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 明るくなった画面の中に表示されている「三井さん」という文字を眺めながら、通話ボタンを押すか否かほんの少しだけ躊躇した。
 これから自分がしようとしている行動は、野暮でお節介以外の何物でもない。しかし、このタイミングでこの電話が掛かってきた事が、とても偶然とは思えなかったのだ。
 わがままに付き合ったんだもん、ちょっとぐらいアタシが思うように行動させてもらってもいいよね。無防備にカウンターに突っ伏し、瞼を閉じて小さく肩を上下させている名前に、心の中で「お節介してごめんね」と謝りながらその電話に出た。

「あー……ええと、今日はありがとな。でさ、おまえ車の中に内履き忘れてってたぞ。休み明けに会社持ってくけど、それでいいか?」

 電話が繋がるなり、聞こえてきたのはそんな言葉だった。
 うーん、どうやらは名前はアタシが思っていた以上にいっぱいいっぱいだったらしい。まるで計算高い女がやりそうな計画的ミスのようにも感じるけれど、この子のことだから間違いなくその線は無いだろう。
 とりあえず、今は彼に通話している相手が苗字名前ではないことを伝えなくてはならない。

「すみません。アタシ、名前じゃないんです」
「……は?」

 そう伝えてから返ってきた声は、たっぷり三秒ぐらい後だったように思う。
 もし三井さんの気持ちがこの子と同じものであったならば、この時間に電話を掛けて本人ではない男の声が返ってきたら動揺するに違いないと思ったのだ。まだちょっとわからないけれど、間違いなく驚きはしているようだ。

「アタシ、名前の友人の梅村といいます。いままで一緒に飲んでたんですけど、この子酔っ払って寝ちゃってて」

 ここで勘違いをされないように、自分が名前と色気のある関係では無いことを伝える。続けて状況説明をし「付き合ってるフリしてる事とか、その他諸々は伺ってるので存じてます」と畳み掛ける。
 電話口の向こう側にいる三井さんは、案の定頭が追いついていないらしく「あ、ああ、えっとワリィけど、ちょっと整理させてくれねえか……?」と、第一声からは明らかにボリュームを落とした声が返ってきた。
 そりゃそうなるか。もっと、ひとつずつゆっくり伝えたらよかったかもしれない。だけど勘違いをされるわけにはいかなかったし、早めに誤解を解いておかないと、このあとのプランの障害となってしまう。それだけはなんとか避けたかったので、やはりこれが最適解であったと信じたい。

「えーと……まあ、とりあえずそっちの状況はわかった。そんじゃまた明日以降連絡するようにするわ。いきなり悪かったな」

 彼のその言葉から、早々に通話を切ろうとしている空気を感じ取る。しかし、それをさせるわけにはいかない。光る画面に「三井さん」という文字が浮かんでいるのを確認した時、アタシの頭の中にポン、と浮かんだ作戦は今のところ上手くいっている。本筋はここからだ。
 試すような真似してごめんなさいね、とまだ顔を合わせたことすらない三井さんに心の中で謝りながら「まだ切らないでください」と間髪入れずに伝える。

「申し訳ないんですけど、今から言う場所まで名前のこと迎えに来れませんか?」

 その問いを投げたのは、彼がどんな気持ちで、そしてどんな覚悟を持っての偽りの彼氏役を買って出たのか、自ら負ったその責任をどのように考えているのか推し量る為だった。
 ついさっき野暮なことは止めよう、と名前に意見するのを我慢したばかりだっていうのに、結局思いっきり首を突っ込んでしまっている。

「ああ、そういうことか。わかった、今メモすっから少し待ってくれ」

 即座に帰ってきた返答がそれだった事に、アタシは思わず「え?」と声を漏らしてしまっていた。彼の声からは寸分も迷ったような気配を感じられず、寧ろそれがさも当然である、とでもいうような声音だったからだ。
 どうしてオレが迎えに行かないといけねえんだとか、そんな答えが返って来ようものなら、さっさと縁を切らせてしまおうと思っていたのに。

