7(side.B) 右手のひらに乗せた会社用携帯に視線を向けているオレの表情は、傍から見ればとんでもなく柄の悪いものだったらしい。 その顔じゃ営業マンっつーより借金取りっスよ、とジャケットを脱ぎながら向かいの席に着いたのは、高校時代から交流が続いている後輩である宮城だ。その様子を眺めながら、自分の口から飛び出してきた「遅えんだよ」という声は、思いのほか低くなってしまった。 つーか、昼過ぎに送った社内チャットへの返事が今かよ。 つい三、四時間前に会話をして、それから怒った様子で逃げるように去って行った彼女、苗字名前の背中を、呆気に取られながらただただ見送るだけだった自分。あの時、あからさまにイライラしていた彼女の表情の中に、どこか悲しそうな色が浮かんでいたのはどうしてだろう。そして一瞬、その瞳が潤んでいるように見えたのは見間違いではなかったと思う。 オレがなんの気無しに発してしまった言葉。どうやらそれが彼女の何かに触れてしまったのだろうということはなんとなく見当がついていても、最初にあんな出来事があった後でさえ怒らなかった彼女があれ程度であんなにも取り乱したことが不思議だった。 そして、オレは情けないことに動揺してしまってそんな彼女に声を掛けることも、そして離れていく背中を追いかけることも出来ず、その場にしばらく立ち尽くしてしまっていた。 『夕方は申し訳ありませんでした、気を悪くさせてしまったと反省しています。来週ですが、やっぱりまだスケジュールが読めないので今回はお断りさせてください』 当たり前だが、何度読み返してみてもその文章が変わることはない。 あの後だしそりゃ断られるわな、と納得しつつ、思わず苦笑いを浮かべて額を抑えると、図らずも深いため息が出てしまった。まるで石でも飲み込んだかのように胃のあたりが重い。 「どしたんスか、すっげーため息ついちゃってさ。つーか先に飲んでて良かったのに、あ、おねーさん! 生中二つで」 宮城がちょうど横を通りがかった店員に注文をしたが「いや、オレは飲まねえ。すみません、コーラひとつ」と注文を訂正し、スピードメニューと書かれたものを何品かと焼き鳥串の盛り合わせなんかを注文する。店員はオーダーを繰り返してからテーブルを去っていった。 「烏龍茶って……マジでどうしたの?」 しばらく固まっていた宮城が細く整えられた眉を上げ、いつもは気怠げな目を丸く見開いている。別になんもねーよ、と返しつつも、今オレの頭の中を埋め尽くしているのは夕方の彼女との出来事である。 憤りと同じぐらいの割合で混ざっていた悲しげな表情が、どうしても頭の中から消えてくれない。しかし、彼女にそんな顔をさせたのは間違いなく自分で、それを認めれば認める程どこにもぶつけられない苛つきが募っていく。 「すげー顔で携帯睨みつけてたってことは、仕事でなにかトラブルがあったと見た」 「ちげーわ、オレぁ営業成績いいんだぞ」 申請処理や報告書など、仕事に付随して発生する事務仕事はあんま得意じゃねえけど、という言葉を素直に続けてしまいそうになり、寸でのところで飲み込んだ。 「サラリーマンってさ、金曜の夜は大体浮かれてるもんでしょ。なのに三井さん、今にも何かに噛み付きそうな極悪なツラで携帯睨んでてさ」 宮城は早々に運ばれてきた生ビールのジョッキを引っ掴み、テーブルに置かれたオレのコーラにコツンとぶつけると「お疲れ様でーす」と言って中身を煽る。高校時代のチームメイトたちとは湘北を卒業した今でも度々こうして顔を合わせている。今日は宮城とサシだが、都合がつけばここに赤木や木暮が加わっている。 いつもならガーッとビールを煽ってから二、三件の店を梯子して、これでもかというほどに金曜の夜を謳歌するのだが、今日はどうにもそんな気分にはなれない。 そもそも今はアルコールを控えているというのもあるが、やはり夕方の出来事が喉元に刺さった魚の骨のようにつかえていて気にかかっているからだ。 