魂の余燼(T)
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最近の胡蝶を見て、椎名はあることを思っている。
自分は悪い意味で「葬儀屋」に必要な力を持っている。
圧倒的な力と暴力的な衝動。
でも胡蝶はまるで逆。
いい意味で「葬儀屋」に必要な力を持っていると思う。
同情心とそれを形にする会話術だ。
きっと胡蝶のような存在が真の「葬儀屋」なのだろう。
もちろん胡蝶は、こと戦闘に関してはからっきしダメでそこは椎名の方が何倍も上なのだが、相手の心を落ち着かせて納得させて輪廻の輪に戻すという「葬儀屋」の本分で見れば、胡蝶はうちの事務所全体で見てもトップクラスに入るだろう。
まだ「葬儀屋」になってどれくらいだ?と椎名は指折り数えた。
当然椎名より経験は浅い。
もしかして死なずに生きていたら、すごい人間になっていたのではと思う。
「椎名君、楽な仕事もらってきたよ」
と、そんなことを考えていたら本物の胡蝶が現れた。
背はこんなにちっこいのにな、と椎名は思う。
「楽な仕事ってなんだよ。電話番か?」
「違うよ。さっき話してたでしょ?」
さっき話してた会話といえば、椎名とのコンビが復活してから仕事が大変になったという胡蝶の愚痴だ。
俺のせいじゃない、とだけ返したことを椎名は思い出した。
椎名と胡蝶が一時コンビを休止していた時は、胡蝶にあてがわれる仕事も楽なものだったという。
決して能力不足という訳ではない。なんせ椎名の代役はあの狭霧だ。
だが胡蝶のその時の精神状態を考えれば当然の処置だろう。
その原因を作った椎名本人がそう思うのだから間違いない。
配属初期にしていた仕事と同じランクの仕事に比べたら、今の仕事は大変だろう。
実際、影になって実力行使に至る場合だってある。
そんな時でも、胡蝶は随分やるようになったが。
そうだ。それで椎名が「衝動」に負けそうになって、一人で別室に行っていたのを胡蝶が心配していたんだ。
もちろん「衝動」のことは言っていない。
心配させたくないから…いや、執拗に心配されるのが鬱陶しいからだ。
だが話さない分、胡蝶は勝手に疲労が溜まっていると勘違いしたらしい。
『やっぱり前線に復帰したばかりの椎名君にはちょっと大変なんだよ。常磐さんと交渉してくる!』
そう言って胡蝶は立ち上がって執務室に行ったんだった。
「どんなだ?」
そう言って椎名は胡蝶から仕事の書類を受け取った。
きっと常磐のことだ。
楽な仕事とか言って胡蝶を丸め込んで厄介な仕事を押し付けたに決まってる。
しかし胡蝶が持ってきた仕事は本当に楽な仕事だった。
「滝川富雄さん。81歳。奥さんは5年前に亡くなってる。家族は娘が一人。滝川美奈子さん、42歳。生まれつきの身体的障害のため介護が必要。今まで滝川富雄さんが世話をしていたみたいだけど、死亡後は親族が病院に入れてる。身体障害に伴う病気もある。
滝川富雄さんは元警察官で、亡くなった当時は定年してそのまま同じ警察署で指導員をしていたみたい。
死因は交通事故。
雨の道を走っていた時にいきなり小動物が飛び出し、避けた拍子に路肩の石垣にぶつかって後続車両にも追突されてる。病院に運ばれたけどそこで死亡」
胡蝶がここに書いてあることを見事にまとめた。
いつまでたっても書類情報の把握が苦手な椎名にとっては、こんな風にまとめて言ってくれるととてもありがたい。
椎名は活字の羅列を追うのを止め、右上の写真に目をやった。
81歳にしては大柄な男だ。
でもその体と同じぐらい大きな心を持っていそうなことが表情から読み取れる。
高齢になればなるほど、現世に対する未練はあまりないと言える。
椎名はプロフィールに続く最も大事な項目に目をやった。
現世に滞留している理由。
それは娘。
当然だろう。
独り置いてきた上に障害と病気を持っている。
しかし特別珍しいケースでもない。
今の時代、両親に先立たれる子供なんてごまんといる。
こんなので輪廻の輪から外れるようなら「葬儀屋」が何人いても足りなくなる。
たぶん滝川富雄は状況が混乱してたまたま現世に居残ってしまったのだろう。
その辺の話をして、速やかに輪廻の輪に帰ってもらおう。
もちろん話をするのは胡蝶になるんだろうが。
