8-2.

「お、おか、おかえりなさいませお客様!」
「こら、お客様じゃなくてご主人様だっての」

 お店の開店二時間前。休憩室でぽこん、と軽いチョップを額に受けながら、言い慣れていない言葉に口が回らず「すみません……」と項垂れる。
 私の指導にあたってくれている彼女は、この店の店員であるリンゴさん。金髪のショートボブにクールな目元、ちょっぴり気怠げで冷めている印象を持ったが、少し会話をして指導を受けるとすぐに彼女が面倒見のいい人物であることがわかった。
 しかし、雑念が頭の中をぐるぐると回り身が入らない。というのも、八神さんから聞いていたサクラの女性の特徴と、リンゴさんの見た目がバッチリ合致しているからだ。
 ちょっと愛想がなくて取っつきにくい感じはあるけれど、こうして慣れない新人に対しても面倒な素振りは一切見せず、親身になって指導をしてくれている。そんな彼女が、例のパーティーに関わっているということが信じられないのだ。
 それっぽい子がいたらカマ掛けてみて、と言われているが、どのタイミングでその話を切り出せばよいのだろう。

「こちら、今日から体験入店の名前ちゃん。こっちは教育担当のリンゴちゃんね、はいじゃあよろしく!」

 店長と名乗った男性は、そんな明るい調子で私の指導を彼女に全投げしてしまった。そんな感じでいいのだろうか、と初っ端から更なる不安を煽られる。
 私の目の前に立っている「リンゴちゃん」と呼ばれた彼女は、その視線を私に向けながら「はァい、了解です」とほとんど無表情のまま軽い調子で言い、私を休憩室へと案内してくれた。

「なんか雑だな、って不安になった?」

 顔にしっかり書いてある、とリンゴさんは苦笑しながら私の眉間をちょん、と人差し指でつついた。本来ならば「いいえ!」って答えるべきだったのかもしれないけれど、私はつい正直に頷いてしまう。

「あはは、正直者! まあ大丈夫だよ、ある程度お客さんとコミュニケーションさえ取れればさほど難しい仕事じゃないから」

 アタシがフォローするし、と頼もしい限りの言葉を発するメイド服姿の彼女、もといリンゴさん。
 ちょっと怖そうな見た目に反して、朗らかでサッパリとした彼女とはあっという間に打ち解けてしまった。そのせいか、私がこの店に来たのは副業をする為ではなく潜入捜査であるということをつい忘れてしまいそうになる。

「そうだ、アタシ本名凛子っていうの。だからリンゴ」

 安直でしょ、と言って歯を見せて笑ったリンゴさんは「同僚の子にリンゴって呼ばれんの恥ずかしいから、裏では凛子って呼んで」と続けた。

「凛子さんは神室町で働いて長いんですか?」
「んー、四年ぐらいかな。名前はまだ慣れてないって感じ」
「え、わかります?」
「うん、アンタ何もかもわかりやすい」

 これでもなかなか神室町に染まってきた自信あったのに、と呟くと、凛子さんは「ここじゃその初々しさがウケるよ」と手をヒラヒラさせる。
 私がこの二時間で覚えたこと。お客さんをお迎えするときの言葉は「おかえりなさいませ、ご主人様」で、出来たら言葉の語尾に「にゃん」を付けること。出来たら、というワードが引っかかり、常にその語尾で喋らなくていいのかと問うと「この店ユルいから、思い出した時につける程度で充分」と凛子さんは言った。
 あとはメニュー表を渡して注文を伺うこと、キッチンに伝えること、注文の品を運ぶこと、とまあ普通の飲食店と行う業務はさほど変わらない。
 違うところがあるとすれば、注文された食べ物や飲み物を運んだ際に「美味しくなーれ」の呪文を唱えることぐらいだろう。まあ、それが私にはとっては未知すぎて難しいわけだけど。
 指導を受けているうちに、アルバイトらしき女の子たちが次々と出勤してきた。聞くと専門学校生や大学生の子ばかりで、年下である彼女らの若々しさを眺めながら、私はなんでこんな格好を、とふと我にかえりそうになる。しかし「これは仕事!」と脳内で何度も唱えて事なきを得た。
 パーティーのこと、そしてサクラのことを少しでも聞き出せればそれで終わる任務なのだから、と自分に言い聞かせてから思う。凛子さんは、本当にあんなひどいパーティーのサクラなんてものをやっているのだろうか。

