏らす。もう消すことも、戻すことも出来ない重たくて苦しいその気持ちは、どんな状況下であってもときめきを感じれば正直に鼓動を早くしてしまう。
 顔は正面に向けたまま、気づかれないように視線だけを運転席へと向ける。
 真っ直ぐ前を向いている整った彼の横顔と、ハンドルに掛けられている手。筋張ったその手が見た目以上に大きくてそして暖かいことを、私は初めて神室町を訪れたあの日に知った。
 あのさ、と杉浦さんが突然声を発したので、横目に眺めていたことがバレたのかと驚き、小さく肩を揺らしてしまった。

「あいつがバカなことしたから名前さんが神室町に来られて、それでこうして知り合えたわけだけど、それってなんか複雑だよね」

 それってつまり、知り合えて良かったとは思ってもらえているという事だろうか?
 杉浦さんのこの感じは、あの偽デートの時から変わらない。こちらの気持ちなど露知らず、どこまでも自然にストレートに、取り繕う様子もなくぶつけられる言葉の破壊力はあの時以上にとんでもない。

「実は、私もちょこっと思ってました」

 先程のセリフを受けてものの見事に胸の奥がぎゅう、となってしまったのを堪えるべく、気づかれないように息を整える。
 なんとか言葉を絞り出しながら「ちょこっと」なんて控えめに言ってみたけれど、今となってはあの最悪なきっかけが無ければ今この場所に私はいなくて、きっと未だに地元でぼんやりと毎日を過ごしていたに違いない。
 どこに向かうのが正解なのかわからない杉浦さんへの想いを抱えて続けているのは苦しくもあるけれど、それ以上に彼に出会えて良かったと思う気持ちの方が大きいのは確かで。

「……さっきの、失ってから気づくって話なんだけど」

 首を傾げて次の言葉を待っていると、彼の口から発されたのは「うっすら気づいてたと思うけど、僕の姉貴ってもう亡くなってるんだ」というものだった。

「あ、それは……そうかなって……」

 でも突っ込んで聞くべきではないと思っていたので、と付け足すと、杉浦さんはほんの少しだけこちらに視線を向けて「ありがとう」と静かに言った。

「八神さんが弁護士辞めた事件のことって聞いてる?」
「うっすらですけど……。創薬センターで起こった事件で無罪を勝ち取ったあと、その人がまた逮捕されたとかで」

 しかし、それも結果は創薬センターと厚労省側で仕組まれていた事で、二度にも及んで無実の罪で勾留されていたその人物は最終的に無罪となっている。つまり、八神さんは間違っていなかったのだ。

「……うん。それのゴタゴタで殺されちゃった女の人がいてさ」
「八神さんが弁護して無罪にした方の彼女さん、でしたっけ」

 そう返してから、まさかと思い咄嗟に口を塞いだ。杉浦さんのその次の言葉を待たずともわかる。でもそんな、と思っているうちに、答え合わせをするみたいに「それ、僕の姉貴だったんだ」と彼が言った。
 引き篭もっていた自分の唯一の味方が姉だったと、杉浦さんが話してくれたのはついこの間のこと。まさか、八神さん達と杉浦さんがそんなふうに繋がっていたなんて。
 引き篭もることを止めて家を飛び出したのはほとんど衝動的だったこと。有罪の犯人を野放しにしたせいで姉が死んでしまったのだと八神さんを恨んでいたこと。けれど、事件を追っていくうちに真実が見えてきたこと。
 今まで、彼に関わるたびに時々見えていた薄ら昏いなにか。それが明かされた事に動揺しつつ、返す言葉も相槌すら打つことが出来ずに自分の両手を握りしめる。

「まあ、そんなわけで弟だってバレるわけにもいかないし、素性も知られたくなかったから杉浦ってのはその時に使ってた偽名なんだ。今更だけど、本名は寺澤文也」
「でも、皆さん杉浦さんのことそのままって呼んでますよね……?」
「うん。なんか今となっては自分でもこっちのがしっくり来ちゃっててさ」

 だから名前さんもそのまま呼んでくれていいから、と続ける彼の口調に重苦しい感じは不思議と無く、その一連の件については既に自分の中で整理をつけられていることがわかる。

「引き篭もってないでやれることがあったんじゃないかとか、姉貴が居なくなったあとで後悔してた」

 だから、いつかなくすかもしれないって思ったら大切な人とか、親しい人すら作るのが怖くなっちゃってたんだ。
 そう言った杉浦さんの口調に、話の重さとの乖離を感じる。それは、その言葉が過去形で締められていたからかもしれない。
 もう済んでしまった事なのだとなんとか現実を受け止めながら自分の中で噛み砕いて、ほとんど無理矢理に前を向いたのだろう。
 私も彼と同じ境遇だったなら同様の考えに至っていたに違いない。大切な身内や親しい間柄の人間を突然亡くすことが、如何に自分の心に傷を残すのか。それは、私の貧相な想像力では計り知れないほどの喪失感だろう。
 なんとか咀嚼しようと飲み込もうとしても飲み込めなくて、現実を現実であると認められなくて、溜まっていく黒い気持ちはそれを産み出した自分ですらコントロールが出来なくて。二度と味わいたくない経験に違いない。

「……私、その話聞いてよかったんでしょうか」
「これもまた僕のエゴなんだけど、名前さんには知っててほしいって思ったんだ」

 いつの間にか私の住んでいるアパートの前に停車していた車の中で、握りしめていた自分の手がカタカタと震えている事に気づく。意思に反して小刻みに震える指先が止まる気配は一向に無い。
 どうして、と思わず声を漏らすと、それに気づいた杉浦さんの視線がこちらに向けられた。

