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 少し遅めの昼食を済ませ、しばらく下道を走る。信号に掴まったので、隣に座る苗字さんの様子を横目で伺うと、彼女は眠気に抗いながら船を漕いでいる状態だった。
 首がガクンと揺れるたび、ハッとしながら一瞬だけ覚醒する。その様子がとても面白く、そして本人には言えないがとんでもなくかわいらしかったので、オレは堪えきれずに小さく噴き出してしまっていた。

「……!? あ、いや、今のはええと」

 彼女は慌てた様子でこちらに顔ごと向けると、何か言いたげに首を横に振った。

「いや、そりゃ眠いよな。寝てていいぞ」
「い、いえ! 運転していただいてるのに助手席で寝るなんて」

 こちらから呼び出した上、せっかくの休日に早め集合を強いてしまった。近頃は繁忙期だと聞いていたし、残業も増えていたらしい所に申し訳ないことをしてしまったと思っていた。
 信号が青になったのを確認しながら、ゆっくりとアクセルを踏む。横にいる彼女が未だに居た堪れない空気を醸し出しているのを感じて「そんなん気にしねえよ」とひとこと。それからもうひと押しとばかりに畳み掛けてやる。

「ガクガク船漕いでんの見てんのもまあ、面白かったけどな」

 彼女はそこでようやく己の眠気との戦いを止め、抗うことを諦めたらしい。まだどこか申し訳なさを含んだ声音で「それじゃあ、お言葉に甘えて……すみません」と言うと、助手席のシートに深く背を預ける。運転中なのでその寝顔をじっくり観察できないことが残念だが、こればかりは仕方ない。安全運転第一である。
 信号待ちで、ちらりと一瞬だけ彼女の様子を盗み見たら、柔らかく閉じられた瞼とその安らかな表情は、どことなくあどけなさを感じさせた。そういえば、最初の時はオレよりも彼女の方が先に目覚めていたので、当たり前ではあるが寝顔を見るのはこれが初めてだ。
 車内を流れるラジオの音量をほんの少し下げると、耳を澄ませないと聞こえない程度だが微かに規則的な呼吸音が聞こえてきた。これぞまさしくおやすみ三秒だな、なんて考えていたら、無意識のうちに自分の口角が緩く持ち上がってしまっていることに気づく。

「名前お姉ちゃんって、ミッチー先生の彼女なんでしょ?」

 練習中、そう問うてきたのは五年生の女子児童二人組だった。このマセガキ、と額を軽く小突いてやると、二人は「やっぱりそうなんだ!」とキャッキャと盛り上がってしまった。

「残念だったな、ホントに同じ会社ってだけだぜ」

 付き合っているフリをしているとは言っても、教え子たちにまで関係性を取り繕う必要性はどう考えても無い。そして事実、オレと苗字さんはそのような関係では無いのだ。
 目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、訝しげな表情を向けてくる二人の視線にはあからさまに「ミッチー先生のうそつき」という文字が浮かんでいた。が、それには気づいていないフリをして「おめーらも紅白戦の準備してこい」と軽く背中を押してやる。
 そうやって、自分の言葉でちゃんと否定を口にし続けていなければ、悔しいが器用とはいえない自分自身の心がそれを事実であると勘違いしてしまいそうになる。本当に付き合っているわけじゃない。しばらく彼女の身の安全を守る為にこのような提案をして、実行しているだけなのだ。単なる期間限定用心棒である。
 あの時、咄嗟にしてしまったこの提案は果たして正しかったのだろうか。
 まさか彼女が本当にその提案に乗ってくるとは思わなかったが、この関係にはいつか終わりが来る。取り返しがつかなくなる前に、これ以上彼女への気持ちが募らないうちに解消しなくてはならないと思う。
 苗字さんが男とサシで昼メシ行くなんて初めてなんだぞ、なんて言っていた同僚の言葉をふと思い出したら、忘れようとしていたしょうもない優越感が、感情の上澄みに浮き上がってきてしまった。
 本来彼女が一番警戒すべきなのは、勢いのままに酒を飲み、一晩の過ちを起こした挙句、記憶までそっくり失くしてしまった責任感の欠片も無いオレの方なのだ。
 とてもマトモとはいえない出会い方をして、本来ならば交流なんて絶対に避けたい筈なのに、オレと彼女は未だにこうして交流を持っている。
 彼女は再会して早々に「この件はもう終わり!」と啖呵を切ってきたから、その言葉通りさっさと割り切れてしまっていたのかもしれない。そうならば、その切り替えの早さは是非ともご教授願いたいとさえ思う。
 そして、彼女は今そんな過ちを犯してしまった相手が運転する車の中で、その助手席ですやすやと寝入ってしまっている始末。元来ガードが緩いのか、それともオレが信用されているからなのか。後者ならばありがたいし光栄に思うが、それはそれで心配になる。つい最近自分が危うい目に遭ったことを、もう忘れてしまっているのだろうか。