「よくこんな仕事がもらえたな…あんた、何を言ったんだ?」
「特に何も言ってないよ。椎名君が疲れてるから楽な仕事にしてくださいってお願いしただけ」
あの常磐ならいくらでも人を言いくるめて辛い仕事を押し付けてきそうなものだが。
でも胡蝶のこの菩薩のような瞳で訴えられたらさすがの常磐も弱いのだろうか。
幻影(ファントム)の異名で恐れられていたのも昔の話。年月は人を変えるか。
「そしたら狭霧さんがこの仕事くれたの」
そうでもなかった。
結局狭霧か。あいつは本当に胡蝶に甘いな。
「とりあえず、この仕事から行ってみない? 急ぎのはなさそうだから」
「楽に越したことはないが、他は大丈夫なのか?」
椎名は読み終わった書類を胡蝶に返しながら言った。
「大丈夫。もし緊急の仕事があったら他の組に回してくれるって」
「それも狭霧が言ってたのか?」
「うん。そうだよ」
まったく。
常磐もそれで納得してるのだろうか。
でも楽に越したことはない。
もしまた影と対峙することになれば、「衝動」だっていつ目を覚ますか分からない。
椎名は銃をホルスターに収めながら思った。
以前は刀を振るうことを楽しみとさえしていたが、今ではこの銃を握りたくないと思っている。
でも……と椎名は思う。
もし椎名から戦闘力を奪ったら一体何が残る?
確かに銃でもそれなりに仕事はこなせる。でも刀ほどの絶対性はない。
ならば、椎名に「葬儀屋」の仕事を続けていけるのだろうか。
上層部も椎名の力、影に対する殲滅力を買って今までの所業を大目に見てきた。
また今度「衝動」を爆発させることがあれば、上も椎名を見限るだろう。
かと言って刀を握っていた頃に戻ることもできない。
現在の椎名の存在価値とは何か?
「どうしたの?椎名君。難しい顔して」
椎名は口下手で、胡蝶のように相手に優しい言葉を掛けることなんてできない。
そのうえ力も手放した。
翼をもがれた悪魔はどこまで堕ちればいい……?
椎名は少しだけ胡蝶を見つめ、そして「なんでもねぇよ」と言ってサングラスを掛けた。
相手はすぐに見つかった。
白いYシャツに黒とコゲ茶のチェックのスラックス。上には紺のジャケットを着てる。
「滝川富雄さん…」
胡蝶が穏やかに声を掛ける。
滝川富雄はゆっくりこちらを向いた。
胡蝶を、そして次に椎名を見る。
驚いた様子はない。
そして再び顔を正面に向けた。
滝川富雄がいたのは自分の家でもなければ交通事故の現場でもない。
白い大きな建物の前だ。
小高い山の中に立っているその建物は、緑に囲まれていてとても静かだ。
その建物を過ぎ、この山を越えるために繋がっている道路の脇でその建物を少し見下げるように滝川富雄は立っていた。
椎名もその建物を見る。
白い壁に太陽の光が反射して、サングラスを掛けていなければ眩しかっただろう。
滝川富雄目当てに来たから、この建物がなんなのかあまり気にしていなかった。
ただ広い敷地に建てられた3階建ての、窓がたくさんある建物だ。
「滝川さん。はじめまして。私、胡蝶といいます」
滝川富雄からの返事はない。
「ここで何を見ておられるんですか?」
胡蝶が聞く。
死者が現世に残る理由は、恨みつらみか、後悔か心残りか。
滝川富雄なら娘を残してきた後悔と心残りだろうか。
どちらにしろ強い感情だ。
こうやって聞いていけば、感情の捌け口を求めてつらつら話し始める。
「病院をね……見ているんですよ」
しかし滝川富雄は違った。
その一言を言ったっきりまた黙ってしまった。
しかしここが病院だということは分かった。
病院という単語にある情報が思い浮かぶ。
「ここの病院はなんていう名前なんだ?」
椎名が少し離れたところから聞く。
先に振り向いたのは胡蝶の方。
少し驚いた表情をしている。
椎名君も仕事するんだ?という驚きが表情から伺える。
その表情に椎名は少し苛立ちを覚える。人をなんだと思ってるのだろう。
その胡蝶に釣られて滝川富雄も椎名の方を向く。
そして「平松総合病院」と短く答えた。
書類にその名前があった。
滝川富雄は交通事故後、この病院に搬送されている。
しかし滝川富雄はほぼ即死という情報だったはず。
この病院でなにかあったとは考えにくい。
やはり娘の心配だろうか。
いや、もしかして即死だったため自分が死んだことに気づいていないのか?
