15.

 おやすみモードに入りかけで今にも電源が落ちそうなぼんやりとした視界の端に、目を細めて私の頭を撫でる彰くんの穏やかな表情が見える。そうされると心地が良すぎて、もうすぐに意識がベッドの奥の奥に沈んで溶けていきそうだ。
 しあわせな疲労感と不思議な達成感のようなものを感じながら「プロスポーツ選手の体力にはついていけないなあ」とほんの少し現実的なことを考えていた私の耳に届いた彼のひとりごとのようなセリフは、果たして夢の中でのものだったのだろうか。
 今となってはわからない。だって、そのときの私はすでに半分、いやほとんど眠りに落ちてしまっていたからだ。
 今シーズンのリーグ戦も残すところあと一ヶ月である。夏の終わりに始まった今期のリーグ戦。いつの間にやら秋を越し、冬を越え、春を迎えたと思ったら世の中はもうすぐ大型連休に突入してしまう。
 何もかもが初めてで、始まる前から毎日がドタバタしてばっかりだったから余計にそう感じるのかもしれないけれど、ほんとうにあっという間だった。その一言に尽きる。まあ、まだ終わったわけじゃないんだけど。
 自分が任された取材と試合の日程を確認しながら、目の前のモニターに映し出された順位表とにらめっこする。
 現在、リーグの一位に君臨しているのは二年連続リーグ戦覇者の神奈川県横浜市をホームタウンとするチームである。とにかく安定感が抜群で、攻守の切り替えが早く攻撃力も守備力も高い。調子を崩すことがなく、バランスが良くて隙がない。相田くん曰く、まさに王者と呼ぶにふさわしいチームである。
 対して、二位につけているのは彰くんを擁するチームだ。チームの創設歴はまだ浅いけれど、じわじわと毎シーズン成績を上げ、今シーズンはとうとう首位を食らうのではないか、と思わせるほど怒涛の勢いを見せている。
 流川さんを中心にもともと攻撃力の高いチームだったが、そこに彰くんが加入して更にそれが増したのだと、これまた相田くんが言っていた。そういえば、私も何度この二人のコンビプレーで叫びそうになったかわからない。ていうか、無意識のうちに叫んでしまっていたことがあったかもしれない。
 ついでに、そんな二人の人気もあってか今シーズンはホームでの観戦者数も右肩上がりに増えている。この間なんて、アウェイ側のチームのレプリカユニフォームを着た女の子がこっそりトレーディングのブロマイドを何枚か購入しているのを見かけてしまったぐらいだ。お目当ての選手が出るといいね、と心の中で念じてみた。
 バスケセンスに恵まれた体格、そしてあのルックスである。彰くんも流川さんもいったい前世でどれほどの徳を積んで来たのだろう、とインタビュー中に二人のご尊顔を眺めながら真面目に考えこんでしまったことがある。
 ファンはどんどん増えているし、雑誌への露出も多くなってきた。ボディメイキング的な雑誌のグラビア依頼が来たっておかしくないと思う。なんなら、ちょっと拝みたいぐらいだ。自社で出版されたとしても、ちゃんと定価で購入する勢いである。

「優勝できたら、名前さんからご褒美もらおうかな」

 ついこの間聞いたその言葉は、果たして夢の中でのものだったのか、それとも現実だったのか。彰くんの優しい表情を眺めながら、私はなんと返事をしたのだろう。頷いたのか、はたまた何か問いを返したのか。その辺りの記憶がまったくない。
 散々愛されて、終わった後は体のどこかから空気が抜けていく「きゅう」という音さえ聞こえてくるような気がした。抗えない眠気とはまさにこのことだ、と思いながら気を失うように深い眠りに落ちてしまっていた。
 思い出したらじんわりと頭のてっぺんと耳の辺りが熱くなってきた。ああもう、私ってば仕事中になんてことを思い出してるんだろう!
 ぎゅっと目を瞑り、小さく首を振る。横に積まれた週刊バスケットボールの既刊をぺらりと適当にめくってみたら、真剣な表情でパスを回す直前の彰くんの写真が載せられているページだった。たしかまだシーズンが始まったばっかりの頃の写真だ。私はこの写真がだいすきでもう何度も見返している。
 鮮やかな青いユニフォームを纏う彼のその真剣な表情。熱い視線がただひとり、自分だけに注がれていると、抗う術なんか持つ筈もない私は心も体もただどろっどろに溶かされてしまうのだ。
 別世界の住民みたいなこの人が私の隣にいてくれるということについて、いつまで経っても現実味というものが湧いてくることはない。
 彼の写真をちょん、と軽く指で弾いてから雑誌を閉じる。
 ご褒美、かあ。
 あの言葉が実際に彼が発したものじゃなくても、私が夢の中で聞いた言葉だったとしても、結果がどうあれお疲れ様の気持ちを伝えられる何かしらができたらいいんだけど。
 そこで、またひとつ自分を悩ませることになる事案が増えてしまったことに気づき、ひとり苦笑いした。


