8-3.


 八神さんから例のパーティーへ潜入する準備が整ったという連絡をもらったのは、メイド喫茶での勤務を終えた二日後だった。
 杉浦さんと一緒にそのパーティーに潜り込んでほしいと伝えられ、女性しか入れないんじゃ、と首を傾げた私に八神さんは「まあそこはちゃんと考えてるから安心して」と含みをもたせて言った。
 時刻は夜の二十一時前。現地集合はせず、パーティーの主催側からメールで伝えられた会場近くのカフェで杉浦さんと合流してから潜入することになった。
 いつも通りに源田法律事務所での勤務を終えた私は、八神さんから指定されたホテルニューデボラの一階にあるカフェの中で杉浦さんが来るのを待っている。
 注文したチーズケーキをひとくち食べると、口の中に甘みとそして微かに柑橘系の酸味が広がり、逸る気持ちが幾分か落ち着いていくのを感じる。
 これから何があるかわからないというのに呑気だと思われてしまうかもしれないが、ただじっとしている方が落ち着かないに決まっている。そしてこれは持論であるが、心を落ち着かせるには甘いものに限る。
 ついでに言うと、今日は仕事を終えてからも緊張でちゃんとした夕ごはんを食べる気分にはなれなかったのだ。そんなわけで、今日だけはこんな時間にケーキを食べてしまうことを許されたい。

「……おまたせ」

 そんな声が聞こえてふと顔を上げると、いつの間にか目の前に背の高い女性が立っていることに気づいた。
 フォークを握りしめたまま彼女のことをぼんやりと見上げ、軽く首を傾げつつも観察をする。
 明るめの茶髪はサラサラのストレート。清潔感のあるとろみ素材のトップスに濃紺のジャケットを羽織っており、首元には控えめにスカーフが巻かれている。
 ところでいまの「おまたせ」って言葉、もしかして私に言ったのかな。頭をフル回転させて脳内検索をかけてみても、このような知り合いは思い当たらない。しかし、彼女の立ち位置は完全に私の対面である。
 私が眉根を寄せてぐるぐると考えを巡らせているうちに、彼女は私と対面にある椅子にゆっくりと腰を下ろし、テーパードパンツに覆われた長い脚を組んだ。

「あ、あの……」

 すみません、どなたですか?
 そう問いかけながら、俯き加減の彼女の表情を伺うように意識して控えめに覗き込むと、突然視線がかち合った。
 切れ長の垂れ目に意志の強そうな形のいい眉。すっと通った鼻筋。まるでモデルさんのように美人なその人のことを、私は知っている。
 その人物の正体に気づいて思わず口元を覆うと、目の前にいる彼女、もとい彼は笑いを堪えるみたいに肩を震わせながら「声でわからなかった?」と囁くみたいに小さな声で言った。
 驚きのあまりしばらく声が出せず、わかるわけないです、の気持ちを込めて必死に首を振る。

「杉浦さん、ですよね……?」
「ん、正解」

 私は杉浦さんのことを知っているから気付くことが出来たが、すれ違うだけの他人ならばこの姿の彼のことを背が高めの女性と認識してしまうに違いない。それぐらいおそろしく完成度が高い。
 派手すぎず地味すぎず、いい塩梅に施されている化粧のせいだろうか。女の私でも見惚れてしまうような妙な色香さえ纏っている。

「うわあ……すっごい綺麗です、かわいい!」
「ありがとう。……まあ素直に喜べないっていうか、複雑だったりするんだけど」
「それ、髪の毛ウィッグですか?」
「ううん、つけ毛。エクステってやつ」

 結構な時間かかっちゃったよ、と喋らなければ完全に女性に変身してしまっている杉浦さんは、苦笑いをしながら言った。
 そんな表情にさえなんとも言えない魅力を感じ、私はついつい彼女 ── もとい彼のことを凝視してしまう。女として完全敗北を認めるどころか、それを超越してしまっている私に遠慮というものは最早存在しない。
 杉浦さんは、私の熱烈な視線を受け流すように「ところでそれ」と目線を下げ、私の目の前にあるチーズケーキを示した。

「名前さんはきっと緊張で硬くなってるんだろうなって思ってたけど、割と余裕そうだね」
「いえ、気合いを入れてるんです。景気付けに! ……な、なんちゃって……」
「…………」

