3.


 目が回るほど忙しいとはまさにこの事だ、と毎時毎分思うような日々が続いている。
 自分のスケジュールを覗くと、現実から目を背けたくて視線が泳いでしまうほどのギチギチ具合。そんな時期のことを人は繁忙期と呼ぶ。
 面談の合間に取っていたメモをまとめて資料を作り、次の経営会議で提言する意見書のプレゼンも作らないといけない。時々自分が何をしたらいいのか、加えて今何をしているのかさえわからなくなってくることもあるけれど、そんなふうにオタオタしていても時間が待っていてくれることはない。

「では、こちらまとめて次回の経営会議で提言いたしますね」

 カウンセリングに訪れていた男性社員に、こんがらがりそうな脳内を悟られないよう、精一杯自然に見せかけたにっこり笑顔で対応する。

「助かります、以前も苗字さんにお願いしたお陰で作業環境の見直しが出来たので」
「いえいえ、それが仕事ですので」

 これが終わったら次はあれ、合間にそれを片付けて……と、頭の中では既に今行っているカウンセリングとは全く違うことを考えて整理し始めているのに、問題なく正しい受け答えが出来ている自分。そんな器用なことをこなしてしまえる性分でよかったと心底思う。
 部屋を出て行くスーツの背中に軽く会釈をしながら見送り、今度はバタバタとパソコンデスクへと戻る。誰からも見られない個室であるのをいいことに、デスクの下で雑にヒールを脱ぎ捨て、タイトスカートの裾が捲れ上がっていることも気にせず椅子に座った。ふう、と息を吐いてモニターに向かい、マウスに手を乗せる。
 時刻は十一時、なんともうあと一時間でお昼休みだ。バタバタし過ぎてあっという間の午前中。しかし、まだ午前中だというのに私の脳みそはとんでもなく疲弊してしまっている。今日は外に出てくるであろうキッチンカーでお弁当を買ってきて、ここでサクッと食べてソファーで目を閉じて横になろう。
 次の予約は十五分後、それまでに今のカウンセリングの内容をまとめなくちゃ。メールチェックは辛うじて空いている午後の隙間時間に片付けるしかない。
 ぽん、とチャットの通知が入ったのはそんな時だった。

『お疲れ様です。昼メシ、奢るんでどうですか』

 とても簡潔なたった一行の文章。それは、三井さんから飛んできたものだった。
 青天の霹靂とはこれぞまさに、ってかんじだ。途端に胸がザワついて、この人はまさかまだあの時のことを気にしているのか? と思わず眉間にシワを寄せながら画面に顔を近づける。
 あの出来事が起きてから、もう二週間が経過している。彼とはあれから関わることもなく、顔を合わせたり会話をすることも特になかった。なんとなく記憶が薄まってきて、ようやく時間が傷を癒してくれそうだったところで彼の存在を思い出す。まあ、人生でいちばんの失敗って思ってるぐらいだし、忘れたくても綺麗サッパリ忘れられるなんてありえないんだけど。
 それにしてもランチのお誘いとは。訝しく思いながらも、ついつい「奢るんで」のひとことに揺らいでしまう単純な私の心。

『お疲れ様です。プライベートでなく、ミーティングって体でしたらお受けできます』

 そう返事をしたら、即座に『じゃあランチミーティングってことで』というレスポンスが飛んでくる。じゃあってそれ、プライベートを含むってことじゃん、と思わず画面に向かってひとりで笑ってしまう。やっぱりなんだか憎めない人だ。
 普段は万が一ありえないこともない面倒事を避けるため、同じ会社の男性社員から一対一のランチや飲みのお誘いがあれば丁重にお断りするようにしている。だけど、この人はなんていうかそういう感じではなさそうだ。いろんな意味でわかりやすいから裏なんてなさそうだし。まあいっか、奢りってことだし。
 お昼休みになったら一階のエントランスで、という待ち合わせを取り付けて、改めてパソコンの画面に向かう。
 さっきまでさっさとひとりでごはんを食べて、ソファーでちょっと眠りたい、なんて思っていたことは、いつの間にか忘れてしまっていた。