「……まあ、なんつーか人とトラブったんだよ」 「ふーん、女の子ね」 なんだこいつの洞察力。取り繕う間もなく図星を突かれてしまい、思わず「ぐ……」と言葉を詰まらせると、ヤツは得意げに鼻を鳴らして笑った。めちゃくちゃ癇に障るが何も言い返せない。悔しいことに、オレはここで視線を逸らして口をつぐむことしか出来なかった。 「無神経な発言して怒らせたんでしょ?」 これまた図星である。漫画ならば、セリフが槍となってオレの体にグサリと突き刺さる演出がされていることだろう。 無神経な発言。きっとまさしく、彼女にとってはそんなふうに受け取れる言葉だったのだろう。やっちまったな、と今更後悔をしてももう後の祭りである。なにかしら詫びの一言でもいれておかないと、とは思いつつ、どうしてもその言葉が浮かんで来なかった。 もしかしたら、ここら辺が身の引きどころだったのではないだろうか。 社内では完璧超人と謳われ、人当たりも良く完全無欠に見える彼女が自分の前で見せてくれる取り繕わない素の表情と言葉に、いつの間に優越感なんかを覚えてしまうようになったのだろう。オレだけに見せてくれてんのかも、なんて思い上がってしまう都合のいいところが有ったのは間違いない。 彼女とは、良いとは言えないどころか最悪に分類されるであろう出会い方をした。申し訳なくて後ろめたい気持ちと、贖罪したいという思い。最初はそれだけだった筈だ。それなのにどうしてだろう、今はこれからの交流が無くなってしまう予感に、こうして心を乱している。 本来ならば「あちらから切られたのだから、これで後ろめたい気持ちや面倒なあれやそれから解放される」と安堵できる筈なのに。スッキリするどころか、むしろ不愉快な感覚が体の中を満たしては膨張していく。いったいどうなっちまったってんだ。 「あー、わかった! 社内で出来たカノジョにもうそろそろ振られそうとか?」 「ちげーよ。つーかそういうの、しばらく居ねーし」 思い返してみれば、告白されたからまあいいかと思って付き合ってみる。そんなことの繰り返しだった気がする。なんとなく付き合うことにして、なんとなく同じ時間を過ごして、それからしばらくすると、大体いつも「なんか思ってたのと違う」と意味のわからないことを言われて振られるのだ。 虚無感とか喪失感とか、そういうのは特に感じなかったけれど、毎回「何を勝手に思い込んでたんだっつーの!」と苛つく気持ちにはなっていた。 そんな話をした時、宮城には「あー、三井さんってオレについて来い! ってタイプに見えるからね。女の子ってのは強引でぐいぐい迫られたいって子が多いし」と言われた覚えがある。 「……その、笑うんじゃねえぞ。あと、バカにすんのも無しだかんな」 「やだなあ。オレ、三井さんのことバカにしたことなんかないスよ」 どの口が言ってんだ、目を細めながら低い声で咎めるように言ったら、宮城は何も言わずに小さく笑った。 当たり前だが、オレと苗字さんとの間に何があったのかということは、社内で一切漏らしていない。でもまあ、社内の人間ではないコイツになら、彼女のことを認識されるわけじゃないしいいだろうか。それに、そろそろあの出来事を自分の中だけで抱えていることが難しくなってきている。今はもう、ほんの少しでも心の中に余裕を作りたかった。 「……二ヶ月前ぐらいによ、起きたら知らねえ女とホテルに居たんだよ」 ほんの数秒の沈黙。賑やかな店内で、周りの客の声だけが聞こえる。驚いた様子で目をぱちくりさせた宮城が「わお」と声を漏らしてジョッキを煽る。 「マジか! 三井さんのクセにやるじゃん!」 「オメーは相変わらず先輩への態度ってもんがなってねえな」 それでそれで? と興味津々といった様子で身を乗り出している宮城。腑に落ちない部分はあるが、自分から切り出してしまったのだから仕方ない。