その可能性もあり得る。
何にしてももう少し情報がいる。
「なんでこの病院を見てるんですか?」
いつもは聞き役に徹する胡蝶が珍しく話題を振っている。
どうにか滝川富雄を説得する糸口を見つけようというのだろう。
いつものやり方とは行かなくなってしまったが、それでもうまくやっている。
ここで慌てて黙ってしまわないだけマシだ。
「この病院になにか思い出が?」
胡蝶が滝川富雄に会話を促す。
しかし滝川富雄の返事は意外なものだった。
「あなたたち……死神でしょ?」
滝川富雄が体ごと胡蝶たちの方に向き直った。
死神というのは聞き慣れてるが、やっぱりいい気持ちはしない。
しかし次に滝川富雄はとんでもないことを言い出した。
「事故を起こした時ね、見たんですよ。あなたたちと同じようなのを」
胡蝶はびっくりして目を見開く。
椎名も一瞬驚いた。
しかし椎名たちは死神でもなければ、以前に滝川富雄に会ったこともない。
「葬儀屋」とは死者を導くもの。
生きている人間を相手にすることなどない。
例えそれが死にそうな人間であっても。
だから滝川富雄が生前に「葬儀屋」を見るわけがない。
きっと木々のゆらめきが死神に見えたのだろう。
しかしこれで一つの事は明らかになった。
滝川富雄は自分の死を自覚している。
死神とはちょっと違うが、死者を導く者という意味では同じだろう。
「私を迎えに来たんですか?」
滝川富雄が始めて胡蝶と椎名の顔をまっすぐに見て言った。
「そうだ。あんたの葬式、挙げに来たぜ」
椎名はサングラスを直しながらいつものセリフを言う。
胡蝶が椎名を振り返って不服そうな顔をする。
言いたいことは分かる。
椎名たちは滝川富雄の言う「死神」ではない。
でも滝川富雄を迎えに来たのはその通りだし、要は輪廻の輪に返せればいいのだ。
「そうですか」
滝川富雄は再び正面を向く。
「この病院からの帰りでした。走りなれた道ですし少し考え事もしていたので、無意識のうちにスピードが出ていたのでしょう。気づいたのは何かが車の前に飛び出した時でした。たぶん狸かなにかだと思います。咄嗟のことで慌ててブレーキを踏みハンドルを切りましたが、雨が降っていたせいで車はスピン。そのまま路肩の石垣に突っ込んでしまいました。急なことで後続車も止まれず、私の車に突っ込んできました。本当に申し訳ないことをしました」
滝川富雄が知らない誰かに謝っている。
でも相手が死んだかどうかは分からない。
後続車は滝川富雄の車の運転席側に正面衝突したらしい。
でも後続車はバンパー側だ。そこまで酷い怪我を負うとも思えない。
どちらにしたって赤の他人だ。
「その事故が心残りですか?突然のことだから?」
胡蝶が優しく尋ねる。
現世に留まらせる理由が事故のことではないことは胡蝶だって知ってるはず。
でも、胡蝶が本当の理由を滝川富雄に話してもしょうがない。
滝川富雄本人のことだ。本人が自覚しなければならない。
だからまずは、自分が死してなおこの世に留まっている理由を自分で自覚しなければならない。
いろいろ遠回りだが、説得事に焦りは禁物だ。
「私は元警官です。いつだって死を覚悟していました。その時もこれで死ぬのだと思いましたよ」
だからといってすぐに死を受け入れられるものではない。
でも胡蝶は何かを言いたいのを我慢して滝川富雄に話させた。
「……私はどこかへ行くべきなんでしょうか?」
滝川富雄が尋ねる。
その目は、不安なのか悲しみなのか、どちらとも取れなかった。
