4.


「三井、おまえ第二カウンセリングルームのマドンナとランチ行ったんだって……!?」

 苗字さんとの昼メシを終え、彼女とエレベーターで別れてから部署があるフロアの自席に戻ると、鬼気迫る表情でにじり寄ってきたのは同じ営業部の同期だった。
 第二カウンセリングルームのマドンナ。なんだそれ、としばし頭の中でそのワードを咀嚼すべく巡らせる。眉を顰めながら考えてみて、ようやく合点がいった。どうやら、彼女はこの社内に於いてそんなけったいな通り名をつけられているらしい。

「すげえ呼ばれ方されてんのな、苗字さん」
「あのなあ、苗字さんが男とサシでランチに行くなんて相当なんだぞ! 大ニュースだ! 断言する、オレ調べ史上未だかつてない!」

 そんなこと調べてんのかよ、というツッコミを入れる前に「おまえは何をやったんだ、どうやって誘ったんだ、どこでどんな話をしたんだ!」と更ににじり寄ってきた同僚に向かってあからさまに面倒くさい顔をしてやる。しかし、奴は一切引く気配を見せない。
 学生時代の友人の結婚式で知り合って、そのまま二次会を経て三次会にいったのち、お互いにしこたま飲んで潰れて記憶までぶっ飛んで、朝起きたら二人仲良くホテルのベッドの上に素っ裸で寝てました、なんてもちろん言えるわけがない。オレの、というよりもどちらかというと彼女の尊厳の為に。そしてお互いの仕事とこれからの人生の為に。
 やっぱあり得ねえだろ。知り合ったばっかの女と寝ちまった上に記憶飛ばして、じゃあさようなら、もう会うこともないでしょうって別れた数時間後に働いている会社で鉢合うなんて。しかしそれは、ドラマか何かのシナリオでもなんでもなく、オレの身に実際に起きた出来事なのである。
 もう気にしないようにしましょう、なんて彼女は言っていたが、無かったことにしたい出来事だけサラッと都合よく消し去れるほど、オレの脳みそは単純に出来てはいないらしい。

「苗字さん、いいよなあ。美人だけどツンケンしてないし、にこにこ話聞いてくれるし、仕事もスゲー出来るんだぜ」

 いや、オレは再会直後に早口で啖呵切られたけどな。そう言おうとして、ほんの少しだけ己の中で思考を巡らせる。
 もしかして、再会した時のカウンセリングルームだったり、さっき昼メシの時に見せた屈託のない表情なんかが本来の彼女の素の姿なのだろうか。ってことは、普段はめちゃくちゃ取り繕って、というか仕事モードに自分を切り替えて対応をしているのかもしれない。
 となると、やはり彼女の為にも滅多なことは口にするもんじゃない。

「つーかどこ情報だよ、誰と誰がメシ食ったとかそんなんどうでもいいだろが」
「受付のマミちゃんが言ってた。苗字さんはファンが多いし、有名人だからな」
「マミちゃん? 誰だそれ」
「だーから受付にいるだろ、髪巻いてて小柄でちょっとリスっぽい」

 マミちゃんは人懐っこくて小動物って感じだけど、苗字さんはまさにマドンナって感じだよな、とうっとりするような表情で言う同僚を見遣るオレの目は、きっと珍獣でも見るようなものだったに違いない。
 マドンナねえ、なるほど。まあ確かにその表現はあながち間違いではないような気もする。
 あのカウンセリングルームにいる彼女は、きっとその言葉で表されることが正しい、というか、仕事が出来るであろうオーラがバリバリに出ているし、実際そうなのだろう。それなのに向かい合った人間を萎縮させたり緊張させるわけではない。話しやすい雰囲気を作るのが上手くて、でも近しくなろうとすると手が届かない。まさしく高嶺の花、というわけか。
 しかし、実際の彼女はオンオフがハッキリしているというか、あの部屋にいる自分というものを作り上げて仕事をしているのであろうことが、たった二回二人きりで話しただけでなんとなくわかってしまった。
 話をしてみれば普通の女子となんら変わらない。会社での姿を自分で作り上げたのか、もしくは仕事をしていくうちに勝手なイメージが付いて、そうなってしまったのだろうか。
 そんなお節介な思考を巡らせながら「なんか疲れそうだな」と思ってしまった。
 なぜならば、どこからどう見ても、そして中身まで完璧な【第二カウンセリングルームのマドンナ】である彼女よりも、美味い店を発掘したり、食べるのが好きだと屈託なく笑ったり、ちゃっかり「次も奢ってくださいね」なんて企むような表情で無邪気に言う彼女の方が、よっぽど魅力的に思えたからだ。
 そんな彼女の今日の様子を、高嶺の花の素の表情を、自分だけが知っているというのはなんとなく気分がいい。しかし、そんなことを考えてしまっているというのはそっと心の奥にしまっておくことにした。


