その人 −− 苗字名前の事を知ったのは、入学して少し経ってからだった。
 咲き誇っていた桜があっという間に散って、いつの間にか木々には青々とした葉が茂り始める。心地良かった外気がだんだん暑いと感じる気候になって、ブレザーを脱いで過ごすようになってきた頃。
 校内は間近に迫った大型連休に浮かれた雰囲気で、なんだか落ち着かない。どこに遊びに行くだの、家族と旅行だの、同級生たちのそんな会話を聞きながら、自分の予定は全て練習と遠征で埋まっていることを思い出した。そのために海南大付属からの推薦を受けて入学したのだから、それが嫌だとか面倒だと思う感情はほぼない。
 ただ、息抜きに早朝波に乗りに行くぐらいの余裕があればいい、とは思っているけれども。


武藤くんの災難



 5月の始めって、こんなに暑かっただろうか。春の過ごしやすい陽気が過ぎ去り、立っているだけで汗を滲ませる夏を感じさせる日差しが降り注ぐ。
 外周メニューをこなすためにグラウンドを横切ると、野球部が守備練習をしており、もう片面では陸上部がハードルや高跳びの練習を行なっていた。うちの高校はバスケだけでなく、ほぼ全ての運動部に力を入れており、どの部活も毎年なかなかの成績を残しているのだ。
 バスケ部の面々とグラウンドの端を歩いて校門を出る。監督である高頭先生からは「とりあえず10周から」と命じられている。から、というのはつまりウォーミングアップ程度の意味である。最終的には20周か、もしくは30周以上か。午前中はおそらく体育館での練習は無いだろう、そんな予感がする。

「じゃあ始めるぞー」

 キャプテンのその声で各々が自分のペースで走り始める。特に時間を決められている訳では無いが、記録係に1周ごとのタイムは細かく計られているし、それは後ほど監督に提出されるので「とりあえず10周」をただ走りきってこなせばいいというわけではない。
 体力や持久力というのはバスケットボールという競技においてテクニックと並ぶぐらい重要なスキルである。なぜならば、バスケはホイッスルが鳴ってから40分間休むことなく走り続けるスポーツだからだ。
 走り始めると、団子状態になっていたのがだんだん解れてくる。
 各々のペースで走るチームメイトの中で、度々自分が見覚えのない後ろ姿に抜かされていることに気づいたのは2周走り終えたぐらいのタイミングだった。
 すぐに思い当たった、陸上部の長距離選手だ。やっている運動が違うだけで、なんとなく体格が違う。
 どちらかというとがっちりしたバスケ部の面々に対して、陸上部の男子は備わっている筋肉がしなやかに見える。
 長距離のプロはやっぱり違うのだな、とぼんやり考えていた時に、アウトコースから軽やかにオレを追い抜いてった女子の姿に、どうして視線を奪われてしまったのだろうか。
 後頭部でひとつに結ばれた彼女の髪がゆらゆらと揺れる。あっという間に離れていったその背中は、まるで同じ道を走っている人間など見えていないかのように真っ直ぐで、軽やかで、なんというかただただ美しかった。
 そこで自分の脚が止まりそうになっていた事に気づき、慌ててペースを戻した。

「ボーッとしてどうした? へばってんの?」

 とりあえずの10周を走り終え校門近くにしゃがみこんでいたら、そんな声をかけられた。
 はっとして上を向くと、同じ学年の武藤が「今日はあと何周走らされるんだろうな」と言いながら横に座り込むところだった。
 渡されたボトルで喉を潤しながら、ようやく自分の呼吸が落ち着いてきた事に気づく。
 半数以上の部員が走り終える中で、あいも変わらず結構なスピードで駆け抜けていく陸上部の面々。あのペースで一体何周走るのだろう。

「……オレなんかより20センチぐらい低い身長で、かつあんなに華奢な体でよく走れるもんだ」

 咄嗟にこぼれたひとりごとみたいなその言葉が自分の口から出ていた事に一瞬気づかず、ボトルをあおっていた武藤に「なんか言った?」と聞き返されてから「いや、なんでも」と取り繕うように返事をした。


***


 彼女が苗字名前という名前で、自分と同じ学年だと知ったのは連休が明けたあとだった。
 休み明けに行われた毎月ある全校集会の中盤で、舞台に上がる彼女の姿を見てハッとした。外を走っていたあの時とは違い、髪を下ろしていたがその横顔は脳裏に灼きついていたからだ。

「神奈川県陸上競技大会新人部門、10000メートル準優勝、苗字名前」

 賞状を受け取り、壇上でくるりと振り向いた彼女は、口を真一文字にきゅっと結んでほんの少し照れた様子でお辞儀をした。それから、顔を上げて軽やかに壇上から降りていく。
 なんとなく、勝手にストイックでクールな人物なのだろうと思い込んでいた。しかし、先ほどの彼女の表情は自分と同学年の女子であるということと、そしてどこか親しみやすさを感じさせた。