「……なあ、今日はどういうつもりで着いてきてくれたんだ?」

 ラジオパーソナリティーの声にかき消されるぐらいの小さな声で、もうすっかりと夢の世界へ旅立っている彼女に向かって返ってくる筈もない問いを投げかける。
 もう止めましょうとか、そういう言葉を彼女からもう一度突きつけられたのならば、きっと諦めも、気持ちの整理もつくに違いない。しかし、それをオレの方から切り出さないのは、この関係が心地よくて堪らないからだ。
 訳も分からず連れて来られたのに、楽しそうに子どもたちに笑いかけていた先ほどまでの彼女の無邪気な表情を思い出す。彼女のことをどうしようもなく好きになってしまっている自分の気持ちをまざまざと思い知らされ、後ろめたい心苦しさと、愛しく思う熱っぽい感情が己の中でぐるぐると渦巻く。
 長引かせるような関係ではないと散々理解していても、自分から切り出すことが出来ない男らしさの欠片も無い己に何度辟易しただろう。二人で過ごしている時に感じる穏やかで落ち着くこの空気感を手放したく無い狡い自分を認めることしか、今のオレには出来ないのだ。

「おい、着いたぞ」

 彼女の住むマンションの前に到着し、車を停めながらそう声を掛ける。
 しかし、彼女は相も変わらず規則正しい寝息を立て続けたままである。どうやら、思いのほか深く寝入ってしまっているようで目を覚ます気配は無い。その子どもの様な寝顔を眺めているのも楽しいが、いつまでもそうしているわけにはいかない。
 寝ている相手に触れることにほんの少し逡巡する気持ちはあったが、こればかりは仕方ないと軽めに肩を叩く。すると、彼女は閉じられていた瞼をゆっくりと開き、寝ぼけた様子でぼんやりと視線を泳がせたのち、二、三度ぱちぱちとまばたきをした。
 よく寝てたな、と声を掛けると、彼女はようやく状況を理解したのかほんの少し恥じらうように「私、よだれ垂らしたりいびきかいたりしてませんでした?」と問うてきた。

「運転してんのにそんなとこまで見てねえし、気にしてねえよ」
「え、それってどっちですか? もしかして私、気遣われてます……!?」
「寧ろ死んでんじゃねーかって心配になるぐらい静かだった」

 そう返すと、彼女はあからさまにホッとした様子で「よかったあ」と表情を緩めた。
 運転さえしていなければその寝顔をじっくり堪能させてもらいたいぐらいだったので、実のところほんの少し、いやかなり勿体無いことをしたな、と思う気持ちもあったりするのだが。
 いそいそと身支度を整え始めた彼女は、シートベルトを外しながらこちらに向き直ると「今日は誘ってくれてありがとうございました」と小さく頭を下げた。

「いやこっちこそ助かった、ありがとな」
「……三井さん。あの、もしまた必要な時があったら」

 そこまで言うと、彼女はハッとした様子で口を噤み、その表情を瞬く間に引っ込めてしまった。今、何という言葉を続けようとしたのだろうか。首を傾げて続きの言葉を促そうとしたが、彼女は小さく首を振って「なんでもないです」と笑んだ。
 その笑顔は、というかその顔に貼り付けられた表情は、何故か「会社で再会したあの朝の苗字名前」になってしまっていた。