 ***

 
 三井さんとランチに行ったあの日、戻ってきて給湯室でコーヒーを淹れてから執務室に戻る途中で、ちょうど入れ違いになったサチ子さんに「あら名前ちゃん、何かいいことでもあった?」と話しかけられた。
 へ、と間抜けな声を上げた私はあの時、一体どんな表情をしていたのだろう。恥ずかしいのであんまり想像したくない。
 椅子の背もたれに身を預けながら小さく息を吐く。もう何日か前の、たった一時間足らずのランチ。それが私にとっては「いいこと」で、傍目に見ても「いいこと」があったのだとわかってしまうぐらいだったことが恥ずかしい。
 この社内において、気を使わず素のままでいられる相手なんて、サチ子さん以外では初めてだ。しかも、それがおそらくうっかりワンナイトをしてしまった相手だっていうんだから呆れて笑えてくる。
 あの人の前で今更カウンセラーとして取り繕ったって無駄なだけだし、何よりもう知られて困ることなんかひとつも無い。他の人と話している時みたいにする必要もない。
 本当なら、もう極力関わり合いたくないと思うような間柄な筈なのに。あの人は、三井さんはどうなんだろう。また行こうぜ、なんていう言葉は、果たして彼の本心から出たものだったのだろうか。
 ぱっと見はぶっきらぼうなんだけど、話してみるとそんな事は全然無くて、確か三つぐらい年上だった筈なのに、まるで気心の知れた同期と話をしているような感覚だった。
 一緒にいて楽だったし、この間のランチはちょっとした息抜きのようだった。誘ってくれたことに感謝しなきゃ。自分で自分の感情に半ば無理やり理由をこじつけながら、一旦気持ちを切り替える為にマグカップに口をつける。
 そこで気がついた。本日の昼食を手っ取り早くサンドイッチで終え、事務作業を崩していた私が十三時過ぎに淹れたコーヒーはとっくに飲み干してしまっていた。
 左手に嵌めた腕時計を確認すると、いつの間にか十五時を過ぎており、更にその針はもうすぐ十六時を指そうとしていた。次に入っている対面カウンセリングの予定は十七時である。
 すごく集中していたみたいだ。肩も首もガチガチで、加えて深刻な眼精疲労まで感じる。やっと空いた時間が出来たから、と積まれていた細々とした雑務をこなしていたら、時間の感覚がなくなってしまっていた。
 違和感を感じる目頭を親指と人差し指で摘むように指圧して、マグカップを持って立ち上がる。もう一杯だけコーヒーを淹れてドーピングしよう。デスクワーク中に脱いでいたパンプスを履き直し、デスクの引き出しからインスタントのドリップコーヒーをひとつ引っ張り出す。
 首を回しながら空気の篭ったカウンセリングルームを出ると、総務部内は押印申請と本日の郵便をちょうど締め切った時間帯だったらしく、ザワザワと忙しない様子だった。
 マグカップとドリップコーヒーの袋を持った私は、執務室を出て給湯室へと向かう。廊下じゃなくて、執務室の中に給湯室があればいいのに。また戻る時に社員証でフロアの扉を開けなくちゃいけないし、わざわざ一回出なくてはいけないのは正直面倒だ。
 袋を破り、中身を取り出してマグカップの上に乗せ、ウォーターサーバーの熱湯ボタンを押す。コポコポと湯が注がれていくのをぼんやり眺めつつ、ちょうど良いところでボタンから手を離す。狭い給湯室の中に、コーヒーの香りがふんわりと広がっていく。うーん、このにおいを嗅ぐとどうしても甘いものが食べたくなってきちゃうなあ、控えてるのに。
 いい頃合いでドリップバッグを外し、ゴミ箱に捨ててからマグカップを持つ。こうやって熱いコーヒーを持っている状態で社員証をカードリーダーにかざし、ドアを開けなくてはいけないのが面倒ったらないのだ。
 社員証兼カードリーダー。それさえあればビル内のどのフロアにも入れるけれど、なければどこにも入れない。自宅に忘れてきてしまった場合などは総務部でレンタルするしかない。
 右手にはマグカップを持ったまま、私は無意識に「うっわ、やっちゃった……」と呟いていた。扉を開くための社員証は首から下がっているわけでもないし、手に持ってもいない。それはそうだ、社員証を持って席を立った記憶など、私には無いのだから。執務室内のカウンセリングルームにある自分のデスクの上に置いてきてしまったに違いない。

