続・武藤くんの災難




「武藤、本当にありがとう。おまえのお陰だ」

 その言葉は、今日だけでもう何度言われたのかわからない。いい加減耳にたこが出来ちまうだろうがこんにゃろー。
 と、幸せの絶頂にいる本人を前にしてそんなことを言えるわけがないので「いいってことよ」と何度目かわからない返事を返す。
 さて、あれからこのやりとりを合わせて何回したでしょうか。正解? 数えてねーからワカリマセン。
 当人の牧は普段の様子からしたら考えられないほどにその顔をほころばせている。それは少々不気味にも感じてしまうぐらいで、流石に周りの奴らも「キャプテン、ここ最近なんかおかしくないか?」とにわかにざわめき始めている。「るんるん」という幼児向けアニメか少女漫画でしかつかないような効果音が牧の周りをぐるぐると回っているのが目に見えるようだ。
 よかったな、と思う気持ちはもちろんある。めちゃくちゃある。ものすごいある。
 なにせ、こいつは高校1年の頃から今までずっとその想いを抱えていたのだから。時間にすると2年半の片思い。しかもついこないだまで会話さえしたことがないと来たもんだ。ピュアにも程がある。それこそ少女漫画の世界だ。
 まあ、それはさておき、そろそろオレも笑みを作る口角が引き攣ってきた。訝しげに、そして興味津々に牧の様子をチラチラ伺う忠犬、もとい牧信者である清田の視線が痛い。でもあいつに本当のこと話すのはなんとなくやめといたほうがいいような気もする。牧が云々というより、苗字への影響が出そうだからだ。
 今更になってだが、正直言うと牧と苗字がくっつこうがくっつかなかろうがオレには関係ないはずだった。
 しかし、牧が苗字への気持ちを自覚するきっかけを与えてしまったのがオレで、それから何も進展もないまま迎えた3年目の夏。その月曜日は突然やってきた。

「苗字さんが泣いていたんだ」

 放課後の部活の休憩時間。教室のロッカーに替えのタオルを忘れてきたとかで一旦教室に戻った牧は、手ぶらで帰ってくると何も言わずオレの横に座り込み、ただその一言だけを発した。

「……ええと、それはどういう? 牧が泣かしたんじゃないよな?」
「オレじゃない」
「うん、で?」
「取りに行ったタオルをだな、貸したんだが」
「なるほど、それで手ぶらなわけね。で、会話できたのか?」
「ああ。でもその、オレ自身動揺していて、もちろん苗字さんには狼狽えているように思われないようにしたんだが、彼女は机に突っ伏したままだったのにタオルを押し付けて自分の名前を言わずに去ってきてしまった」
「…………」

 正直、いつものオレならば「勝手にそっちでやってくれ」と思ったに違いない。でもあの牧だ。男子バスケにおいては神奈川ナンバーワンプレイヤーで、学内でも知らぬものは居ない有名人。しかし、奥手で恋愛なんか上手い下手どころかおそらくほとんど経験もなくて、人に言われなきゃ自分のそれが相手への好意かどうかもわからない。繰り返すが、中身はそんな男なのである。
 そこでオレは懸念した。抱えきれなくなった牧が例えばいつも牧の周りをウロチョロしている清田なんかに相談をしたとしたら。2年半の奴の片思いは果たしてどうなるのか。
 はい、シミュレーションスタート。