「え、いいんですか?」
「は……? んだよ、そっちが言ったんだろ」
「いや、ええと、ごめんなさい。準備、出来たら言ってください」

 こちらからふっかけたというのに思わず動揺してしまっていた。これはもう、脈があるとかないとかそんな状況ではない。二人とも同じ気持ちのまま、同じように悩んでいるだけなのではないか、という疑いが確信に変わっていく。
 アタシがしたこの行動は野暮だったかもしれないし、お節介には違いない。それでも、無駄では無かったと思いたい。
 うっかり興奮してしまった気持ちを落ち着かせるべく小さく咳払いをしたら、ちょうど電話口の向こうから三井さんの「オッケー、場所教えてくれ」という声が聞こえてきた。
 今いる馴染みのバーの場所を伝えると、彼は三十分足らずで到着できそうだと言った。

「サンキューな、今から行くから、そいつの事もう少しだけ頼む」

 なんだ、名前ってばちゃんと男見る目有るじゃない。
 この二人にもうこれ以上の探りを入れることこそ、本当の野暮というものだ。このあとはもう、このままなるようになるのを見届けるだけにしよう。
 ああ嫌だ、柄にもなくキュンとしてしまったじゃないか。ほんの少し悔しくなって、すやすや眠るかわいい親友の頬を軽く小突いてやると、彼女は眠ったまま「むう……」と小さく声を漏らした。


***


 三井さんが現れたのは、それから二十分ほど経った頃だった。想像していたよりも精悍な顔つきをしたその人の事を、かなり不躾に眺めてしまった自覚があったが、それは彼の方も同じだったので許されたい。
 アタシを見つめている三井さんの頭の上に「やっぱり男だったのか」という言葉がわかりやすく浮かんでいる。まあ、そりゃそういう顔になるに決まっている。

「梅村です、先程はありがとうございました。わざわざすみません」
「こっちこそ。電話出てくれてありがとな」

 名前の話でしか知らなかったこの人とついに対峙したことで、アタシの中でモヤが掛かっていた部分にこの人の姿が当てはまっていく。
 三井さんは、アタシの横ですっかり寝こけてしまっている名前に目をやると、困ったように目を細めながら「しょーがねーヤツだな」とほんの少しその口角を緩めた。言葉とは裏腹に、こんなにも優しい表情でこの子のことを見る三井さんの眼差しとその声音からは、隠しきれていないあたたかい感情が溢れている。

「……その、オレらの話聞いてるよな? 知り合った時の」
「二人とも酔っ払って朝起きたらラブホ、ですよね」
「なのにこいつ、全然反省してねーな」

 まあそれだけアンタのこと信頼してるっつーことか、と三井さんは続ける。
 おそらく、そんな出会い方をしていなければ、この二人は変なしがらみに囚われることもなくさっさとくっ付いていたに違いない。
 そんな出会い方をしたから、その相手に自分の気持ちを伝えてもどうにもならないと、お互いがお互いに思い込んでしまっているのだろう。そのせいで、どうにも身動きが取れなくなってしまっているに違いない。
 っていうか、何で完全部外者のアタシにそれが分かって、本人達が究極の遠回りをしてしまっているのだろう。中学生じゃあるまいし、という言葉をグッと飲み込む。そう、流石にこれ以上手出しや口出しをすることは自重しておこうと今度こそ決めたのだ。

「でもこの子、そのやらかし以来アタシと会う時もアルコールは一切口にしてませんよ。今日が初めて」

 それだけは名前の名誉と、そしてもう一度アタシとの関係を勘違いさせない為に伝えておくことにした。

「それじゃ、お店出ますか。アタシ、タクシー呼びます」

 既に会計は済ませている。この件が上手くいった暁には、この二人からたっぷりお酒を奢ってもらおう。そんなことを考えながら、タクシー会社に電話を掛ける。三井さんはすっかりくたくたの軟体生物に成り果てている名前を軽々とおぶってしまった。