 私たちの間に流れたのはなんとも言えない空気。私は間違いなく緊張していて、少しでも気持ちを和らげておかなければと思って出来る限りリラックスしているつもりだった。しかし、口から飛び出してきたのはこんなにもしょうもないセリフ。認めよう、完全に空回ってしまったと。
 杉浦さんはマスカラで強調されたまつ毛を揺らしながらぱちくり、と何度か瞬きをする。

「う、うわぁ、ごめんなさい……」

 その空気と沈黙に耐えきれず、うな垂れるように頭を下げて両手を合わせる。絶対へんな女だって思われてしまったに違いない。っていうか、もうとっくにそう思われているに違いないけれど、それならいいじゃん、とはいかないのだ。

「……っぶ、ははははは!」

 え、と思わず小さく声を漏らしながら、今度は私が目をぱちくりさせる番だった。
 風船が弾けるみたいに笑い始めた杉浦さんは、拳を手に当てて「うっ、苦し……!」と肩を震わせている。

「はあ……普段そういうこと言わない人の無理したギャグ、ツボっちゃうんだよね」
「忘れてください」
「今後も愉快な気持ちになりたいときは思い出させてもらうよ」
「忘れてください……」

 それは無理な相談だね、といつもの揶揄うような調子で言った杉浦さんはやっぱりまだ口元を震わせていて、アイメイクが落ちないようにそっと紙ナプキンで目元を抑えている。
 私のおやじギャグが涙ぐんでしまうほどウケるなんて。というか、軽く流してもらえると思っていた。いっそ流してほしかったし、もし今のこの場でひとつ願い事が叶うならば数分ばかり時を戻して頂きたい。

「今ので変な力抜けたよ、ありがとね」
「もう……いいですからそういうの」
「いやいや、ホントだってば」

 もうその話はおしまいにしましょう、という念を込めながら口をぎゅっと結んで杉浦さんを見つめると、彼は畏まった様子でコホン、と小さく咳払いをした。

「えーと、八神さんから聞いてるかもだけど、中に入ったら僕は出口とか元締めの様子とか探らないといけないんだ。だから名前さんはとにかく動かないこと。誰かに声掛けられてもついていかない、飲み物を勧められても口にしない。いい?」

 こくんと頷いてから「はい」と返事をする。いま言われたことって、まるでちいさい子どもがお父さんやお母さんから言われるようなやつみたいだな。呑気にそんなことを考えてしまったが、実際に私が必要なのは会場に入るまでで、あとはとにかく潜入した杉浦さんに迷惑を掛けず、無事でいることが重要であることは承知していた。
 八神さんたちは、杉浦さんから中の様子がどうなっているか等の連絡を待ってから追って会場に入ってくる予定らしい。
 それって可能なんですか、と問うと、八神さんはそういう潜入というか突入のようなことを何度も経験しているらしい。さすが神室町の探偵を生業としているだけある。
 私がチーズケーキの最後の一口を放り込むのと同じタイミングで、杉浦さんがちらりとスマートフォンの画面を確認した。パーティーの開始時刻は二十一時過ぎ。そろそろ会場に向かわなくてはいけない時間だ。
 私は残ったアイスティーで喉を潤し「もう行きますよね?」と彼に問う。

「名前さん」
「はい?」
「名前さんのことは何があっても僕が守るから安心しててね」

 乙女のハートにクリーンヒット間違いなしのセリフ。こんな言葉を向けられ、ときめかない女性はきっといない。
 かくいう私も胸の辺りが図らずもぎゅう、となってしまったが、そんなセリフを放った彼の姿はどうみても美人な女性である。それが妙にアンバランスなせいで、私はちょっとだけ愉快な気持ちになりながら「頼りにしてます」と返事をした。

「結構心配してたんだけど、ホントに緊張してないんだね」
「してますよ! けど、杉浦さんの完成度が高すぎるから意識がそっちに向いちゃって」
「……好きでやってるわけじゃないってば」

 ちょっとだけ目を細めてムッとした様子の杉浦さんを見遣りながら、いつも動揺させられっぱなしだから少しだけやり返せたかも、とほんの少しの優越感を感じる。
 じゃあ行きますか、とその話を断ち切るように立ち上がった杉浦さんにつられて、私も席を立った。