「オレ、キューピッドになりますよ!」

 そう言うであろう清田にきっと悪気は微塵もない。純度100パーセントの曇りなき善意。慕う相手の力になりたいという純粋で素直な気持ちである。しかし、大変な事を仕出かすに違いないことは容易に想像出来てしまった。
 清田は明るくて元気で可愛い後輩だけど、じゃあ恋愛ごとに相談役として巻き込んだらどうなるのかというのはなんとなく読めた。2年かけてやっとはじめての会話にたどり着いた2人の道を、再び相容れぬ方向に分断しかねない。
 じゃあ神はどうだろう? 宮とか高砂は?
 いろいろ考えてみたけれど、やっぱり最初にその気持ちを気づかせてしまったオレが責任を持って見守って話を聞いてやる。それが自分の責務なのだという結論に達した。
 いや、別にそこまで心配してオレが出て行く幕でもないとは思うんだけど。でもほら、牧ってめちゃくちゃいいヤツだし、だから微力ながら応援してやりたくなっちゃったんだ。
 そういえば、己の恋心に気づいた頃の牧は「遠くから見ているだけで充分だ」なんて初っ端からいきなりあきらめモードに突入していた。確かに、本人がそれでいいなら別に外野がとやかくいうことではないのだ。そもそも、苗字は苗字で好きなやつが居るっぽかったし、あえて口は出さないことにした。人の恋路だし、関係ない、ましてや特に進展を望んでいるわけでもない友人のアレソレに近所のおばちゃんよろしく手足出してる暇なんて無かったからだ。

 その次の日の火曜日。
 クラスメイトであり、尚且つ隣の席の人物であり、牧の思い人でもある苗字は「タオルの人が云々かんぬん」と牧が渡したらしいタオルの入った袋を抱えながらひたすら同じ部活の友人に相談をしていた。
 オレはというと、頬杖をつきながら「苗字さん、それあの神奈川の帝王牧紳一くんのタオルですよ」と勝手に心の中で会話に参加しながら聞き耳を立てていた。

 水曜日。
 苗字、タオルの人が牧だと気付く。
 どうしてわかったのか、それが気になって再び聞き耳を立てていると、どうやら部活の終わりに体育館の前を通り、そこから聞こえてきた牧の声で気づいたらしい。
 1限が終わった休み時間は「どうしようどうしようあんな有名な人に話しかけられない」とうだうだ友人を相手に話し続ける。ちなみに友人の方はその話を右から左へ受け流していた。
 更に2限が終わった休み時間、引き続き「授業中に考えてたんだけどやっぱり無理な話だよ、直接返せるわけ無いじゃん、接点無いんだし」とぐずっている。
 うん、わかった。こりゃダメだ。牧もダメだがこいつもダメだ。このままじゃ苗字の手元にあるタオルが牧の手元に返却される未来は永劫訪れないだろうし、この2人が卒業までに会話をすることもありえないだろう。そう思った。
 昼休み、牧がうちのクラスを訪れた理由は「今日の部活は最初にミーティングがあるから視聴覚室に集まるように」という監督からの言伝を伝える為だった。
 もうこれ以上ないってぐらいのタイミングだった。そして、もっというならば、チャンスは今しかありえない。これを逃すと次はないと、確信のような何かを感じていた。

「苗字、カバンの中にあるだろ?」

 オレは自分で思っていたより痺れを切らしていたらしい。
 え? と言いながら「これのこと?」とタオルが入った袋を取り出した苗字の腕を引っ掴み、教室の後ろ扉の前で驚愕した表情で突っ立ったままの牧のところまで連れて行く。
 そして、苗字の腕を掴んでいない方の空いた手で牧の腕をむんずと掴み、引きずるように教室を出た。2人とも突然のオレの行動に驚きすぎているせいかまったく抵抗することはなく、ぱたぱたと後ろをついてきている。

「それじゃあオレは教室に戻りますので」

 廊下の突き当たりを曲がり、ほとんど人の訪れない特別棟の一番奥まで辿り着くと、掴んでいた腕を離してその場を離れる。
 本当はそのまま教室に戻ってしまおうと思っていたがこの2人のことだ、どちらも言葉を発さずに昼休みが終わるというお膳立てを総無視する事態が懸念される。
 そんなわけで、世話焼きになってしまったオレはやむを得ずこっそり廊下を曲がったところで聞き耳を立てることにした。
 気が遠くなるような長いの沈黙の後、話を切り出したのは苗字だった。