「あのね、ずーっと考えてたんだけど、やっぱり駅前のフルーツパーラーのパフェがいい!」

 だって私ちゃんと賭けに勝ったもんね、と明るい調子で続けられた言葉のあとで、ため息混じりに「あーあ、しょうがないな。はいはいちゃんと奢りますよ」という声が続く。

「ほんとに6位入賞しちゃうんだもん、しかも準優勝でしょ。名前ってぽやぽやしてそうなのに意外とやるよね」

 ギャップってやつだわそれ、という声は同じクラスの女子生徒のものである。しかし、聞き覚えのないもうひとつの声にちらりと視線を向けると、無邪気に笑っているのは彼女 −− もとい、苗字名前だった。
 会話をしているのはうちのクラスにいる陸上部の部員らしい。昼休み、食後の満腹感でぼーっとしていた脳みそがぱっと起動する。ギャップか、確かに、とクラスメイトの発したセリフに脳内でうんうんと頷きながら同意をする。
 外周中、オレを抜き去っていったあの瞬間に目を奪われるほど綺麗だった彼女の横顔と、今この瞬間にオレのすぐ側で「いつ行く? 土曜日の部活のあととか?」と目を輝かせている彼女はまるで別人の様だ。しかし、間違いなくあの時の彼女である。
 それ以来、彼女の姿を見かけるたびにいつの間にか視線を奪われていることに気づいたのは、もうずっと後の事だった。


***


(武藤視点)

 オレがその事に気づいたのは、1年の終わり頃だった。
 監督に外周メニューを命じられるたび、同級生のチームメイトである牧が微かに緊張するのだ。
 最初は単に「もしかして長距離あんまり得意じゃないのかな」なんて思っていたけれど、そんな単純な理由ではないらしい。
 なぜならば、見た目通りのスタミナを備えている牧は軽々かつ黙々と外周メニューをこなしていたし、息を弾ませている姿は見せても、特段他の練習の時と違う様子は見えなかったからだ。

「……さっき、走りながらどこまで着いていけるか試したんだ」

 一体なんの話だろう。突然ぽつりと言葉を発しはじめた牧の顔も視線もこちらに向けられておらず、しゃがみこんだ自身のシューズの先に向けられていたが、オレに向かって話をしているということは間違いなさそうだ。

「周りなんか見えてないぐらい集中していて半周着いて行くのが精一杯だった。すごいよな、普段は無邪気で快活とした様子なのに、走ってる時は全然違う」

 やっぱりまだ話の全容が見えて来ない。
 うちの部活で外周めっちゃ速いヤツに着いてってみたよ、っていう報告だろうか。それに無邪気で快活って一体誰のことを言っているのだろう。自分で言うのもなんだが、ムサい男子部員に使うような表現ではない気がする。
 でも、牧ってこう見えてちょっとだけ天然入っているところがあるから、独特な言い回し的なアレなのかもしれない。

「陸上部、というか長距離選手とバスケットプレーヤーじゃ、筋肉の出来が違うんだろうな」

 ん?と思わずオレは顔をしかめていた。
 陸上部と言われて気づいた。もしかして、牧が言っているのは同じく外周を走っていた陸上部員のことなのだろうか。それでも、無邪気で快活と言う表現はやっぱり男に使うものではない気がする。
 脳内であれやこれやと思考を巡らせながら思い出す。そうだ、陸上部はうちと違って男女混合の部活だし、外周していた中に女子部員も混じっていた。
 さっきだって、追い抜かされながら短いトレーニングパンツから伸びた脚を無意識に見つめてしまった記憶がある……ってことはそっと胸の中にしまっておこう。
 でもだからって着いていけるか試してみる、なんてことオレには思いつきもしなかった。牧ぐらいストイックだと、土俵が違っても勝ちたくなってしまうものなのだろうか。

「外周メニューになるたび、無意識に探してしまっているんだ」

 彼女のことを、と言った牧の目が微かにゆらゆらと揺らいで、オレは「まさか、おまえそれ……」と口に出してしまっていた。っていうかそういうことだろう、そうとしか考えられない。
 きょとんとした様子の牧がこちらを向いて「どうした?」と言ったが、それを言いたいのはおまえじゃなくてオレのほうである。

「……それさ、その子のこと好きってことじゃねーの?」

 牧は一瞬訝しげに目を細め、思案する様に眉根を寄せながら「好き?」とオレの言葉を真似して繰り返すように声に出してから小さく首を傾げた。
 うんうん、と頷いて見せると、牧は考え込む様に腕を組み、たっぷり10秒ほど硬直した。のち、ものすごい勢いで顔をこちらに向けた。
 その顔には普段冷静な牧からは想像もできない、今までに見たこともない動揺の表情がありありと浮かんでおり、日に焼けた浅黒い肌の下でもわかるぐらい頬が紅潮していた。
 あれ、ちょっとウソでしょ。マジですか、マジで図星なんですか?
 まさに今、目の前で己の恋心を自覚して向き合った見た目だけはほんの少し……否、そこそこ大人びているチームメイトの姿を見つめていたらなんだかムズムズしてきた。
 いや、オレ、もしかしてめちゃめちゃすごい場面に立ち会ってしまっているんじゃなかろうか。
 そのあとに追加された10周で、牧のタイムがガクンと落ちた。あの牧が高頭監督にドヤされる、そんな珍しい光景を眺めながら、少しだけ申し訳ない気持ちになった。


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