***


 ホテルニューデボラを出て右に曲がり、劇場横裏通りに入る。メールで送られてきた住所はVRサロンの向かいにある雑居ビルだった。
 そのビルの地下が会場となっているらしいが、看板が出ていないところを見るにレンタルスペースか、もしくは空いている物件なのだろう。
 どこで誰に見られているのかわからないので、杉浦さんに「じゃあ行きますね」と意図を込めて目配せしたいのをなんとか堪えた。
 ビルの階段を降りるたび、ヒールが床を叩くカツンという音が狭い空間に反響する。
 階段を降り、拓けた空間に出ると二人の男が入り口らしき扉の前に立っていた。そこで私は気づく。そのうちの一人は、あの時私に例のカードを渡してきた男に間違いない。

「あ、来てくれたんだ。……やっぱかわいい子の友達は美人だね」

 その男は私の顔を見るなり人の良さそうな笑みを浮かべ、隣に立っている杉浦さんに視線を移した。
 ちらりと杉浦さんを見遣ると、柔らかく目を細めながら軽く首を傾げ、その口角をほんの少し上げてみせている。
 それが演技であり、思いっきり営業用であることを私は把握している。しかし、それでも見事なまでに魅力的な表情で、うっかり私の方が心臓を掴まれそうになってしまった。こんな技、どこで覚えてきたのだろう。
 しかし、目の前の二人の男の反応を見るに杉浦さんが実は女性ではないことなど疑いすらしていない様子だ。とりあえず、初っ端から一番難所であり懸念事項であった潜入はなんとかなりそうだ。
 名前を確認され、送られてきたメールと手渡されたカードを男たちに提示する。

「そういえばコレ渡した時、あんまり乗り気じゃなかったよね。なんか心境の変化でもあった?」
「あ……えっと、カードに謎が多すぎて逆に気になっちゃって」

 今だって乗り気じゃないです、と正直に言えるわけもないので、なんとか笑顔を貼り付けてそう答えた。ふうん、と納得した様子の男は、背後の扉を示しながら言葉を続ける。

「そういう子も多いよ。それじゃ、楽しんで」

 その裏で行われていることはえげつない悪事であることを私も、そして隣にいる杉浦さんも知っている。今日はこのどこまでも真っ黒なパーティーとやらを終わりにする為にきたのだと、自分に言い聞かせ鼓舞しながら開かれた扉を潜る。
 そこは、いわゆるクラブの雰囲気と変わらなかった。音楽が掛かり、バーカウンターがある。男性の姿はそのバーカウンター内と、思いの外広い空間の前方に見えるDJらしき人のみで片手で足りる人数しか居ないように見える。
 とりあえずここのテーブルでいっか、と入り口近くの空いていたバーテーブルを示した杉浦さんに頷くと、すぐにカマーベストを着用しているギャルソン風の男性が「お飲み物はあちらのカウンターでご注文ください」と声を掛けてくる。
 それに対して、杉浦さんはこれまた見事な美人スマイルを向ける。どの角度から見てもアラがない。杉浦さんのみてくれが元々いいのは知ってたけれど、更にメイクやスタイリングをした人の手腕がとんでもないことがわかる。

「……それじゃ、僕はちょっと離れるけど。絶対に動かないこと、約束して」

 私の耳元で囁くように言う杉浦さんの声がこそばゆくて、それが会話を聞かれないようにする為の行動であるとわかっていても少しだけ恥ずかしい。
 その見てくれのせいで脳みそが認識を誤りそうになっていたが、彼の声を聞いてやっぱり杉浦さんは男の人なんだよな、と認識し直す。すると、杉浦さんはちょん、と小指で私の手のひらを小突いてきた。

「へ?」
「だから、約束って言ったでしょ」

 ほら、と促す彼の意図に気づくことができず、私がその小指の意味に気づくまで暫し時間が掛かってしまった。

「あ、はい!」

 小指を絡ませたのち、満足した様子の杉浦さんが「何かあったらすぐ連絡して」とポケットから取り出したスマートフォンをチラつかせる。はい、とそれに返事をして、私は周りの様子に視線を向けた。
 周りは当たり前に女性ばかりである。ひとりの人もいれば、私たちのように連れ立って来たらしい二人組もいる。
 しかし、それらの全てがカードを渡されてやってきた何も知らない人間だけでないことを、私は既に知っている。しかし、誰が無関係で誰がサクラや関係者であるのか、そんなものが見分けられる訳もなく。
 ああ、だめだ。こんな風に落ち着かなく視線を走らせていたら怪しまれてしまう。私が今すべきことは、ただこの場所で静かに目立たず動かず、杉浦さんが戻るまでじっとしていることなのだ。
 そうとは言っても、やはりひとりでいることが心細く思えて来てしまった。二人でウロウロ嗅ぎ回っていたら怪しまれるに決まっているし、この作戦が正解であることはちゃんとわかっているけれど、ソワソワする気持ちを抑えるのもなかなかに難しい。