***


 正直、自分がバスケを仕事にまでするなんて思ってもいなかった。
 中三になってスカウトをもらって、それでなんとなく神奈川まで行って高校でバスケして、そのままの流れで大学でもバスケして、気がついたら海外まで行って、十代になる前から今までずっとボールを追いかけている。好きじゃなきゃこんなに続けているわけがない。バスケをやっているのが日常で、傍に有るのがオレにとっての当たり前になっていた。
 誰かさんのことをバスケバカだなんてもう呼べないぐらい、実はオレも同じところに分類されるのだろうということに気がついたのは、自分がそれを食っていく為の仕事として選んだここ一年の事だ。
 人間は寝たり食ったりしなきゃ生きていけないけど、そういうのと同列なのかもしれない。だから、好きなことをこうして職業としていられるのはめちゃくちゃ恵まれてんだろうなあ、と思う。で、そんなのがバスケと、最近はあともうひとつ。

「ひとりの人と永遠を誓おうと思う瞬間って、いつでした?」

 そう問うと、その人はキリッと上がった眉を顰めながら「なんだそりゃ」と目を細めた。なにか意図があったわけじゃなくて、とにかく「そういう人に出会えたこの人ってすげーな」っていうところからしてしまった質問だった。
 それは日本に戻ってきて半年も経たないぐらいで、もう二週間ほど後にはオレにとって初めてのリーグ戦が開幕する頃だった。
 その日は高校時代に交流のあった女の先輩の結婚式で、なんとその相手の新郎は高校と大学時代に何度か対戦したことのあるひとつ上の先輩だった。まさかこことここが繋がるなんて、と魚住さんと会話したのは何年前のことだろう。

「えーとつまり、アイツと結婚決めた理由はなんですか? っつーことだよな?」

 はい、と頷くオレをじっと見据えながら、その人はうーんと低く唸って腕を組み、顎に手を添えながらしばし沈黙した。
 結婚式の二次会、新郎新婦の友人達のみで行われているその集まりは形式張ったものではなく、まるで同窓会のような雰囲気だった。
 オレの隣に座っている新郎の昔のチームメイト達があの時代のままのように騒ぐ中、無理やり連れて来られたらしいこの度同じチームメイトになった流川はすっかりおねむのようで、人の良さそうなメガネの人の肩を借りて目を閉じてしまっている。あの人名前なんだっけ、えーと、新郎の友人代表で挨拶してた……コグレさん、だったかな。

「なんつーか、いつの間にかそうなるのが普通に思えてたんだよな。未来を想像するとよ、すげー自然に、当たり前みたいにアイツが横にいんだよ」

 そう言って、少し遠くの席で楽しげに笑うオレの先輩、もとい新婦に見たこともないほどやさしい視線を向けた。試合中のギラギラした雰囲気なんかどこにもない、ただただひとりの女性を大切に思う気持ちだけがその人から溢れていた。

「オメーもわかるぜ、そういう相手が出来たらよ」

 その人、三井さんは今や高校の教師になっている。加えてバスケ部の顧問までやっているというのだから驚いた。大学時代に奥さんと出会って、人生の選択もして、それでまさに今は幸せの絶頂といった所だろうか。溢れ出るそのオーラを浴びただけで、なんかちょっと良いことが起こりそうな気さえしてくる。
 自分が一生一緒に居たい相手。面倒くさがりで厄介ごとが苦手な自分が、そんな人に出会ってこの人と同じような気持ちを抱くようになることなどあるのだろうか。
 ずっと一緒に居たいとか、傍で笑っていてほしいとか、食べて眠ってバスケをするのと同じぐらいそこにいるのが当たり前になる存在。そういう人と出会うって、よくよく考えたらものすごいことだと思う。だってまず、今のオレにはちっとも想像ができないからだ。父親と母親ってすげーんだな、と両親の顔を思い浮かべてしまった。