「おい、どうした?」
「いいえ! 今日は楽しかったです、ではまた会社で!」

 車を降り、ぺこりとお辞儀した彼女にほんの少しの違和感を感じながら、それに軽く会釈を返してゆっくりとアクセルを踏み込む。ひとりになった車内では、ボリュームを下げたままのラジオから流れてくる音がいつも以上に大きく聴こえる。
 助手席に座っていた彼女の存在がいなくなったことで、もう既にどうしようもなく名残惜しさを感じてしまっている事に、思わず苦笑を漏らしてしまった。


 ***


 我ながら自分はワーキングホリックと呼ばれる部類だな、と思う。仕事が休みである土曜日であっても、こうして自宅で息を吸うように雑務をこなしてしまっている。しかし、決してそれを苦痛とは思わないのだ。
 ふと壁に掛けられた時計を見遣ると、時刻は十七時を回っていた。ぐーっと伸びをしてから、画面を伏せて置いてあったプライベート用の携帯を手に取る。画面を開くと、昼頃に入れた連絡に返事が来ている事に気がついた。
 今日は、名前が例の三井さんからどこぞに誘われたから出掛けるのだと話していた日だ。何故か行き先と目的を伏せられているらしかったが、それでもあの子は心底楽しみにしているようだったので「アタシも気になるからあとで報告してね」と伝えてあったのだ。
 こちらから「結局どこ連れていかれたの?」と連絡を入れたのは昼を過ぎたぐらいで、そしてその返事が来ていたのは二時間ほど前の十五時頃だった。

『さっき帰ってきたよ。すごく楽しかったんだけど、私やっぱりだめかもしれない』

 名前の打ち込んだ「だめかもしれない」という文字が、その裏にどのような感情を留めているのかわからずに、携帯を掴んだまま首を傾げる。
 返事を打とうと試みるも、もどかしい気持ちになってしまったので、面倒くさくなりそのまま電話をする事にした。呼び出し音を聞きながら、十五時とはなんと健全な帰宅時間だろう、と思ってしまう。映画を観た後の中学生だって、もう少し遅い時間に帰宅するだろうに。
 もしかしたら、関係が大いに進展して今日中の返信は望めないかもしれない。思惑ばそうであったらいいのに、と思ったりしていたのだけど。

「あれ、梅ちゃん? どしたの?」

 携帯から聞こえてきた名前の声は、どことなくいつもよりもほわほわとした印象を受ける。

「どしたのってアンタ、それこっちのセリフだから」
「そっか、あはは、そうだよねえ」

 あんな文章を送ってきた割には軽やかなその口調に違和感を感じる。そして、携帯から聞こえてくるの名前の声の背景に、ほんの少し人のざわめきがある事に気付いた。

「で? どうしたのよ、話したくないならいいけど」
「ううん、そんなことないんだけど、っていうかむしろ聞いてほしい気持ちだったりしてるんだけど。……あの、わがまま言っていい?」
「なーに、今更」

 言ってみなさい、と続く言葉を促してやると、数秒の沈黙の後で「今いつものバーにいるから、一緒に飲むの付き合って」と少しだけボリュームの落とされた声が耳に届いた。

「そんなのわがままに入らないでしょ。ていうか、控えてるんじゃなかったの?」
「今日はちょびっとだけ解禁しちゃいたいなーって。もう飲んじゃってるし」
「でしょうね、そうだと思ってた」

 そんなやりとりをしたのち、これから向かう旨を告げて通話を切った。
 軽めに化粧をし、部屋着から普段着に着替えて上着を羽織る。ものの十五分かそこらで身支度を終え、ブーツを履いて家を出る。ドアを開けた瞬間、顔に当たった外気が冷たい。間近に迫った冬の気配を感じながら部屋に鍵を掛けると、マンションのエレベーターに乗り込んだ。


***


 馴染みのバーに到着し店内へ入ると、カウンター席のいつもの辺りに頬杖をつきながらぼーっとしている名前の姿があった。
 近づいて「おまたせ」と声を掛けると、名前はこちらを見上げながら、ほんのり桃色に染まった頬を綻ばせて「梅ちゃんやっと来たあ」と心底嬉しそうな笑顔を浮かべた。