「やっぱり疲れてる……」

 開かない扉の前に立ち尽くしながら、情けない声を漏らす。
 ぼーっと考え事なんかしながら出てきたからだ。まったく何をやっているんだろう。運良く誰か通りがかったり出てきてくれたりしないだろうか、と思ったけれど、それがいつになるかはわからない。
 施錠を開けてもらう為に総務部の電話を鳴らすことも出来るが、忙しい時間帯に「ただ扉を開けさせる」という無駄な仕事を増やすのはとんでもなく申し訳ない。
 でも、もうこうなっちゃったら仕方ないか。ごめんなさいってちゃんと言おう。

「あ! 苗字さん、奇遇だね」

 そんな声を掛けられたのは、カードリーダーの横に取り付けてある受話器を取ろうとした時だった。ドアを開けてもらえるかも、なんていう一縷の希望を抱きながら振り向く。しかし、その人の顔を確認した時、そんな思いは遥か遠くへポーンと飛んでいってしまった。
 思わず出そうになった「うわっ」という心の声を、寸でのところで堪えられた自分を褒めたいと本気で思う。えらい、すごい、さすが私。

「あ、ど、どうもぉ」

 動揺でほんの少し声がひっくり返った上、どもってしまったところは減点だ。
 この仕事をしていると、人から向けられる感情に対して敏感になる。聞き役に徹することを仕事にしているせいか、自分の話を親身に聞いてくれる相手にそういう感情を抱いてしまう人も少なくないわけで。
 つまり、いま目の前にいる彼は、私に対してそんな事象を起こしているひとりである。彼から私に向けられているものは明確な好意で、しかもそれがただの好意じゃなく男女的な関わりや進展を求めるようなあからさまなそれだということに気付いてから、すっかり苦手意識を持ってしまっていた。
 会社の人とはそんな関係になりたくない、と常々思っている。だってそれはとんでもなく面倒なことだからだ。そんなわけで、そのような感情を向けられていることを察したらなるべくさらりと躱すようにしていた。大体の人はこちらの意図を察して諦めてくれるからだ。
 だけど、この人だけはなかなかにしぶとい。オブラートに包まないで言わせてもらうならば、そりゃあもうこの上なくしつこい。親から結婚はまだか、いい相手はいないのかとせっつかれるのが私にとって筆頭の悩みとするならば、現在二番手の悩みはこの彼である。
 見計ったように色んなところに現れるし、加えてしょうもない話題を振るためだけにカウンセリングの予約を入れてきたりする。こちらも暇ではないんです、ということをやんわりと伝えたことだってあったけれど、正直あんまり効き目はなかった。
 このまま根気よく避け続けながら、靡かない姿勢を崩さず、いつか飽きてくれるまでひたすら躱し続けていくしかない。

「あのさ、やっぱりサシでメシ行くのってダメかな? 一回だけでいいから、ね?」

 その人は「お願い!」と手のひらを合わせて腰を屈めて見せる。傍目に見たら人懐っこそうに見えるに違いない。実際、同じ部署の同僚たちにはそんな評価を受けているらしい。
 だけどごめんなさい、じゃあ一回だけってご飯に行って、それだけで済む気がどうしてもしないんです。興味ない人に無駄な時間を割くより、さっさと帰って半身浴でもして睡眠時間に充てたいんです。そうハッキリ言い切ることが出来たらどんなに楽だろう。
 ヨガ、フラダンス、ジム。それとも仕事が忙しくて、とかでもいいかもしれない。実際に忙しいのだし、嘘にはならない。様々な理由を頭の中に浮かべながら、今日はどのカードでお断りしようかと思案する。
 そして、この瞬間にも自分のメンタルがゴリゴリと削られていくのを感じていた。この人と初めて会話をしたとき、うっかりひとり暮らしであることを漏らしてしまっていたので、実家住まいだといういちばん使いやすい嘘は使えない。