「ん、どうかした?」

 不安ならアタシがフォローするってば、と歯を見せて無邪気に笑う彼女をみながら、そうでないことを願わずにはいられない。こういう状況でなく、もっと違う場所で知り合えていたら友達になれていたかも、思ってしまったからだ。
 この間のように耳にインカムを付けるようなことは出来ないので、八神さんからは「何かあればすぐに逃げ出していいから」と言われていた。
 指導の合間に店のバックヤードなんかを見させてもらったが、怪しい場所や通路なども無く、今のところ危ない感じのする人物が出入りしている様子も無い。
 せっかく潜入したのだから何らかの収穫は得たいと思うが、何もなければいいと思ってしまう自分もいる。
 そんなモヤモヤを抱えつつも店は営業開始時刻となり、人生初めてのメイド喫茶勤務が開始した。
 凛子さんは素っ気なくて無愛想でクールなキャラクターが訪れるお客さんに「ネコっぽい」とウケているらしく、引っ切り無しに客対応をしている。
 最初は羞恥心との葛藤に悩まされていた私だったが、予想以上の繁盛っぷりにそんなものはいつしか吹き飛び、周りにつられる様に自然と「にゃん」の語尾まで出るようになっていた。店を出てから一呼吸置いて八神探偵事務所へ報告にいかないと、ついその語尾を発してしそうな危険さえ感じる。
 おかえりなさいませといってらっしゃいを唱え、注文を受け、運び、魔法を掛け、会話をする。最初の恥ずかしさを乗り超えたら意外と対応出来てしまっているので、もしかしたら私意外とこういうの向いてるのかも、なんて浮かれてしまいそうになる。
 たどたどしくも勤務し始めてしばらく経ったころ、休憩を促された。
 お客さんとのやりとりが途切れたタイミングで裏の休憩室に向かうと、既に休憩に入っていた凛子さんが手に持っているスマートフォンに向いていた視線をこちらに移しながら「お疲れ様」と目を細めて笑みながら言った。
 お疲れ様です、と返しながら感じる。例の件について話を聞くなら、きっと今このタイミングしかない。

「……ね、凛子さん。あの、今神室町で噂の女の子だけが行けるパーティーっていうのがあるらしいんだけど」

 私ちょっと興味があって、と続けると、凛子さんの表情があからさまに強張るのがわかった。
 彼女から私に向けられている鋭い視線に宿るのは明らかな懐疑心。そして、眉根を顰めたその表情には隠しきれないほどの苦しい感情が見える。
 そこで気づいてしまった。やはり彼女はこの案件に関わっているのだということを。

「……なんでアンタがその話振ってくんの?」

 凛子さんの振り絞ったような声音から感じ取れたものは怒りなんかじゃなくて、むしろ恐れだとかそんなようなものを多く孕んでいる様な気がした。

「誰かにそのことアタシに聞いてみろって言われた? だから近づいてきたの?」

 その通りだった。けれど、それを肯定してしまうのがつらくてつらくてしかたない。なぜならば、このたった数時間で私は彼女のことが好きになってしまっていたからだ。本当はこんな形じゃなく知り合いたかったなんて、今更言ってもどうにもならない。
 私が次の言葉を発することが出来ずにいると、彼女は目を閉じて深く長く息を吐いた。

「あれはね、女の子に薬飲ませて乱暴するためのパーティーなんだよ。アンタみたいなチョロそうなの、アイツらの大好物」

 悪い事言わないからその事は忘れな、と付け足した凛子さんは、立ち上がって椅子に座ったままの私を見下ろす。
 その視線に、そしてその瞳に浮かんでいるのは動揺。しかしそれ以上に色濃く感じられたのは悲しみだった。

「……この短時間で何言ってんのって思われるかもしれないけど、アタシは名前と友達になれたらいいなって思ってたよ」

 その言葉が過去形であることに、そして彼女の滲み出した失望や苦しみを含んだ言葉と表情が私の胸の貫くみたいに突き刺した。
 何も言えず、動くことも出来ず、ふい、と視線を外して休憩室を出て行ってしまった彼女の背中を追うことも、そして呼び止めることすら出来ない。
 私だってそう思っていた。だからこんなにもショックを受けているのだ。彼女が関わっていたこともそうだが、それ以上に突き放されてしまったことに。
 ハッキリしたことは、そのパーティーがやはり存在しているのだということ。そして、被害者である榊さんがパーティーで目撃したのはやはり凛子さんに間違いないということ。
 しかし、私にはやっぱり人のいい彼女がそんなものに進んで協力しているとは思えない。
 去って行った凛子さんの複雑な色を浮かべた瞳を思い出しながら、私は椅子から立ち上がり震える手でロッカーにしまっていたスマートフォンを取り出した。