「あの、先日はお見苦しいところをお見せしました、それとええと……これ、タオル、借してくれて本当にありがとう!」

 よく言ったぞ、苗字!
 牧もこないだ言ってた通りに余裕なんか無いだろうな、と思っていたら「オレが勝手にしたことだから苗字さんは気にしないでくれ」と言葉だけは余裕しゃくしゃくだった。
 言葉だけというのは、オレがちらりと覗き見すると手をグーパーしたりとあからさまに落ち着かない様子だったからだ。おそらく、心の底では相当狼狽していたのだろう。

 木曜日。
 苗字、めちゃくちゃ元気になる。どうやらタオルを返す事が出来て大分心が晴れたらしい。
 牧の話によると、彼女が月曜日に泣いていた理由は失恋のショックだったらしいが、そんなことを吹っ飛ばすような出来事、つまり牧の存在で多少は癒えたのかもしれない。
 放課後、通りがかった保健室の前で養護教諭と苗字が口論しているのをたまたま見かける。当番がどーだのという話をしていた。
 そして部活中、牧が突き指をする。今日は苗字が保健室の待機当番をしているという事を先程の口論の件で知っていたので「大会も近いんだから保健室行って来い」と勧めてみた。

「いや、突き指ぐらいいつもの事だし大丈夫だ。救急箱は確か、」
「いいから行けっつってんだよ」
「……? どうした武藤、何かイライラしてないか、何かあったか?」
「あのなあ! 夏の大会近いのにもし無理して悪化したらどーすんだ! おまえはキャプテンでエースなんだから素直に保健室行ってくりゃあいいんだよ!」

 牧、訝しげな様子だったがオレの圧に圧されしげしげと保健室へ向かう。
 数分後、帰ってきた牧はものすごくご機嫌だった。嬉しそうに処置してもらったらしいテーピングの巻かれた右手を眺めている。あまりに長い時間そうしているので、オレ以外のやつらも牧の様子がおかしいことに気付き始める。
 慌てて「ほら、ビブス着けろ」と鍛え上げられた胸板にビブスを押し付けると、ハッとした表情をした牧は「あ、ああ」と珍しく気の抜けた声を上げた。

「実はこれ、苗字さんが巻いてくれたんだ」

 部活後、シャワーを浴びて着替えをしながら牧がぼそりと報告をしてきた。

「意外とテーピングが上手くて驚いた。彼女、少しぼんやりしている所があるから」
「そりゃあ良かったな」

 光栄なことに、どうやらオレはこの時既に牧にとって唯一の相談相手になっていたに違いない。

 金曜日。
 唐突に牧と苗字がくっついた。
 何があって、どういう事があって、どちらから切り出したのかは知らないが、放課後の部活の休憩中、姿を消していた牧がふらふらと体育館に戻ってきたので問いただしてみたら「ああ、ええと、苗字さんがオーケーをしてくれて」とどもりながら話しはじめる。
 良かったじゃん、とオレが言うと、牧は頭をがしがしと掻きながら「ああ」と短く返事をした。牧の耳は、見たこともないぐらい猛烈に赤くなっていた。

「おまえから切り出したの?」
「ああ」
「いやあ、つーかこれ割とオレのお陰みたいなとこあるよな? 感謝しろよー?」
「武藤には本当に感謝している、ありがとう」
「2年半だろ? いやー、よかったよかった。それなりに大事にしてやれよな」
「、」
「……? 牧? どした?」

 牧、熱中症だか緊張のし過ぎだかわからないが突然ぶっ倒れる。
 オレと清田と高砂で牧を運び、休ませるべく保健室に入ったら、3つあるベッドのうちのひとつに苗字が真っ赤な顔をして眠っていた。どうやらこちらも同じ状態らしい。
 なんてこった、似たものカップルにも程があるだろ。