「あの、つかぬことをお伺いしますが、なんで名前にここまでしてくれるんですか?」

 もう首を突っ込まない、と言ったのはどこの誰だったか。うっかりまた野次馬の様な質問をしてしまった。しかし、反省しつつも彼の言葉を待ってしまうということは、アタシは実際ちっとも反省なんかしていないのかもしれない。
 三井さんは数秒硬直し、眉間に深い皺を寄せながらアタシのことをじっと見据え、それから背負っている名前をちらりと見遣った。

「なんつーか、上手く言えねーけどほっとけねーって思っちまうんだよ、こいつのこと」

 その気持ちはなんとなくわかる。この子は人のメンタルケアとかを仕事にしているくせに、自分に対してはそれがとんでもなくヘタクソなのである。
 三井さんは「それに、フリっていっても一応は付き合ってる体だしな」とどこか照れくさそうな様子で続けた。
 ちょっと堅物そうな見てくれはきっと内面そのままで、愚直なほど真っ直ぐで頑固。面倒見が良くて心配症で、口調は粗暴で砕けているけれど、何故か嫌な感じは全くしない。多分、この人も名前と同じで最初の出会いは猛省するほどの失態だったに違いない。そうじゃなきゃ、ここまで出来るわけがないからだ。

「……そっか。お願いしますね、名前のこと」
「おう任せろ、ちゃんと送り届けるからよ」

 キリッとした表情で頷いた三井さんに拍子抜けしてしまい、思わず噴き出してしまった。

「あはは! まあそういう意味でもありますけど」

 三井さんは「なんだよ」と言いながら怪訝そうに目を細めていたけれど、アタシは小さく首を振ってお茶を濁すことにした。そりゃお互いすれ違うわけだわ。不器用且つ鈍いもの同士がぶつかりあってるんだから、中々進展しないのにも納得がいく。
 そんな会話をしているうちに、タクシーが到着した。後部座席のドアが開き、三井さんは背負った名前を先ず座らせる。アタシは運転手に名前のマンションを伝えてから、乗り込もうとしている三井さんの手のひらに運賃と彼女の部屋の鍵を握らせた。

「なんだこれ」
「タクシー代、多分それで足ります。あと、この子の部屋の鍵。鍵かけたらドアポストから中に入れておいて下さい、いつもそうしてるので」
「いや、タクシー代ぐらいオレが……つーか大分多いぞ」
「いいんです。ここまで来てくれた男気に、少ないけど投資って事で。名前のマンションは知ってますよね?」
「ああ、でも部屋までは知らねえ」
「602号室です。その鍵でエントランスのオートロックも開きますから」

 三井さんはひとつ頷いたが、まるで逡巡するかのように、どこか後ろめたそうに視線を泳がせたのち、その視線をアタシに向けてから口を開いた。

「今更だけどよ、本当にオレに任せていいのか?」

 いや、本当に今更だな。っていうか、そんなことわざわざ自分から言っちゃうなんて、馬鹿正直にも程があるというか。まあ、だからこそ大丈夫だって思ったんだけど。

「アタシ、人を見る目には結構自信あるんです」

 じゃあお願いします、とタクシーの運転手に伝えて車から離れると、後部座席のドアが閉められた。三井さんと名前を乗せたタクシーが遠ざかっていくのを眺めながら、アタシはその場でぐーっと伸びをする。
 今度こそ、部外者が茶々入れるのはここまでだ。あとは野となれ山となれ。当人たちがほんの少し踏み込めば済む状況なのだとわかったことは、今夜の大きな収穫となった。
 まあ、そのほんの少しがとんでもなく重たいってのが、結構ネックだったりするんだけど。