「ちょっと、名前……!?」

 突然名前を呼ばれて顔を上げると、そこに立っていたのはあのネコミミメイド喫茶でキャストとして働いている凛子さんだった。
 驚きと、その後に感じた「やっぱりそうなんだ」という悲しい気持ち。咄嗟に言葉が出てこず、私は彼女を凝視したまま口籠もってしまう。

「アンタなんでここに……!」
「ええと……色々あって」

 当たり前だが、私がなぜこの場所にいるのかこの場で白状することは出来ない。あからさまに動揺した表情で、それでも声を抑えながら私の肩を掴んだ凛子さんに返す言葉が出てこないことがもどかしい。
 凛子さんのこの間の発言から、きっと彼女が進んでこの件に加担しているわけではないことはわかっていても、この空間にいる限りどこで誰にこの会話が聞かれているのかわからないのだ。
 凛子さんはそんな私を見据えたまま、深いため息を吐いてふるふると首を振ると、テーブルに置いていた私の手首を掴んだ。

「アタシ、来ちゃダメってちゃんと言ったよね!?」

 そう言うと、彼女は掴んだ私の手首を引いて早足で歩き始めた。突然の事で振り切ることも出来ず、私は手を引かれるままその場所を離れることになってしまった。
 約束、と心配そうな声音で発された杉浦さんの言葉が脳内でリフレインする。

「凛子さんあの、私……」
「裏口教えるから着いてきて。アンタは早くここ出て、もうこの件に関わっちゃダメ」

 彼女はおそらく本当に私をこの場所から逃がそうとしている。そして、その焦ったような声音から「裏口を教える」という言葉も嘘でないことがわかる。
 私の手を引いたまま、賑わう人の波を器用に避けて進む凛子さんの向かう先にはトイレの表示。おそらく、その奥には入ってきたあの扉以外の出口があるのだろう。

「ごめんなさい、私さっきの場所に戻らないと」
「バカ、何言ってんの!? さっさと逃げんの!」

 凛子さんは声を荒げてこちらを振り向いたが、私の背後に視線を向けると、まるで喉を引き攣らせたみたいに言葉を飲み込んでしまった。
 なにが、と思い振り返ると、背後にはいつの間にか入り口で私を中へ通したあの男が口元にわざとらしい笑みを浮かべながら立っていた。

「おまえ、その子どこに連れてくつもり?」
「……別に、トイレ探してたから教えてあげただけ」

 じっと男を見据えながら、凛子さんは努めて冷静に言葉を返す。
 しかしその男は表情を変えず、ニヤけた表情を浮かべたまま「あーあ、そりゃ通んないよ」とやれやれとでも言いたげに両手のひらを広げてみせた。

「その子に早く逃げてーとか言ってたじゃん、嘘はよくねえな。……で、妹のことはもうどうでもいいってわけ?」
「……っ、それは」

 私の手首を握る凛子さんの手が微かに震えている。いつの間にか奥にも二人の男が控え、私の背後に立つ男と同じように下卑た湿っぽい視線をこちらに向けている。
 背中を悪寒が駆け抜ける。これは間違いなく想像でき得る限り最悪の展開であると認めるしかないだろう。
 咄嗟にカバンの中にあるスマートフォンに手を伸ばすが「おっと、だめだよ」と軽い調子で手を捻られてしまう。ズキンとした痛みを感じるのと同時にカバンが床に落ち、取り出しかけていたスマートフォンが床を滑る。

「君はもともと人気高かったからナイスタイミングだったよ。あの美人のお友達も一緒が良かったけど見当たらないし……まあいっか」

 男の口角が上がった瞬間、背後から口に何かが当てられる。瞬間、私は強烈な何かで自分の意識が引き剥がされるのを感じた。ぐらりと視界が歪み、目の前が霞んでいく。
 凛子さんが叫ぶみたいに私の名前を呼んだような気がしたけれど、最早自分の身体のコントロールなどとうに手放してしまっていた私の感覚は、深い穴に落ちていくようにブラックアウトした。


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