「っつー話をおまえんとこのデカいのにもしてやらねーといけねーと思ってたんだよ、嫁になりそうな相手いんの?」
「魚住さんですか? いや……そういう話は聞いてないですね、今のところ」
「後継ぎ出来ねーと店やべぇじゃねえか! よし、このオレが喝入れてきてやる」

 それ結構余計なお世話だと思いますけど、という言葉をグッと飲み込んでいる間に、三井さんは既に立ち上がっており「安心してろ、後輩クンよ」と言うと、何故か自信満々な表情でオレの肩を叩き、赤木さんと談笑している魚住さんの方へとずんずんと歩いて行ってしまった。
 それは、夏の終わりと秋の始まりが重なったような気候の時期で、まだ名前さんと知り合ったばかりの頃のことだった。

「……さん! 仙道さんてば!」
「ん? あ、どした?」

 いつの間にか、十ヶ月ほど前のことを回想してしまっていた。
 肩肘をついて頬杖をついているオレの目の前にあるのは、見知った後輩、もとい週刊バスケットボールの編集者兼記者である彦一の顔だった。挟んだ机の上に乗り上げんばかりの勢いだった彦一は「仙道さんはホンマ変わらん人やなあ」なんていいながら座りなおしている。

「もう勘弁してくださいよ、インタビュー中なんですから……」

 ワリィ、ととりあえず一言謝る。申し訳ないという気持ちが一応はあったからだ。
 なんであの時のこと思い出したんだっけ。ああそうだ、確か彦一からされた質問が「次の直接対決でチーム初の優勝が決まるかもしれないですが、意気込みを聞かせてください」だったからだ。
 最後に名前さんと会ったのはちょうど一週間ほど前。リーグ期間中のスケジュールがハードなのはオレだけじゃなく、彼女も同じだった。試合に練習にと取材で飛びまわり、それを文に起こしてはなんやらかんやら細かい仕事も山積みらしい。ましてやリーグ戦も終盤になってきたこの時期である。どちらから言ったわけでもないが、お互いに忙しないのを理解していたので電話やメールで連絡を取るのみにしていた。
 というか、オレは名前さんの顔を見たら抱きしめたい気持ちを抑えられないだろうし、さらにその先を我慢できない自信があって、それで忙しく疲弊しているであろう彼女を困らせてしまうのは忍びなかったからだ。って、こんなことはエラソーに言うことじゃねえけど。
 この間、寝落ちしかけているのか眠ってしまっているのか、そんな様子の名前さんに自分が求めた「ご褒美」という言葉。そんな言葉を使った自分に驚いた。でもそのすぐ後に思ったのだ。ああ、三井さんがあの時に言っていたのはこういうことだったのかと。
 だから全て済んでから、もっというならキリがよくて、せっかくならタイミングもこれ以上ないってぐらい最高なほうがいい。自分の中にカッコつけたい、という感情があるだなんてその時まで知らなかった。
 名前さんにその言葉が届いていたのかはわからないけど、まあいいや。どうせいつか、そんな時は来るものだったのだから。

「……で、どうですか? 直接対決に向けての意気込みっちゅーか、もう読者がシビれるような一言お願いしますわ!」

 彦一の求めるような「シビれる一言」なんて思いつかないし言えないけれど、このリーグ戦に関してならばとっくのとうに、なんなら始まる前から固まっていた。目の前に掴めそうなものがあるなら、掴むしかない。逃してもいいや、なんていうつもりでやってるのならば、オレはいまプロなんて呼ばれている筈がないからだ。
 今まで何度もそれを寸でのところで逃してきた。指先に触れそうだったものにほんの数ミリ手が届かず、目の前で掻っ攫われていく。そろそろ、そんなのにもサヨナラしたい。

「負けるつもりでバスケやってたことなんてねえからな、もちろん勝つよ」

 意地とか決意とか、色んな物を乗っけた直接対決。相手は現リーグ戦一位。二年連続リーグ優勝のチームとの試合は、もう今週末に迫っている。


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