***


 八神さんにサクラをやっているであろう人物に接触出来た旨を休憩時間中に伝えた私は、なんとか残りの勤務を終えて八神探偵事務所を訪れていた。
 ちなみにさおりさんの方は残念ながら収穫が無く、榊さんが退店してしまったすぐあとにサクラだと思われていたキャバ嬢も辞めてしまっていたのだという。他のキャバ嬢を当たってみたが、関わりが有りそうな人間はいなかったようだ。
 そして、キャバクラに潜入したさおりさんの身を案じてお客さんとして星野さんが乗り込んでしまったようで、その対応をさせられたさおりさんはひどく疲弊した様子だったらしい。

「話を聞くに、その凛子ちゃんって子は好きでサクラやってるかんじじゃないね。もしかして、サクラの子たちも何か事情があって無理矢理やらされてたりして」

 確かに、凛子さんがそのグループの一員であるのならばあの場で私の口を塞ぐような行動に出ていてもおかしくなかったと思う。
 そして、彼女の苦しげな表情に含まれていたのは間違いなく罪悪感だった。きっと八神さんの推察は間違っていないだろう。
 凛子さんが自分の意思でそのようなことに加担しているのでは無いだろうことに安堵しつつ、そうであるのならば彼女も被害者であるということに気づく。
 彼女の苦しそうな表情と最後に投げられたセリフが脳内で繰り返されるたび、胸がぎゅう、と締め付けられる。
 ほとんど事実確認のような収穫しかなかったけれど、八神さんは「それが分かったってだけで充分有益だよ」と言ってくれた。

「お役に立てたなら良かったです」
「……それとは関係無いんだけどさ」

 名前ちゃん、何かあった?
 控えめにこちらを覗き込んでくる八神さんの視線も、私を気遣うようなその声もひどく優しいものだった。それだけで目の奥が急激に熱くなって、喉の奥がねじれているんじゃないかと思うほど窄まりひくついてしまう。

「……私、凛子さんのことも助けたいです」

 泣きそうになるのを必死にこらえながら、膝の上に乗せた手に力を込め、作った拳をぎゅっと握る。
 それで今度はちゃんと向き合って、凛子さんの目を真正面から見ながら言いたい。私と友達になってくださいって。

「当たり前だよ。ごめんね、こんなつらい気持ちにさせちゃうことになるなんて思ってなくて」

 そう言って私の肩を叩いた八神さんの手のひらはとても温かくて、とうとうぼろっと溢れた涙が膝の上にぼとりと落ちる。
 今はつらくて悲しくても、そのパーティーの裏さえ明かすことが出来れば利用されているであろう凛子さんのことを救える。これから被害に遭う人を無くすことが出来る。なにより、加害者たちを裁くことが出来る。だから、今ここで泣いている暇なんてものはない。
 そもそも、手伝いたいと言い出したのは私自身だ。私がショックを受けたことなんかより、よっぽどつらい目に遭っている彼女たちが居るのだから。

「ごめんなさい。八神さん、私頑張ります。だからこの件最後まで関わらせてください」

 うん、とひとつ頷いた八神さんの携帯が鳴ったのはそんな時だった。


***


 八神探偵事務所を訪れた僕が聞かされたのは、東さんが以前チラッと話していた怪しいパーティーについての話だった。
 やはりそれは怪しいどころか真っ黒な案件だったらしく、源田法律事務所と協力しながらそのパーティーとやらが存在している証明を進めていくことになったと八神さんは話した。
 源田法律事務所と協力、と聞かされて、もしやと察した僕の考えは見事に当たっていたようだ。依頼人の女性の為に、名前さんも手伝いをさせてほしいと立候補したらしい。
 そんなわけで、名前さんはサクラだと思しき人物の勤め先へ潜入することになった。際どいメイド服に身を包んだ彼女をその店舗まで送り届けた僕はひとこと「無理しないでね」という言葉を掛ける。
 名前さんは緊張を孕んだ表情でこくんと大袈裟に頷くと「頑張ります!」といって潜入先であるメイド喫茶へと勇み足で向かっていった。
 それが昨日の話。今日僕が呼び出されたのは、進捗と今後の動きについて説明を受ける為だ。
 いつの間にか普通に作戦の人員として組み込まれているけれど、特にそれに違和感を感じることもなく、そしてそうなるのが普通のように思っている自分の馴染み具合。八神探偵事務所の調査員だって思われてしまうのも仕方ない。
 たまたまパーティーの招待状と呼ばれているカードを名前さんが所持していたらしく、その解析を進めていたのが九十九くんだった。
 そして、九十九くんが消えたページのサルベージと解析を終えたのはちょうど昨日の夜。名前さんが潜入の勤務を終え、報告する為にこの八神探偵事務所を訪れていたタイミングだったのだという。