***


 お昼の時間になり、混み合うエレベーターになんとか乗り込んでエントランスに降りる。すると三井さんは既に到着しており、私の姿を認めると軽く手を上げた。
 少し待たせてしまったのかもしれない。ヒールを鳴らして早足で駆け寄りながら「お待たせしてすみません、お久しぶりです」と声を掛けると、彼は「そんなに待ってねえから気にすんな」と私に向かってぎこちなく笑んでみせる。

「元気……って感じじゃなさそうだな。業務、忙しいのか?」
「いま繁忙期なので。このあとすこーしだけ落ち着いて、また年末にかけて死ぬ予定です」

 そりゃ大変だな、と軽そうな言葉を発した割に、なかなか深刻そうな表情で私を見下ろす三井さん。疲れが顔に出てしまっていたのだろうか。そうだとしたら反省だ。とりあえずお昼食べに行きましょう、と賑わうエントランスからビルの外に向かって歩き始めた私を「ちょっと待った」と彼が静止する。

「誘い出したはいいけど、オレここらへんのメシ屋全然知らねーんだよ」

 この男、どこに行くかも決めていないのにランチ誘ってきたんかい。
 そんな言葉をグッと飲み込む。それなのにどうしてだろう。不思議なことに、私はおかしくて愉快な気分になってしまっていた。
 長い付き合いでもない。その上なかなか最悪な出会い方をして、こんなことがありえるのって声に出してしまいたくなるほど、信じられない再会をした相手。たったそれだけの筈なのに、ろくに交流だってしていないのに、そんなところがこの人らしい、なんて思ってしまう。
 しかし、よくよく考えてみたら異動してきて一ヶ月も経っていなくて、加えてコンスタントに会社に出勤するわけではない外回りメインの営業職。そんな人がビル近くのグルメを開拓しているわけがない。

「まあ……そうですよね、わかりました。そしたら私のおすすめでもいいですか? 五、六分ぐらい歩きますけど」

 もちろん、と大きく頷いた三井さんが横に並んだのを確認してから、再び歩を進めていく。首から下げた社員証を揺らしながら、今から一緒にランチに向かうのは酔っ払ってワンナイトしてしまった相手。なんて違和感のある組み合わせだろう。
 それでも、彼に対しては自分を取り繕う必要も理由もないということが、私にとっては気が楽だった。接客ではないけれど、それに似たような業務内容である。だからこそ、思ったことをハッキリ口にしてはいけないことも多いし、いつだって傾聴して、時には無理をして笑顔を作らなくちゃいけない時だってある。
 でもこの人には再会して早々に啖呵を切ってしまったし、そのせいか肩肘張らずにいることが出来る。ついでに今日はランチ奢ってもらえるし、と心の中で言い訳みたいに繰り返す。
 この辺りはオフィス街なので、お昼の時間ともなれば行き交う人々で賑やかになる。私たちは差し障りのない、かつ他愛のない会話を交わしながら、人の波に溶け込むように歩く。秋晴れの空から注ぐ日差しは眩しくてあたたかい。

「ふーんなるほど、蕎麦屋か」

 辿り着いたのは、オフィス街から少し離れた場所にあるお蕎麦屋さんだった。会社の女性に連れて行かれるランチ、彼はどんなお店を想像していたのだろう。ちょっと小洒落た洋食店とか、きっとそんなところだろう。

「うちの会社の人、あんまりここまで歩いてこないんですよ。ビルの周りにランチできるところたくさんあるので」

 三井さんがどうして私をランチに誘ってくれたのか。それを推理するのはとんでもなく容易だった。おそらく調子はどうだとか、そんなことを聞きたいのだろう。だから同じ会社の人をあまり見かけないこの店を選んだのだ。
 それと、私がふつうに麺を食べたい気持ちだったというのもある。お気に入りのラーメン屋さんもあるけれど、初めて一緒にランチに行く男性をラーメン屋に連れて行くってのは流石にどうなのだろう、という抵抗感がほんの少しだけあったので、今回は除外することにした。
 暖簾をくぐってスライドする引き戸を開けると、途端に出汁のいい香りが鼻腔の奥を刺激してくる。うん、やっぱり日本人は出汁の匂いに抗うことが出来ないのだな、としみじみ感じつつ、駆け寄ってきた店員の女性に「二人です」と伝え、すぐに席へと案内された。
 向き合って座ったところで、温かいお茶とおしぼりを出される。