***


「む、むむむむとうくん!」 

 なんでそんなにどもってんだよ、と口には出さなかったが心の奥でほんの少し笑いながら顔を上げると、いつの間にかオレの前の席に座っていたのは元・牧の思い人、現・牧の彼女である苗字名前だった。
 苗字は必死な表情で「あの!」と意を決したような様子で声を発する。

「オレ、むむむむとうくんじゃないんだけど」
「これでもかなり恥を承知で相談しにきているのでそこら辺はスルーして頂けると大変助かります」

 こいつがオレに相談。となると、まあどうせ十中八九牧のことであるのは明白だった。
 なんでオレ? と最初はもちろん思ったが、どうやらこの奥手同士付き合いたてホヤホヤカップルである牧と苗字はオレのことを1番の理解者かつ唯一の相談相手であると勘違いしているらしい。しかも2人して。
 今や牧だけでなく、苗字までもがこうして相談してくる始末。武藤の部屋かよ、茶は出さねえぞ。
 しかし、考えてもみてほしい。相談なのかのろけなのかわからないことを相談、もとい報告されるオレの気持ちを!

「今度ね、バスケ部が珍しくお休みがあるって聞いて、牧くんと2人でどっか行こうってことになったんだけど、どこに行ったらいいのかなーって……」
「お、デートじゃん、デートいいじゃん、そうかそうかデートか」
「あんまり大きい声で言わないで! そんな、で、でーとなんて……」
「だってそうだろ、なんて言うんだよ他に」
「……おでかけ?」

 いや、小学生かよ。
 やっぱりこの超ド級奥手同士カップル牧と苗字には全てを知っている理解者がいないとダメらしい。つまりは、認めたくは無いがオレのことだ。

「でも真面目な話、デートする場所ってオレが決めるようなもんじゃねえと思うんだけど」

 そもそも初デートなんだろ、とオレがニタリと笑いながら言ってやると、苗字はぎゅっと結んだ唇をわなわな震わせながら顔を真っ赤にした。
 見ていて初々しいとは思うが、歩み寄り方が鈍足すぎてこっちがイライラする。たぶん歩く亀と同等かそれ以下だ。

「私だって考えてるよ! 映画館とか水族館とかお買い物とか……でも会話に困るんじゃないかな、とか、映画館だったら観たあとの計画も練らなきゃだし、とか悩んじゃうの!」

 あまりにも切羽詰まった様子で助けを求めてくるので、オレは思わずひとつ小さい溜息をゆっくりと吐いてから「それってさ」と言葉を紡いだ。

「牧だってたぶんおまえと同じこと考えながら悩んでると思うぜ? もうなるようになるしかねえよ」
「そんなもんかな……」
「オレの経験から言うとそんな感じ」
「うわあ、あんまり頼りにならない」
「なんだとコラ」

 その時、教室の後ろ側の扉から「名前!」と彼女の名前を呼ぶ声がした。
 苗字はビクリと体を揺らすと、目をぱっと見開いて、扉のところに立っている人物を見た。
 牧がやんわりと微笑みながら「待たせてすまん」と言った。余裕そうに見えるし声も落ち着いているが、おそらくあれはまだ緊張している感じだ。オレにはわかる。
 苗字はさっと椅子から立ち上がって、オレに向かって両手を合わせると「ありがとう武藤くん! いや、武藤さま!」と早口で礼を言い、すたこらさっさと牧の元へと駆け寄っていく。途中、足を机にぶつけたようで、牧が苦笑いを浮かべながら「大丈夫か?」と心配しているのが見て取れた。
 夏の大会が終わり、2学期に入った今は9月の末。バスケ部は考査3日前なので部活は無い。どうやら、2人仲良く図書館で試験勉強にでも励むのだろう。
 見たこともないような柔らかい笑顔で、あからさまに愛しいものを見つめる視線を苗字に向けている牧と、心の底からしあわせそうな表情を浮かべている苗字。
 すごいな、青春って甘酸っぱい。甘酸っぱすぎてなんだか胸焼けがしてきた。
 ああもう、なるようになっちまえ!

(end.)


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