「そうですね。でも今、滝川さんがここにいる事には強い思いが関係しているはずなんです。その思いの整理するお手伝いに私たちは来たんですよ」
胡蝶は笑顔を浮かべて言う。
なにも怖いことはない。
そう言いたかった。
「整理…ですか…」
滝川富雄がボソリと呟く。
「分かりました」
これで任務終了。
あとは滝川富雄がゆっくり消えて終わり。
なんて呆気ない。
でも、元から楽な仕事なのは分かってたんだ。
帰って報告書をまとめたらまた別の難しい死者と向き合わなければならないが、多少の気分転換にはなった。
椎名は帰る準備をする。
しかし、滝川富雄は一向に消える気配がなかった。
また病院の方を見つめて物思いにふけっている。
胡蝶は戸惑っている。
滝川富雄はなにを理解して『分かった』と言ったのか。
さらに声を掛けるべきか。
それとも滝川富雄の心が納得するのを待つべきか。
でも、いつまで待てばいいかが分からない。
胡蝶は意を決した。
「滝川さん?何か思うところがおありですか?私たちは滝川さんの話を聞きに来たんです。なんでも話してください」
滝川富雄は動かない。
「娘さんのこと……ですか?」
埓があかないと判断した胡蝶は自分から娘の話を振った。
その言葉に、滝川富雄は今までで一番大きな反応を示す。
しかし、怒ったり狼狽えたりする様子はない。
「……私は死にました。でも未だにこの世界に居残っている。もちろんここに居続けてよい訳ではないことは分かってます。もし然るべき場所に行くべきなら、そこへ行きましょう。ただ…」
そう言って滝川富雄は胡蝶を見た。
胡蝶は話を続けるようにと優しく頷く。
「ただこの世界に未練があってここに居続けたとしたら、私はどうなりますか?」
予想外の質問。
自分はここに居るつもりはないと言いながら、ここに居続けた場合のことを聞く。
なぜなのか。
もし何かの感情によってここに居続けるとしたら、それはやがて「影」を呼び「影」に呑まれ、そして「始末」の対象となる。
それは最悪のケースだ。
それを本人に言えば行動を促すことはできるかもしれない。
ただ「影」の存在を知ると、無意識にそれを呼びやすくなってしまう。
安易に伝えるべき事ではない。
「娘さんが心配ですか?」
胡蝶はなにを言えばいいか分からず、とりあえずそう言って場を繋いだ。
娘にいったい何がある?
身体障害者でも今は安全な病院に居る。
生まれつきの身体障害者として産んだことを申し訳なく思っているのか。
でも今まで42年間、立派に育ててきた。
もちろん、娘を愛する親がそれで満足とはいかないだろうが、ある程度納得出来るのではないか。
「……私がこのままここで娘を見守っていたらどうなりますか?私は地獄に行くのでしょうか?」
地獄へは行かない。地獄を見ることにはなるかもしれないが……。
ただ、脅すような真似はできれば避けたい。
胡蝶は何を言えばいいか分からず、思わず椎名の方を振り返ってしまった。
ここで胡蝶の経験の浅さが出てしまう。
二の句が告げられず、助けを求めて後ろを振り返る。
警官としての洞察力を持つ滝川富雄が、この行動の意味に気づかないわけがない。
つまり、未練を残して現世に留まるものに明るい将来はない、ということは気づかれてしまった。
「分かりました」
滝川富雄はそう言ったっきり、もう胡蝶を見ることはなかった。
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