「へえ、色々あんだな」

 早速テーブルに置かれたメニューを開き、真剣な表情で目を通していた三井さんが「蕎麦屋に来ると蕎麦食わなきゃって思うのに、親子丼とか試してみたくなるよな」とひとりごとみたいに呟く。
 うわ、めちゃくちゃわかる。三井さんのそんな言葉に共感を覚えすぎて思わず「ここの親子丼、たまごのとろとろ具合最高ですよ」なんて声をかけてしまった。
 まあでも、今日の私はやっぱり麺の気分なのでお蕎麦にしよう。カレー南蛮もいいなあと思っていたけれど、しまった。今日のトップス白じゃん、悔しいけど今度にしよう。
 相変わらずメニューとにらめっこしていた三井さんは、悩みに悩み抜いた末に「苗字さんは何にすんだ?」と問うてきた。どうやら決めきれなかった様子だ。

「カレー南蛮がいいなって思ってたんですけど、今日の服白いから天そばにします」

 このあとも予約入ってるので、と付け足すと、三井さんは「なるほどな」と小さく頷いた。

「よし、じゃあオレもそれにする」
「あ、舞茸天追加してもいいですか?」
「もちろん。うめーのか?」

 こくんと頷いて「めちゃくちゃ絶品です」と伝えると、彼は迫真の表情で「そりゃ便乗するしかねえ」と言った。
 注文するために軽く手を上げると、先ほどテーブルへ案内してくれた店員が駆け寄ってくる。天そば二つと舞茸の天ぷらを追加で、と伝え、出されていたお茶をひとくち含む。秋だなあと思える今の気候なんてほんの一瞬だろう。温かいほうじ茶が体にしみる。

「九月で終わっちゃったんですけど、暑い時期限定で三杯酢そばっていうのがあって、それがサッパリしてて美味しいんです、大きい焼き豚も乗ってて」
「つーことは一年待たねーと食えねえんだな……。その時期が来たらまた教えてくれ」

 もちろんです、と返事をしながら、一年という単語にふと気持ちが重くなった。
 呪いみたいに乗し掛かってくるあの言葉を、果たして来年の今頃まで何回言われることになるのだろう。想像しただけで憂鬱だ。加えて、そんなことぐらいで気持ちが重くなってしまう自分の弱さが悔しい。
 人生に当たり前なんてものはない筈なのに、女だからこの年齢までにはこうじゃないといけないとか、どうしてそんなことをとやかく言われないといけないのだろう。親が安心したいって気持ちはわからなくもないけれど、別にふらふら生きてるわけじゃないんだけどな。
 ……って、今目の前にいる人と二週間前にあんなことがあった手前、胸を張ってそうは言い切れないところが歯痒い。

「その……悪かったな、嫁入り前の女に」
「あはは、その言い方。もう気にしないで下さいって言ったじゃないですか。お互い記憶ないんだし、それに私も処女だったってわけでもないですから」

 なんだ、やっぱり私の様子が気になって誘ってくれただけか。こっちは珍しく同じ社員同士でも仕事用に取り繕わないで会話できる相手だからって新鮮な気持ちだったんだけど。ちょっぴり残念だ。

「相変わらずサッパリしてんのな」
「いつまでも失敗引きずってたって、良いことないですから。仕事柄、短時間での気持ちの切り替え得意な方なんです」

 そんな私のセリフに「それ、オレには痛え言葉だ」と三井さんは困ったように眉根を寄せて苦々しく笑った。
 お待たせしました、と運ばれて来た天そばを前にして、図らずも二人で声を揃えて「いただきます」と言ってから、もう一度手を拭いてお盆に乗せられていた箸を手に取る。立ち昇るいいかおりの湯気が、午前中の業務だけでたっぷり疲弊した体の中に沁みていく。
 ひとくち蕎麦をすすっただけで「ああ、日本人でよかった」なんて思うのはちょっと大げさすぎるかもしれないけれど、でもそう思ってしまうのだから仕方ない。