「これでも急いで来たのよ、ていうかアンタもう出来上がってない?」

 上着を脱ぎながら隣の席に腰を下ろし、適当なアルコールを注文する。

「なんていうか、情けない話なんだけどお酒の力を借りないと決意表明できない気がして」

 名前はカクテルの入ったグラスを指先でなぞりながら、静かにそう言った。彼女が話し始めたのは、いわゆる今日のあらましだった。
 三井さんが朝早くにマンションの前まで迎えに来てくれた事、一時間と少しの時間ドライブを楽しんだ事、到着したのが彼の母校の小学校で、呼び出された理由がミニバスケットボールクラブの練習の手伝いだった事。そして、それがすごく楽しかったこと。
 頷くだけで、無駄な相槌を入れないように気遣いながら話を聞いているだけだったけれど、名前にとって今日が如何に楽しくて幸せな時間だったのか。それが痛いほど伝わってきた。

「三井さんと過ごすたびにどんどん好きになっちゃうし、これ以上付き合ってるフリし続けてたら、きっといつか私の心が勘違いしたままになっちゃうと思う」

 だから、そろそろ付き合ってるフリ解消しませんか、って言わなきゃなって思って。
 きゅっと口を結んで視線を下げた名前の様子から、そうしたくはないけれどそうしなくてはいけないジレンマのようなやるせなさを感じた。
 このまま好きでいても、何かが進んでいくわけじゃないし不毛なだけだから、と小さな声で続けた名前の言葉を聞いているアタシは、それを肯定する言葉も、そして否定する言葉も掛けることができなかった。
 それは脈がない人がする行動であって、アタシから見たアンタはそうじゃないわよ、という己の意見は、脳内会議にて精査された結果、結局口には出さないという結論に達した。

「……なんか、勿体ない気がしちゃうけどね」
「人のこと好きになっちゃうなんて久しぶりだったから楽しかったけど、つらい気持ちもおなじぐらい抱えてるの、ちょっとしんどくなってきちゃってさ」

 三井さんにこれ以上負担とか迷惑とか掛けたくないし、と続けた名前の言葉から強い意志を感じて、もう決断してしまったのだということ察する。頑固なこの子のことだから、そう決めてしまったのならばもう、誰から何を言われようと揺らぐことはないだろう。
 その三井さんとやらは、名前に対して行なっていることを迷惑だとか、自分の負担だとは思っていないんじゃないかとか、なんとなく二人とも同じ気持ちのような気がするとか、そんな考えが脳内を巡る。
 けれど、大の大人二人のやりとりに外野が茶々を入れるのは野暮だ。それに、ここで終わってしまうならばそれまでだということ。例えば運命というものがあるのならば、こんなことで切れてしまうようなものではない筈だ。というか、そうであったらいいな、なんて思ってしまうロマンチストでお節介な自分が居るわけで。

「……っていう話でした! 梅ちゃんに言ったらやっと腹括れた気がする。私、来週には三井さんにもう大丈夫ですって言おうと思う!」

 よーし飲むぞ、とグッと拳を握って見せながら、名前はさっさとカクテルのおかわりを注文してしまっていた。

「ちょっと大丈夫なの? もう目の下赤くなってるけど」
「大丈夫大丈夫、だって梅ちゃんいるんだもん」
「へえ、アタシには迷惑掛けてもいいと思ってるんだ?」
「えーと、えへへ、うん」

 カウンターにぺったりと突っ伏しながら、アルコールのせいというかお陰というか、顔だけをこちらに向けて機嫌の良さそうな笑顔を浮かべている名前は、もうほぼ完全に出来上がってしまっている。しかも、この感じはあと数分で寝落ちしてしまうパターンに違いない。
 そんな姿を眺めながらも「仕方ないな」と思ってしまう自分は、本当にこの子に甘いと思う。そして、今日はなんとなくこうなるような気がしていたのでいわば予定調和である。
 早速うつらうつらし始めた親友の頭に手を乗せながら「アタシは、諦めたりしないで本当の気持ち伝えてみても良いと思うけどね」と小さな声で言ってみた。もう既にほとんど意識を手放し掛けている名前に、その声が届かない事をわかっていたからだ。
 カウンターの上に置かれていた名前の携帯の画面がパッと明るくなり、誰かからの着信を告げたのはそんな時だった。画面に表示されたその人物の名前が目に入ってきた瞬間、思わずアタシは「あらま、ナイスタイミング」と声を漏らしていた。
 何故ならば、その画面には「三井さん」という文字が浮かんでいたからだ。


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