「あ、あの、なんか震えが……」
「ごめん、色々あったのにキャパ超えさせちゃったね」

 シートベルトを外した杉浦さんが、おいでをするようにこちらに手を伸ばしてくる。それがどのような意図なのかハッキリと把握しながらも、すっかり混乱しきっている脳みそは既にほとんど稼働しておらず、私は「え?」と素っ頓狂な声を上げるだけ。
 カチン、と外されたのは私のシートベルトで、気付けば吸い込まれるように、絡めとられるみたいに彼の胸に抱き寄せられていた。
 あれ、私って今までどうやって呼吸をしていたんだっけ。息を吸って吐くという行為すら忘れてしまうほどの混乱を覚えながらも、感じるのは私の後頭部を撫でる彼の手のひらの感覚。頭はぼうっとしてしまっているのに、心臓は今にも破裂しそうなほど鼓動していて、私の体の中ではロックフェスでも開催されているのではないかと錯覚する爆音が鳴り響いている。
 なんでとか、どうしてとか、そんなクエスチョンマークで頭の中が満たされているうちに手の震えは止まっていたけれど、突然のことでどうしようもなく落ち着かないのにずっとこうしていてほしいと相反する感情が心の中で暴れ回る。
 最初はそう、逃げ込んだあの路地裏だった。その次は八神探偵事務所の前、この間はあの地下の埃っぽい倉庫、そして今は彼の車の中。私はもう、とっくに彼の香りを覚えてしまっている。そして、それがひどく自分を落ちつかせるものなのだと知ってしまっている。
 私は杉浦さんのことが好きで好きで仕方がなくなってしまっている。だって、この神室町を訪れてから今まで、彼のことを好きにならない理由が見つからないぐらい色々なことがあったのだから。
 流されるまま杉浦さんの胸に顔を寄せていると、恥ずかしい筈なのにとくんとくんと聞こえてくる彼の胸の鼓動が心地いい。
 コホン、と小さい咳払いが頭の上から聞こえてきたのは、どれぐらいの時間が経ってからだっただろうか。

「自分から抱き寄せといてなんなんだけど、僕も一応男だからあんまりくっついてるとその……良くない気持ちが、こう」
「そ、そうですよね! 私いつも杉浦さんに甘えちゃって、ほんとダメだなって思ってるんですけど……」

 あわてて彼から離れ、取り繕うように熱を持った顔をぱたぱたと扇ぐ。そこで、杉浦さんが困ったように眉尻を下げながらこちらをじっと見つめていることに気づいた。
 夕焼けの色をした色素の薄い彼の瞳がゆらゆらと揺れて、思わず「きれいな色」と声に出してしまう。ぱち、と彼の感情の揺らぎを表すみたいなまばたきをスローモーションのように感じていたら、いつの間にか視線を逸らすことが出来なくなっていた。
 呼吸が浅くなる。杉浦さんの手のひらがそっと私の頬に触れて、その指先が耳に触れた時、思わずこくんと喉を鳴らしてしまう。
 体の制御を失ってしまったみたいに勝手に引き寄せられる感覚は、まるで自分が磁石にでもなってしまったかのようだった。
 だめ、だめ、と思っていても止められなくて、私の頬に触れている彼の手のひらのあたたかさを感じながら、揺れる瞳が近づいてくることに気づき、咄嗟に目を瞑る。
 その行為は先ほどあの人に強引にされたものと同じではあったけれど、そんなものとは全く違った。例えようのない気持ちと、何が何だかわからずこんがらがってしまった思考のせいで目の奥がひどく熱い。
 今私たちが交わしたそれが何だったのか、わからないほど鈍感ではない。どちらともなく近づいて、その唇を重ねていたのはたった一瞬のようにも、数秒、数十秒だったようにも感じられる。
 ほとんどくっついたままのような距離で見つめあう。脳の髄が痺れて惚けたようにぼんやりしてしまっていたが、段々とまともになってきた頭でようやく事の次第を把握すると、途端に血の気が引いて背中が冷えた。
 視線を泳がせていると、目の前にいる杉浦さんがその綺麗に整った眉を歪ませていることに気づく。いつだって余裕のある彼が見せる焦った表情。それが何を意味しているのか、察するのは容易だった。

「……こんなことするつもりなかったんだ」

 その言葉に含まれているのは後悔とか申し訳なさとか、そういうマイナスな方向の感情に違いなかった。
 杉浦さんは運転席のハンドルに肘を掛け、左手で顔を覆うように項垂れてしまっている。それをぼんやりと眺めながら、その場をなんとかやり過ごそうと荷物を抱え「送っていただいてありがとうございました」と平常心を装いながら頭を下げる。

「名前さん」
「は、はい!」
「さっきのこと、本当にごめん。それと、」

 出来たら忘れてほしい。
 そう続けられた言葉に、頭の中が真っ白になるのを感じながらこくんとひとつ頷く。
 彼がもう一度発した「ごめんね」という言葉と声音、そしてこちらに向けられた視線に浮かんでいるのは先程の行為を悔いる気持ち。
 ずきん、と傷んだのは怪我をしている右手ではなく胸の奥で、それを何とか抑え込んで「それじゃあ、失礼します」と車を降りる。精一杯気丈に振る舞おうと発した声は、なんとかギリギリ震えずに済んだ。


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