「おっ、いたいた。苗字さん、部屋にいねえから探してたんだよ。オレ、十六時から予約入れといただろ? ……あー、入れてたんですけども」

 現れたその人の、三井さんのセリフの意味が良くわからず、私は間抜けな表情で口をぽかんと開けたまま、少しの間だけ思考を停止してしまっていた。しかも、なんかまた変な感じに敬語で言い直してるし。余計に違和感なんですけど。
 三井さんの上から下までを眺めながら、私は必死にこの状況を理解すべく「ええと……」と必死に脳内整理を始める。十六時からの一時間は、何も予定が入っていない筈だ。ましてや三井さんの予定なんて、最初の時以来入っていない。最近はドタバタしていたから、うっかり見落としちゃってたのかな。
 そこまで考えてハッとした。もしかしてこの人、めっちゃくちゃ下手くそだけど助け舟を出してくれているのではないだろうか?
 三井さんから視線を外し、ちらりと横目で目の前にいるその人の様子を伺うと、訝しげに、そしてちょっぴり睨みつけるような視線を三井さん向かって投げていた。

「あ、あー! そうでしたよね、お待たせしてごめんなさい!」

 それじゃあ失礼しますね、と小さく頭を下げてぱたぱたとその場から離れる。三井さんが首から下げた社員証をカードリーダーに翳すと、聞こえてきたピピッという電子音が施錠を解いたことを知らせてくれる。
 先に入るよう促され、やっと開いた扉の先のフロアへと早歩きで入る。そういえばあの人にちゃんとしたお断りの言葉を伝えそびれちゃったけれど、まあいっか。なあなあにしてしまったけれど、これでわかってくれますように。
 やっと中に入れたことと、神経の磨り減るような状況を脱したことで思わず安堵のため息が漏れる。総務部の方々には申し訳ないけれど、執務室内の相変わらず忙しない様子が今だけはなんだかほっとする。
 扉がパタンと閉められたのを確認してから、三井さんに向き直って「ありがとうございました」と頭を下げる。

「いらんお節介だったらアレだったけど、すげえ困ってるように見えたからよ」
「お恥ずかしながら全くその通りです、すっごく助かりました」

 あの人あんまり得意じゃなくて、しかも社員証デスクに置いたまま出てきちゃって、と正直に白状すると、三井さんは「そんならよかった」と頷いた。
 
「それにしても、なかなか面倒そうなのに好かれてんだな」

 この人は、鈍感そうに見えて思いのほか察しが良いのかもしれない。さっきの助け舟だって、とってつけた感と無理やりな感じはあったけれど、助けてくれたことには違いない。私がわかりやすく嫌そうな顔をしていたのなら、それはそれで反省して気をつけなくちゃいけないことなのだけど。

「こういうの、割とよくあるんですよ。大体は躱し続けてると察して諦めてくれるんですけど、あの人なかなか折れてくれなくて」

 周りに聞かれると厄介なので、声を抑えながら伝えてみる。業務に支障が出るので社内で波風を立てたくない。そんな気持ちがある筈なのに、思わず本心を吐露してしまっていた。
 苦手だとか嫌いだとか、そういうのを自分の中だけで抑えていられたら気のせいにしてしまうことも出来るけれど、人に伝えてしまうとその気持ちがどんどん強くなってしまう。だから、人に漏らすつもりはなかったのに。

「そりゃめんどくせえメンタル強者に当たっちまったな」
「逆に私がストレスで折れそうですよ。だから本当に助かりました、ありがとうございます」

 それにしても、先ほど突然階段の方から現れた三井さんのタイミングの良さには驚いた。あの時の彼は私にとってまさしく救世主のようだった。社員証もなく、苦手な人と一対一で逃げ場もないまま、加えて熱いマグカップを持ったままだったのだから。
 思わず「三井さんはどうしてこの階に?」と問うと、彼はハッとした様子で答えた。

「あー、総務に用事があってよ。まあでも、いいタイミングだったみたいで良かったわ」

 私の肩を軽くポンと叩きながら「疲れたカオしてんぞ、あんま無理すんなよ」と言った三井さんは、通り過ぎざまに小さく手を上げ、慌ただしそうな総務のデスクの方へ向かってずんずんと歩いて行く。
 不思議なことに、先程まで重くて重くて仕方なかった肩がほんのすこしだけ軽くなった気がした。

「……うわ、あっつ!」

 一瞬力が抜けたせいで、手に持っていたマグカップが斜めになっていたようだ。まだ熱いコーヒーが指先を濡らしたことで、ようやく私は自分がその場に立ち尽くしてしまっていたことに気づくのだった。


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