このまま吐き出してしまおう。 目覚めてお互いに記憶がなかったが、事後であることは明らかだったこと。もし妊娠なんかさせていたらとんでもないので連絡先を渡し、ホテルの前で別れたこと。あの朝の記憶はわざわざ喚び起さなくてもスルスルと出てくる。 神奈川の支社から東京本社へと異動したばかりで、産業カウンセラーとの面談があったことを思い出し、帰宅してから軽くシャワーを浴びて家を飛び出したこと。なんとか始業前に出勤することに成功し、予約していた時間にカウンセリングルームに行くと、つい先ほど別れたばかりの彼女が居たこと。 「ちょい待ちストップ。もしかしてオレ、最近三井さんが観たドラマのあらすじかなんかを聞かされてます?」 それがオレの身に実際に起こったことではなく、フィクションのドラマであったならどんなによかっただろう。茶々を入れてきた宮城に軽く睨みを効かせながら「いいから黙って聞いとけ」と続ける。 そう、最初はただ彼女のその後の様子が気になっただけだった。お互いにもう気にするのやめましょう、と彼女は言ったけれど、オレはどうしてもそう上手く切り替える事が出来なかった。最低なことをした自覚があるのに、記憶が無いなんてどうするのが正解だったのだろう。 なんとなく誘ってみた昼メシの時、彼女が吐露した言葉。あの時の彼女の状況なんかを聞かされながら、コロコロと変わる表情に思わず釘付けになっていたことを、今ならば素直に認める事ができる。会社じゃ見せないらしい取り繕わない姿なんかを眺めながら「自分だけが知っている」と感じたものは間違いなく優越感だった。 その姿を見かけるたびに声を掛けるようになっていた頃、不思議と最初に感じていた後ろめたい気持ちなんかは、既にほとんど消えてしまっていた。 「しっかりしてんのになんかほっとけねえんだ。危なっかしいっつか、気になっちまって」 そう口に出した言葉で、最初の頃の「気になっていた」と、今の「気になる」が全くの別物であることに気づく。 「そりゃもうさっさと告っちゃえばいいんじゃないの、としか言えねーけど」 思わず硬直してしまっていた。こいつは、宮城は今なんと言ったのだろう。いや、ちゃんと聞こえていたが、そういうことじゃなくてとにかく。 「な、告るっておまえ、だから別にそういうんじゃ」 そんなオレの言葉を遮るように「あのさあ」と宮城が言う。 「アンタがニブ過ぎるから敢えてハッキリ言いますけど、じゃあそれが好き以外のどういう感情なのか、言葉に出来るんスか?」 「いや、つってもよ……出会いがコレだろ、そんなんで好きだの惚れただのってのは」 「始まり方なんてそれぞれっしょ、アレだコレだってのはアンタの勝手な物差しであって」 悔しいことに思いっきり論破されてしまい、ぐうの音も出てこなかった。それどころかその言葉はすっと心の奥へと溶け込んで、驚くほど自然にオレの中へと浸透していく。 最初は本当に、ただその後の彼女の様子を気にかけていただけだったと思う。アンタがニブ過ぎるから、と指摘してきた宮城の言葉に反論など出来るわけがない。そうハッキリ突き付けられるまで、自分の感情の変化にすら気づけずにいたのだから。 「いつの間にか惚れちまってたっつーことか……」 ひとりごとみたいに呟いた言葉。それに対して、宮城からのレスポンスはない。 初めて見た彼女の悲しみと怒りの混じった表情。小さく肩を震わせて、ゆるく巻かれた髪を揺らしながら去っていった背中。あの場面が再び蘇る。煮え切らない不愉快な気持ちが、何故いつまでもこうして体の中を渦巻いているのか。ようやくその理由に気づいたオレは、そこでようやく自分がしでかしてしまった無神経な行いに気づく。 どうしたもんか、と再び頭を抱え始めたオレの脳内は、もうすっかり先ほどとはまるで違う悩みで埋め尽くされていた。 [*前] | [次#] |