「で、現状ひとまず名前ちゃんの名前で次のパーティーの参加申し込みも済んだってところ」

 八神さんが言うにはサルベージしたページにはメールアドレスを打ち込むフォームのみが有り、そこからメールアドレスを送信すると更に名前や電話番号などを打ち込むことを要求されたらしい。
 そしてそれらを終えると、ついに次のパーティーの日時や会場などが送られてきたそうだ。

「あのさ、さすがに名前さんひとりで行かせるのは危なくない? 他に手ないの?」
「ひとりで行かせるわけないじゃん、勿論考えてあるって」

 被害者である依頼主や、実際に招待状のカードを受け取った名前さんはその際に「一人までなら女の子の友達連れてきていいよ」と言われていたらしい。
 だからといって、じゃあ例えば女性二人を潜入させることになっても僕はそれに賛成する気持ちにはなれなかった。
 なぜならば、それをすることになるのはカードを渡された本人である名前さんと、城崎先生あたりであることを察したからだ。

「やっぱりこれ以上あの人たちに危ないことさせるのは違うんじゃないかな、使命感に燃えてるっていっても女性だよ」
「うん、俺もそう思ってる」
「は……? でも八神さん、さっき名前さんの名前使ったって……」
「だからついてくしかないよな」

 さすがに今度は「え?」も「は?」も出てこなかった。八神さんの言葉を上手く咀嚼できず、まばたきだけを繰り返しながら固まったままの僕。
 明らかに何かを企んでいる表情の八神さんを凝視したまま、ようやく「えっと……」と声を発した。

「ついてくってさ、前提としてまず女の子しか入れないんじゃなかった?」
「そ。だからおまえが女装して名前ちゃんの連れとして一緒に入っちゃえばいいじゃんって話」

 僕と八神さんの間に再び流れたのはしばしの沈黙。ええとこの人、今なんて言った?
 聞き間違いでなければ女装がどうだとか言ったような気がするけれど、いっそ聞き間違いであってほしい。うわどうしよう、なんかすっごい頭痛くなってきた。

「いやいやいやいや何言ってんの、それはさすがに無理あるって」

 変装ならまだしも、女装して潜入なんてどう考えても現実的ではない。
 しかし八神さんは「見立てに関してはマリ姉に頼んであるから問題ないよ」とテンダーの常連である女性の名前を挙げた。相変わらず根回しが早い。というか、また僕が断らない前提で話を進めているようだ。

「だからって……」
「じゃあ、俺と海藤さんの女装想像してみ?」

 それが決め手になってしまった。僕の脳内に現れた女装姿の八神さんと海藤さんは、そりゃあもう無理しまくってるオカマだった。そして、こんなしょうもないことで自分の妄想力が意外と高いことを知る。
 神室町のオカマバーで働きますってならまだしも、今回の作戦において八神探偵事務所の二人が女装をして事を進めるのは、この案件を投げてしまうことと同意であることを理解してしまう。

「……僕だって似たようなもんだと思うけど」

 諦めてそう返事をしたら、八神さんは至極真面目な顔で「おまえならいい感じのバリキャリウーマンになれるよ」と言ったが、僕はそれにリアクションを示すことすら億劫になっていた。
 正直これっぽっちも自信はないが、名前さんをひとりで行かせるよりかはよっぽどいい。何かあればすぐ対処できる誰かがついていくしかないことは明白だった。

「そうだ、杉浦おまえ名前どうする? フミちゃんとかでいい?」
「もうなんでもいいよ」

 ていうかそんなのどうでもいいじゃん、とごちるみたいに吐き出したら、八神さんは「何事も形からだよ」と剥き出しのハンガーラックに掛けられている謎の衣服の数々に視線を向けながら言った。
 何故かちょこちょこと増えていくコスプレみたいな衣装の数々は、今までこの探偵事務所に持ち込まれた依頼が関わっているらしい。この状況下ではトンチキなそれらに妙な説得力さえ感じてしまう。
 名前さんを傍で守れるのはいいけれど、女装姿を見られるのはやっぱり不本意で気が進まない。しかし現状、それ以上の良案も浮かばない。

「この案件が済んだら、八神探偵事務所持ちでお疲れ様会やってよね」

 そう言うと、八神さんはいつものように口の端を上げて笑みながらグッと親指を立てて見せた。


[*前] | [次#]

- ナノ -