「ここの蕎麦、めちゃくちゃ美味いな! いい店教えてもらったわ」

 色々試したくなっちまうな、と頬を綻ばせる三井さんのリアクションにほっとする。ひとりランチで開拓をして見つけたお気に入りのお店のストックはたくさんあるけれど、紹介するときはいつだってちょっぴり緊張してしまうのだ。

「よかったあ、私食べるの好きなので、お気に入りのお店たくさんあるんです!」

 少しだけびっくりしたような表情をした三井さんは、すすりかけだった蕎麦を咀嚼してから口元に拳を当てる。そのあとで小さく咳払いをした彼は「なんだ、そういう顔も出来んだな」とその口角を上げた。

「え?」
「そうやって自然に笑ってんの、めちゃくちゃいいじゃんっつーこと」

 変な話だれど、私にとって彼はもう全部をさらけ出してしまった相手で、更にお互いこっ恥ずかしい秘密を共有し合っているからだろうか。あくまでも会社の人間である彼に対して、自分の中から自然な笑顔が出ていたことにびっくりした。
 もう色んなこと知られちゃってるし、怒鳴っちゃったし、取り繕う必要はないかなって思っていただけ。それだけな筈だったんだけど。困った、なんだかだんだん顔が熱くなってきた気がする。っていうか、そんなセリフをサラリと言っちゃうんだ、この人。

「……私、あの時ちょっと親にごちゃごちゃ言われたばっかりで荒れてたんです」

 だから私が三井さんのこと誘っちゃったのかもしれないです、ごめんなさい。
 小さく頭を下げる。自棄になってしまっていたとしても、最初は混乱していても、本当はもっと早くに謝っておくべきだった。この人のこと、頑固だとか頭カタそうだとか、私が言えるようなことじゃなかったんだって。

「なんやかんやで今の仕事楽しいですし、毎日充実してるんですけど、田舎の親の頭の中って娘の結婚のことばっかりなんですよね。それをこないだの結婚式でふと思い出しちゃって」

 なんでこの人にこんな話をしているんだろう。既に平らげた器の中で、澄んだ出汁がゆらゆらと揺れている。言い訳みたいになっちゃった、っていうか情けないことに実際言い訳なんだけど。自棄を起こしてこの人を巻き込んでしまったのかもしれない。それがずっと心の中で引っかかっていた。
 後ろめたい気持ちになり、真正面にいる三井さんから視線を外してしまう。無言の時間の後で、勇気を出してそっと彼の様子を盗み見てみたら、私の気持ちとは裏腹にポカンとした表情の彼は「いや、何言ってんだ?」と首を傾げながら腕を組んでいる。

「例えばオレが苗字さんのヤケクソに巻き込まれてたとしても、あん時のオレは確実にいい思いしてるからな。……証拠、あったし」

 まあそのいい思いも忘れちまってるんだけど、と唇を尖らせながら付け足した三井さんは、なんだかちょっぴり子どもっぽくてかわいらしかった。
 並んで歩くと見上げなきゃいけないぐらい上背があって、男前だけどぶっきらぼうだからぱっと見は強面で。それなのにコロコロ変わる表情とか、裏表のない言葉とか、そんなのがどうしようもなく心地いい。やっぱり不思議な人だと思う。

「そうだ、タイミング合ったらよ、他のおすすめの店ってのにも連れてってくれ」

 まだまだあるんだろ、と続けた三井さんはニッと歯を見せて笑った。その言葉に、間髪入れずにこくんと頷いていた自分に自分で驚いてしまう。お昼前に飛んできたチャットのメッセージを読んだ時の訝しい気持ちなんて、あっという間に消え去ってしまっていたらしい。

「もちろん! 実はさっきラーメンかお蕎麦か迷ったんです、今度はそっち行きましょう」

 三井さんの奢りですよね、と冗談めかして付け足したら、彼は一瞬呆気に取られたような表情をしてから「ちゃっかりしてやがる」と笑った。


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