 ***


 はぁ、と思わず漏れ出てきてしまったため息は、意図せず緊張していた糸が弛んだからだったのかもしれない。オレの右肩に頭を預けながら、すうすうと規則正しい寝息を立てている彼女の寝顔を、まさか一日で二度も拝む事になろうとは思ってもみなかった。
 最初に電話を掛けて男が出た時には動揺したし、そういう関係では無いという旨の言葉を聞いてもにわかには信じられなかったが、実際に会って会話をしたら本当にただの友人同士であることがわかった。彼女があそこまで無防備になってしまっていたことで、梅村と名乗ったあの人物が、彼女にとって気の置けない人間なのだと察することが出来たからだ。
 お願いしますね、名前のこと。そう言った梅村の言葉が脳裏に蘇る。
 抱いた記憶さえ無くしてしまっている男のことを、よくもまあすぐに信用しようと思ったものだ、と自嘲を交えて苦笑しつつ、何もない車内の天井を見上げる。
 つーか、なんでこいつはこんなになるまで飲んでんだよ、全然懲りてねえじゃんか。
 自分の中で膨れ上がってきた憤りには違和感しか感じない。オレはただ彼氏のフリをしているだけで、普通に考えてモヤモヤを保持するような理由は無いのだ。
 そんな複雑な思考を巡らせていたら、いつの間にかタクシーは彼女の住まうマンション前に到着していた。運賃を支払い、相も変わらずオレに体重を預けながら寝こけている彼女を背負う。タクシーを降り、先ほど握らされた鍵をオートロックに差し込むと、エントランスのガラス扉が開いた。
 エレベーターに乗り、六階のボタンを押す。背中に感じる彼女の温もりと、その体の柔らかさから気を逸らす為に深く息を吐く。
 602号室、602号室、と頭の中で呪文の様に唱えていたら、エレベーターはあっという間に六階へ到着していた。ものの数秒だった筈なのに、狭い密室の中で密着していたせいか、やたらと時間の経過を遅く感じてしまっていたようだ。
 背負った彼女を落としてしまわない様に、注意しながら部屋の鍵を開ける。誰が見ているわけでもないが、なんとなく小さな声で「お邪魔します」と呟いてみる。
 寝かせるのは寝室がいいだろうと思っていたが、女がひとりで暮らしている家の中で閉められている部屋の扉を開くことや、そもそも寝室を開けてしまうことには大いに抵抗を感じたので、申し訳ないが彼女を下ろす場所はリビングのソファーに決定した。
 ゆっくりと腰を下ろし、気持ちよく眠っているところを起こさないように細心の注意を払う。
 ようやくくっつけていた体を離すことが出来てホッとする気持ちと、それを名残惜しく感じてしまっているどうしようもない自分。呆れかえってため息すら出てこない。

「梅ちゃん、ごめんね……」

 か細い声で聞こえてきたのは、間違いなく彼女の声だった。ソファーに横たわっている彼女の顔をちらりと見遣るが、目を閉じたままなので覚醒しているのかはわからない。
 梅ちゃん、と彼女が発したその単語から、どうやら今自分の傍にいるのは梅村であると思っているらしい。

「……アイツじゃなくてオレだっての」

 思わず、そう言葉を返してしまっていた。梅村と彼女の関係性が本当に単なる友人関係であることは、先ほど顔を合わせてしっかり理解した筈だった。それなのに、いまオレの中を渦巻いているのは明らかな嫉妬心と焦りである。
 しかし、そんな感情を自分が持つのは明らかにお門違いであることもわかっていた。何故ならばついこの間知り合ったばかりで、本当の彼氏でも無い。ただハプニングが起きたから、そんなフリをしているだけの他人なのだ。

「私、三井さんにも迷惑ばっかりかけてる……」

 突然自分の名前が出てきた事に驚き、落としていた視線を持ち上げて彼女の顔を確認する。 ほんの少し顔を近づけてみるが、やはり意識がある様子はないので、まだ眠っているとみて間違いないだろう。思わず漏れたのは苦笑で、そして勝手に口角が緩んでしまっていた。

「迷惑なんて、これっぽっちも思っちゃいねえよ」

 彼女の額に手のひらを乗せる。静かな部屋の中で、聞こえてくるのは彼女の規則的な呼吸の音だけ。それが余計に愛しく感じる。

「名前」

 眠る彼女の名前を呼び、ゆっくりと頭を撫でる。その想いに気付いて自覚してからも、その言葉を声に出してみたことは無かったように思う。

「オレは、おまえのことが好きなんだ」

 実際に口に出してみたら、その感情はもう隠し切ることが出来ないほどに膨らんでしまっているということに気づいてしまった。



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